秋の恋人

 

 

 秋は、あまり好きではないのかもしれない。
「あの日」から18年経った今も、色づいた葉を、それがかれて散る様をみると、どうやっても思い出してしまうから。

悲しい気持ちになってしまうから。
そう。「あの人」は秋が好きだと言った。
目に鮮やかな葉を観るのも、冬を迎える冷たい風も、全てが愛しく感じられるのだ、と優しく微笑んで語ってくれた事があった。

「あの人」の事を話そう。
「あの人」にあったのは当時通っていたピアノ教室だった。

「もうピアノやめる」
そう親に駄々をこねた9歳のあの日。目を真っ赤に腫らして、
サッカーボールではなく楽譜の入ったバッグを持ち、教室へ行った日・・・・・・。
 
 やる気が出なくて、いつもの倍は手が動かなかったのを良く覚えている。


先生に怒られながらも今日で終わりだから、今日だけ我慢すればいいんだから、と自分に言い聞かせ、
その日を必死に耐えていた。



  まぁ手を抜いたツケが回ってきて、残されてしまったのだけど。
いつもより30分も遅く教室を出て、つりそうな指を振りながら帰る仕度をした。
広いビルのようなつくりになっている教室を出るためにエレベータを使って1階まで降りた。

そこで、あ、と小さくはない悲鳴を上げる。
(楽譜、置いて来ちゃった・・・・・・)
その日で辞めるつもりだったので、どうも何かを残してくると言うのは気持ちが悪かった。
面倒ではあったが回れ右をした。




                   すると




ポーンというピアノの鍵盤を叩く音が聞こえた・・・・・・・

(あれ、誰かな?
確か、僕の後にはレッスン誰も入ってなかったと思うんだけど)
怪訝に思って近付いてみる。

どうやら僕が今まで使っていた教室から響いているわけではなさそうだった。

その隣にある、今まで入る必要がなかった部屋。

また、ポーンという音。


(誰?先生かな?)



高鳴る心臓を押さえながら、半開きになっている戸から中を覗く・・・・・・・・・


すると、逆光で見えないが、女の人のものと思われる影が立って、
グランドピアノの鍵盤に触れているようだった。


(なにをしてるんだろ?ここの生徒さん?)


しばらく音を響かせた後、いすを引き、腰掛け、
ピアノを弾き始めた。






「―――――!!!」



世界にはピアノの音しかないんじゃないか、そう思わされるほどその音は強烈だった。


力強く、激しく、時に繊細に――――そして悲しく。

音が流れる、という表現を使うが、まさしくその通りだった。
しかし小川のせせらぎのようにやわらかなそれではなく、嵐の中の濁流のように流れるのだ。


その10の細くて長い指から流れ出すその音の流れは、
その音が聞こえたものに襲い掛かり雑念に満ちた世界から一時だけ連れ去ってしまう。


心地よく奏でられる音に震える。
秋の日差しが差し込む部屋に満ち溢れる清らかな音。

全てを忘れ―――――――――














随分と長い時が経った気がする


世界の全てだったピアノの音が止む。
「すごい」
ようやく僕の世界にピアノ以外の音が戻った瞬間だった。
その感嘆の声が聞こえたのか、ふと目が合ってしまった。
「あぁ、ごめんなさい。使うの?ここ」


椅子から離れ、その場を去ろうとするその人に
「あ、いえ、違うんです。ただ、ピアノの音がきこえたから・・・・・・」


落ち葉が散る音が聞こえた。
「あ・・・あの・・・・・・ここの生徒さんなんですか?」
ううん、と首を横に振る。「今はもう違うけど。でも時々弾かせてもらいに来てるのよ」
優しそうな瞳で、白と黒の鍵盤に目をやる。
「すごいピアノお上手なんですね。びっくりしました」
お世辞なんかではなく、素直な感想だった。
本当に、それ以外にどう表現したらいいのかわからない。相手も謙遜せずに「ありがとう」とだけ返した。


その人はそういう事を言われるのに慣れているようだった。
「私の人生、ピアノしかなかったから」
ちょうど風が窓を叩いて、僕には、何を言っているのか聞こえる事はなかった。



「でも弾く人によってこんなにも音に違いが出るなんて知りませんでした」
僕だったらこんな音は出ない。幼いながらも本能的に実感していた。
「ずっと続ければこのくらい誰にだって出来るようになるわよ。そんな小さいのに自分の才能を自覚しちゃだめよ?」
おかしそうに笑うが、その言葉はただ心に刺さるだけだった。


「無理ですよ・・・・・・」


「どうして?」


「・・・ピアノ、やめようと思って居ますから」


別に同情を誘うわけではないが悲しげな声でうつむいた。ふぅん、と試すような視線で僕を見下ろす。


「ねぇ?ピアノ嫌い?」


「・・・・・・嫌い・・・・・・って訳じゃないんですけど。サッカーをしている方が楽しいです」


「じゃあやめた方がいいわね」


あっさりと僕が期待していたはずの答えが返ってきたことに思わず面食らった。


「好きじゃないものなんて長続きはしないし時間の無駄だもの。違う?」


うーん・・・・と更にうつむいてつま先だけを見る。あの人の顔は見られなかった。


「迷っているの?」


「・・・・・・」


「迷うことなんてないでしょ?」


「でもお母さんは――――」


「お金を払うのはお母さんだけど、やるのは貴方だもの。貴方がどうしたいかが問題でしょ?」


その人は僕の方に近寄り、目線を合わすようにしゃがみ


「答えは出ている。・・・違うかしら?」


僕は・・・・・・・・・
「ぁ、あのぅ。一つだけ、お願いしても・・・・・・いいですか?」


「?どうぞ?」


「あの・・・『水の戯れ』を弾いて欲しいんです」


「あぁ、『ドビュッシー』の?」
はい、と大きく頷いた。本当は作曲家なんて知らなかったが、多分有名な人らしいことはわかっていたので、とりあえず。
「いいわよ」


「あ、でも楽譜―――――」
「大丈夫。私も好きでね、ドビュッシー。暗譜してるわ」
すっと立ち上がって、軽やかにピアノの方へ歩いて行った」
髪の毛をふわっとかきあげると深呼吸して呼吸を落ち着かせる。
その手が鍵盤に触れた瞬間。


                             音が奏でられた

水が撥ねるように、軽やかな出だし。とてもクリアでしっとりとしていて。
 昔母が良く聴かせてくれた曲だった。確かこの時もついこの前に母が聴いていたのを覚えていたのだろう。
あの人の手は滑らかに白と黒を走り、まるでそのものに意思が宿っているようだった

 




 終わると同時に、いろいろなものが心の奥底からあふれ出てくるような気がした。


失っていた楽しさ、忘れていた感動、鍵盤から音が出るという喜び。


言葉に出来ない何かがどっと押し寄せてきた。もう拍手なんかじゃ足りないくらい感激していた。


それだけのものを与えるくらい、彼女の才能はすごいものだったのである。
弾き終わったあのひとは、照れたように笑った。

「今日はありいがとうございました」
「夕日が西に傾いたころに、忘れ物をしっかり握ってお礼を言う。
「いいのよ別に。私の好きで弾いたんだもの」


「あの・・・・・・」
「ん?何?」
「・・・・・・いえ、なんでもないです」


そうだ。答えはもうでていたんだ。





次の週も、あの部屋からピアノの音が漏れていた。
僕は




「あら、やめたんじゃなかったの?」
冷やかすような口調であの人は僕にいう。


「これが答えですから」


楽譜の入った手提げカバンを見せ、そう答えてみせた。



「そういえばまだ名前聞いてないね」


「え、あ、『弐(ふたり)』です。「北崎 弐(きたさき ふたり)」


「へー、変わった名前。次男とかなの?」
安直でしょう?うちの親。と笑って見せる。


「私はねー「片瀬 祈(かたせ いのり)、あ、響きが似ているね」
これ以来、彼女は僕を「ふたくん」と呼んだ。ふたりだと自分の名前と被るから、とか。


いつも友人には「北崎」とか呼ばれていたので、下の名前(?) で呼ばれるのはなんだかこそばゆかった。

僕は、レッスンが終わるといつも隣の部屋に通った。いつも来ているが祈さん以外来ているのを見た事がない。


「もらったの。この部屋」


あっけらかんとそういわれた。
「家だとおもいっきりひけないのよ。マンションだから。んで、前に通ってたここで弾かせてもらっているの。


本当は空き時間にちょこっと弾ければいいと思ってたんだけど、先生が好きに使っていいっていうからさ」


ここのピアノ教室は、ビルのような感じの作りになっていて、ピアノだけではなくヴァイオリン、エレクトーン、チェロ、フルート
更にはハモニカまで受講する事が出来るようになっている。
ピアノは2回で、そのフロアには3つ教室がある。
その一つを個人がほとんど所有しているというのは・・・・・・結構すごい事なのだが。



祈さんにはそれだけの事をする価値があるのだろうとなんとなく考えていた。
まぁこの教室側としても「教師」として取り込もうという思惑もあったのかもしれない、と、大人になった今では思う。

 


いつだったか。
いつもとかわらずに、祈さんにピアノを弾いてもらっていた時だった
「ふたくん、秋は好き?」
ピアノを弾きながら、僕に聞いてきた。窓の外の木々が鮮やかな頃。
「んー、あんまり好きじゃないかもしれません。長い休みもないし、どんどん寒くなって日が短くなって、なんだかさみしいですし」
「そうよね・・・」


曲調が、少し沈んだ気がした。でもすぐにもとにもどり
「私の周りにね、秋が好きな人っていないのよね。みんな夏か冬。中途半端なのかしら?」
私は秋が好き。
「少しアンニュイな雰囲気も、寂しげな木々も、冬に向かう冷たさも。全部が好きよ。
目に鮮やかな葉を見るのも、冷たい風も、全て愛しく感じるの」


語るような、うたうような口調だった。


「ううん、でも好きとか嫌いとか、そんなものではかってはいけないものなのかもしれないわね。
だって日本で生きていれば必ず巡ってくるのだし、去ってしまうのだし」


せっかくよっつしかないのに


「わかんない、か」
「あんまり」
曲が、儚げに余韻を残し、終わった。


「でも」


ピアノに鍵をかけ、帰り支度をしている祈さんに
「好きになれるかもしれません」
「?」
「僕、寒いの好きじゃないんですけど―――――――嫌いではなくなれると思います」
その言葉を聴いて   笑った


祈さんはいつも笑っていた。いや、微笑んでいたといった方が似合う。
僕にピアノを聴かせてくれる時、僕のピアノを聴いてくれる時。
なんでもない時も優しく微笑んでいた


けれどあの日。

いつものように、レッスンを終え、ドアを開く。



いなかった
  誰一人いなかった。

いつもいるはずの音もない。ピアノは整然と鍵をかけてすましている。

その次の週も
その次の週も

その次の週

「祈さん?!」

ピアノの椅子に腰掛、窓をじっとみていた。
やや間があって「あぁ、ふたくん」とぼぅっとして言った。
それでも祈さんのピアノはすごかった。

その次の週。

その次の週から来たり来なかったりがずっと続いた。

冬も間近な、晩秋の事。




「祈さーん・・・・・・・・・」

今日もいない、か。

そう思ってドアを閉めようとすると、床に何かがある事に気付いた。
なにか





「祈さん!!!!」
彼女の長い髪がぼさぼさにひろがり、うつぶせになる形で倒れていた。
「祈さん?祈さん!!」
「ぁ……ふたく……」


意識があるようだ。しかしどうも尋常ではない。顔色も悪いし、これはまずいと本能で感じた。
「大丈夫ですか?!いま先生を、きゅ・・・救急車を!」
立ち上がろうとする僕の上着をつかんで、首をゆっくり振る。
「な?!」


「・・・・・・もう、ま・・・にあわない・・・・・・から・・・・・・いいの」
「そんなこと!!!」
「解っていたから。いつか、こうなるって」


その瞬間、前にあった記憶がふっと浮かび、もどってきた



「祈さん、ここって―――」
祈さんが来ていた時に質問しようとしたら、彼女は指を折って、何かを数えていた。


「いのり……さん?」
「ん?」
「何を数えてるんですか?」
にこりといつもの笑顔で
「あと、幾つ季節が見れるかなぁって」
その時はまったく気にもしなかったが、それはつまり―――




「もうちょっと・・・・・・長く生きれるはずだったんだけどなぁ」
まるでゲームオーバーしたような言い方で、頼りなげに言う。
「そんな・・・なんで!」


「いいじゃない、いつかはみんな死ぬんだからさ」


「そんなのよくない!やっぱり・・・救急車を」
「お願い」


子供のように僕の胸にしがみついてきた。
今までの彼女からは考えられないような
「独りは・・・・・・いや。
そばに、いてほしいの。死ぬ時には、だれかに」

「祈さん」

いつものように、にこりと微笑んだ。ごめんね、とも。

「ねふたくん……白い部屋……思い浮かべて」
こんなときに何かと思ったが、祈さんの目は真剣だった、
「そこにテーブルがあって・・・・・・・・・・・・椅子を・・・・・・・おもい・・・・・・・・うかべて?」
おもいうかべた?という問に、頷く。「いす、いくつある?」


「4……つ」


くす、と力無く笑い


「じゃあ幸せね。きっと」
「祈さん、なんなんですか?」


「それってね自分の死を、看取ってくれる人の数なんだって」
目をつむりながら、
「私0だったの。いすなんて……なかったの
看取ってくれる人なんていなくて孤独に死ぬんだって」


看取ってくれる人?ぞくりと背中に何かが伝う


「でもはずれね。一人でも、いてくれたわ」
「そんなこと言わないでください!!」
「不幸なんかじゃないわ」


少し涙を浮かべた僕の頬に手を当てる。それは悲しいほどに冷たかった。


「秋は、短くてもすごく輝いていたもの。散る葉っぱは、みんな綺麗に……色づいて散・・・たもの……」


「・・・・・・・・・」

「ね、枯れる前に・・・・・・散るのも、素敵なものでしょう?」
遺影が若いままだもの。冗談めいて言う。しかし、頬に触れている手はかすかに震えていた。

「楽しかった・・・・・・・・・ふたくんに会って・・・・・私のピアノ聴いてくれて。
すごく嬉しかった。他の誰に弾いてあげるより。ずっとずっと」

「こんな体だったからプロになれなかったけど、小さな演奏会を聴いてくれて、
褒めてくれて、すごくすごく・・・・・・・・・幸せだった」
「祈さ・・・・・・!」





「ふたくん、                                    

















                                      ありがとう」


最期の言葉は、すごくすごく弱々しくて、澄んだ綺麗な空にも届かなかった。












しずくが












一粒だけ落ちた











秋は、どうしてこんなに儚いのだろう。
こんなにも美しい季節なのに、それでもなにか憂いをおびているのは、



そして、この寂しい季節は特にピアノを弾きたくなる。
祈さんもそうだったのだろうか




「北崎さん、そろそろお時間です」
「あ、はい」
僕はゆっくりと立ち上がり、白いネクタイをきっちりと締めた。



そのステージの光は、秋の憂いとは関係なく、強く白い。
そでから舞台へ出ると、客の拍手がいっぱいに響いた。

一礼して、席に着く。


コンサートの1曲目は、


ドビュッシーの「水の戯れ」






 

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