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ひだまり ― Side kanami ―
を先に読んでから読むとよりいっそう味わい深く感じられます)


ひだまり

― Side Hideyuki ―




 ―― その写真を見せられたのは、九月に入ってすぐのことだった。

「どうよ? 可愛いだろ?」
 俺の肩を組んで自慢げに覗き込んでくる祐太(ゆうた)を鬱陶しく思いながら、俺は渡された写真に視線を落とした。
 祐太の自慢の彼女、汐里(しおり)ちゃん。
 夏休み前から付き合っていたというその彼女の姿を見るのはこれが初めてだった。
 人の彼女なんて特に興味もないのに、延々とノロケ話を語る祐太にまとわり付かれた挙句、強引に彼女の写真まで押し付けられたのだから迷惑極まりない。
「で、どうよ?」
 祐太に期待に満ちた瞳で見つめられ、俺は溜め息を吐きつつ写真を机の上に放り出した。
「どうって、……まあいいんじゃない」
 その写真に慌てた様子で飛び付いた祐太が、恨みがましい視線をこちらに向ける。
「お前なぁ、人の大切な写真を投げるなよ。汐里ちゃんに傷が付いたらどうしてくれる!」
 一方的に写真を押し付けておいて良く言うよ、と思いつつ、俺は祐太が大事そうに掴み上げた写真に何気なく眼をやった。
 そこに映る色白で髪の長い少女の恥ずかしそうな笑みと視線が合う。軽薄そうな外見の祐太とは不釣合いな、儚げで真面目そうな女の子。
「……それにしても、お前がそういう優等生タイプが好きだったとは思わなかったな」
 いつもの俺からは考えられないような余計なひと言だったが、思わずそんな台詞を口にしてしまうほど、初めて見た"汐里ちゃん"の姿は意外だったのだ。祐太の話からもっと快活で可愛らしい子を想像していたから。
「へ?」
 間抜けな声を漏らして祐太が顔を上げた。
 そのまま、まるで宇宙人でも見るような目つきで正面から俺の顔を見つめてくる。
 俺は内心ぎくりとした。やはり失言だったか。
「優等生? 汐里ちゃんが?」
 祐太は怪訝そうに眉を寄せ、写真と俺の顔に交互に視線を走らせた。
 その眼差しが煩わしい。そう見えたからそう言ったまでだ。大体、"どうだ?"って訊いて来たのは祐太の方じゃないか。つい口が滑ったとはいえ答えてやったんだから、含みのある視線を向けるのは止めて欲しい。
 俺は不愉快さを隠しもせず、黙って祐太を睨んだ。
 もっとも、長い付き合いで俺の睨みなんか慣れっこな祐太には、大した効力もないと解っているのだが。
「ハハッ、ヒデ、お前、誤解してるだろう?」
 思った通り、少しのダメージも感じられない様子で笑う祐太に、俺の機嫌がますます下降する。
 今の俺を見たら、男だってビビって口を噤むはずだ。
「誤解ってなんだよ」
 けれども祐太は更に笑みを深くして、俺を見据えながら前の席の椅子を引き寄せ腰を下ろした。そして、俺の机に肘を付き、上目遣いにこちらを窺ってくる。観察するような、というより明らかに俺をバカにしたような視線が苛立たしい。
 これだから、幼馴染みは手に負えない。
 俺と祐太は生まれた頃からの腐れ縁なのだ。小学六年生の春休みに祐太一家は隣の市へ引っ越してしまったので、中学時代は別々だったが、高校に入学した途端こうして再会を果たしてしまったわけだ。同じクラスの名簿に祐太の名前を見つけた時は、正直眩暈がしたものだ。
「誤解だから誤解って言ってんの。ほら、写真良く見ろよ。汐里ちゃんはこっち、髪の短い方」
 その言葉と同時にこちらに差し出された写真を、俺は慌てて見直した。無関心さを取り繕うのも忘れるほど、祐太の台詞は予想外だった。
 確かにそこには二人の女の子が映っていた。大人しそうな感じの女の子はさっきも見たが、その隣にももう一人明るい笑顔を浮かべる少女の姿。"髪の短い方"といっても茶色の髪は肩くらいまであり、大きな瞳が印象的な可愛い子だ。彼女が華やかな薔薇だとしたら、最初に見た少女は霞み草みたいなものだろう。明らかに彼女の方が人目を惹く。それなのに、どうして見落としてしまったのだろうか。
 俺が納得したのを察したのか、祐太の奴がうんうんと頷く。
「俺の汐里ちゃんを無視するとは、失礼な奴だよな。……っていうかヒデ、お前の方こそこういう優等生タイプが好きなんだろう? 汐里ちゃんが眼に入らないほどこの子に釘付けだったのか?」
「なっ、バカ言うなよ、俺は別に……」
 ニヤニヤ笑う祐太の視線が不快だ。無視してしまえばいいのに、自分の身体が制御できない。奴の視線に晒されて、不覚にも頬が熱くなってくる。
「おっ、赤くなっちゃってこの〜! えっと、この子は確か汐里ちゃんの友達で、カナちゃん? いや、カナコちゃん……だったっかな? 夏休みに一度会ったけど、素直そうないい子だったぜ」
「無駄話してないで席に戻れよ。授業始まるぞ」
 俺は祐太の台詞を無視して、机の中から数学の教科書を引っ張り出した。これ以上、とんでもない言い掛かりを付けられるなんて真っ平だ。
 祐太はまだ何か言いたそうな素振りを見せたけれど、取り付く島もない俺の態度に諦めたのか、大きな溜め息を残して自分の席へと去って行った。その後ろ姿を横目で窺い、俺はいつの間にか強張っていた肩から力を抜いた。
 祐太にからかわれて動揺してしまうなんて、不覚だった。大体、祐太はズカズカと俺の内面に踏み込み過ぎる。他人と深く関わり合いたくない俺には鬱陶しいばかりだが、それでも祐太にはどこか憎みきれないところがあった。昔の俺を知っている祐太は、たった三年間会わなかっただけで変わってしまった俺が心配なのかもしれない。アイツは子どもの頃からお節介な奴だったから……。
 ふと、さっき見た写真の少女の儚げな微笑みが脳裏をよぎったけれど、俺はそれを溜め息と共に追い出した。
 だから、チャイムが鳴る頃には少女の残像などきれいさっぱり消え失せていた。




 息を切らせて校門前に到着したのは、約束の時間よりも十五分近く早かった。
 秋とはいってもまだ十月の半ばだから大して寒いわけでもなく、ほとんど駆け出しそうな勢いで駅からの道を歩いて来た俺たちは薄っすらと汗をかいていた。
「だから、そんなに急がなくたって平気だって言ったのによぉ……」
 こめかみに伝う汗を袖で拭い、祐太が恨みがましい眼をこちらに向けた。日頃の運動不足が祟ったのか、頬までピンク色に上気している。
「うるせぇ、あれが俺のペースなんだよ」
 と、誤魔化したものの、いつもより自分の歩調が早かったことは俺自身が一番良く解っていた。別に、他校の文化祭なんて楽しみにしていた訳じゃない。それなのに、なぜか気が急いてのんびり歩くことができなかったのだ。
「はは〜ん、分かったぞ……」
 まだ肩を上下させながら、祐太が呟いた。校門のブロック塀にもたれ、探るように俺の顔を窺ってくる。
「さてはヒデ、お前さぁ、一刻も早く奏海(かなみ)ちゃんに会いたかったんだろう?」
「なっ……」
 絶句した俺を面白そうに見つめ、祐太がさらに言葉を続ける。
「ふーん、お前ら上手くいってるんだ。紹介した時はどうなることかと思ったけどなー。ヒデは勝手に席を立っちゃうし、奏海ちゃんは泣きそうになってたしさぁ。後から汐里ちゃんにスッゲー文句言われて大変だったんだからな……」
「うるせぇな……」
 俺は祐太から顔を背け、踵で地面を蹴った。
 祐太の策略で、彼女 ―― 北岡 奏海 ―― を紹介されたのは、二週間ほど前のことだった。強引に連れて行かれたファーストフード店で、これから祐太の彼女とその友達が来ること、その友達というのが前に写真で見た優等生っぽい少女であることを知らされた。しかも、今日の目的は俺たちを引き合わせることだと言うのだから、俺は自分の耳を疑った。自慢げに説明する祐太の言葉は、俺にとってはバカバカしい冗談にしか思えなかったのだ。
 彼女、なんて欲しいとも思っていない。何より、今の俺にはそんな余裕などないのだ。すべての事情を知っているくせに、のん気な笑みを浮かべる祐太が心の底から恨めしかった。
 結局、口だけは達者な祐太に上手く丸め込まれてしまったところへ彼女たちが現れ、そのどさくさで帰るタイミングを失った俺は、祐太の目論見通り北岡さんを紹介されてしまったわけだが。
「それよりヒデ、今日は店の方は大丈夫なのか?」
 目の前を通って行く女の子たちの集団に愛想笑いを返しながら、祐太が何気なく口を開いた。
 その言葉に俺は一瞬身を硬くする。
「今日は理沙が店番を手伝ってくれているから」
「へぇ、理沙ちゃんって、今、中二だったっけ? 日曜なのに偉いなぁ」
 答えない俺にはお構いなしに、祐太は楽しげに空を振り仰いだ。うーんと伸びをしながら言葉を続ける。
「そういやさ、休みの日にこうやって出掛けるのって、高校に入ってから初めてじゃないか? お前いっつも店番があるからって付き合い悪かったもんな。ふーん、やっぱり奏海ちゃんと上手くいってるんだ……」
 そう言ってニヤニヤと俺の顔を覗き込んで来た祐太を睨み返し、俺は再び地面を蹴った。
「別に。約束したから」
 彼女とは、あれから時々メールを交わしていた。
 平日は店を午後八時で閉めるのだが、その後もちょっとした片付けや明日の準備があるので夕飯ができあがる頃にはへとへとになっている。これまでは宿題をやったり風呂に入るだけで精一杯だった。そこに彼女からのメールが加わったのだから、本来なら迷惑以外の何ものでもなかったはずなのだ。けれど……。
 なぜだろう、日常が綴られた彼女からのメールを読んで安らぎを感じている俺がいた。特に面白いことが書いてあるわけでもないのに、文面から浮かぶ彼女の姿につい微笑んでしまったり。それどころか、今では仕事が終わると一番に部屋に直行し、メールのチェックをしている始末だ。そんな自分に、俺は内心戸惑いを感じていたりもするのだが。
「それより祐太、お前、余計なこと喋ってないだろうな……?」
 ふと浮かんだ疑惑を、お喋りな幼馴染みにぶつける。と、一瞬息を呑んだ祐太が取り繕うような笑みを浮かべた。
「えっと……、余計なことって?」
 祐太は本当に油断ならない。特に彼女の汐里ちゃんには何もかもが筒抜けなんじゃないだろうか。
 俺は深々と溜め息をついた。
「俺の家のこととか」
「あっ、なんだ、それなら言ってない、全然言ってない!」
 慌てた素振りで手を振る祐太。明らかに様子がおかしい。
「"それなら"って、どういう意味だ?」
 俺に睨み付けられて、祐太はばつが悪そうに薄ら笑いを浮かべた。口の中でもごもご言いながら視線を宙にさ迷わせる。
「その、ヒデが奏海ちゃんの写真に見惚れてた話とか?」
「なっ!?」
「あっ、汐里ちゃんだ! おーい、汐里ちゃーん!!」
 不意に、祐太が弾んだ声をあげ、校舎に向かって大きく手を振った。どうやらこの話はこれで打ち切りらしい。俺はその場にしゃがみ込みたいのを必死でこらえ、祐太が手を振る先に顔を向けた。四階の窓。二人の女の子がこちらを見下ろしている。無邪気に手を振る少女の隣で、じっとこちらを見つめているのは。
 彼女だ。
 視線が絡んだ途端、思わず俺は顔を背けた。
 祐太のお喋りめ。写真の話を北岡さんも知っているのだろうか。そう考えただけでいたたまれない気分になる。
 ―― 校舎の中を案内されている間も、オレの気はそぞろだった。




 親父が死んだのは、今年の三月のことだった。
 体力だけが取り柄だったのに、心筋梗塞であっさりあの世に逝ってしまった。
 残されたのは、お袋と妹の理沙と俺の三人と、わずかばかりの保険金、それに小さな花屋だけだった。
 親父の死はあまりにも突然で、俺たち家族は途方に暮れた。特に俺は中学の卒業式を目前に控えており、四月からはバスケで有名な私立高校に進学を決めていたから、一家の大黒柱を喪った衝撃は大きかった。
 小学校の頃からバスケを続けてきた俺にとって、今の高校はずっと憧れだった。けれど、親父を喪った我が家にとって金の掛かる私立高校への進学が大きな負担になることも解っていたのだ。お袋は「保険金があるから何とかなるわよ」と言ってくれたが、俺には二つ下の妹がいるし、自営業の花屋はとても儲かっているとはいえない。微々たる保険金が底をつくのは目に見えていた。
 だから俺は夢だったバスケを諦め、店を手伝う道を選んだのだ。お袋は大反対したが、俺は頑として聞かなかった。本当は進学も止めようかと思ったのだが、それだけはどうしても許されなかったから、俺は平日は夕方から、休日は一日中店に立つことにした。せめてバイトを雇う人件費だけでも浮かせたかったのだ。
 祐太は離れていた三年間で俺が変わってしまったと思っているようだが、それは違う。俺は元々無口な子どもだった。祐太が引っ越したせいで俺にしつこく話しかけてくる奴がいなくなったので、中学時代はますます寡黙になっていたかもしれない。それでも俺はバスケに夢中だったし、仲間と思える部活の連中もいた。
 だからきっと、俺が本当に変わってしまったのはバスケを諦めたあの瞬間だった。俺は自分の手で全てを捨ててしまったのだ。




 その瞬間、(失敗したな)と思った。
 彼女がお化け屋敷を怖がっていることに、俺は早くから気付いていたのだ。
 俺たちから離れた場所で、何やら友人に訴えていた彼女。本人は必死なのだろうが、彼女の姿は俺の眼にとても微笑ましく映った。だから、祐太たちが暗幕の向こうに消えて行った後、俺は怖いなら止めようかと言うつもりで、まずは「怖いのか?」と口にしたのだ。
 けれどその瞬間、彼女は顔を強張らせ、激しく頭を振った。
 そして、今にも倒れそうなくらい青褪めた顔をしているくせに、あろうことか案内係の声に従ってお化け屋敷の中に足を踏み入れてしまったのだ。
「北岡さん」
 という俺の声が、虚しく空中に霧散した。
 俺は軽く舌打ちし、慌てて彼女の後を追った。これだから女は面倒なんだ。大体、何を考えているのかさえさっぱり理解できない。
 初めて逢った時からそうだ。酷く怯えた顔をして俺を見つめた彼女。怖がっていることは一目瞭然だった。その晩掛かって来た電話口でも、彼女の声は明らかに震えていた。それなのに……。
 どうして懲りずに俺にメールを送って来たりしたのだろう。
 もっと不可解なのは、初めて彼女からメールが来た時、思わず安堵した俺自身だ。
 祐太は「奏海ちゃんと上手くいってるんだ」なんてのん気なことを言っていたが、俺には彼女との関係も、自分の気持ちも、何もかもがあまりにも曖昧で解らないことばかりだった。
『店を休ませて欲しい』と頼んだ時、お袋は驚きのあまり目を見開き、口も利けないほどだった。この半年間で俺がそんなことを言ったのはこれが初めてだったのだ。何よりも優先させてきた店の手伝い。俺が携帯を持っているのだって、お袋から緊急の連絡が入った時のためだ。
 それが、今では彼女とのメールのやり取りが一番の使用目的になっている。店を休ませてもらってまで、別段興味もない他校の文化祭に足を運んでいる俺。
 ……いや、違う。
 俺は来たかったのだ。文化祭には興味はない。けれど、彼女のメールにおまけのように書かれた一文、『日曜の一般参加日には来てくれるかな?』を読んだ時から、心のどこかで楽しみにしていたのかもしれない。
 ―― 彼女に逢えることを。
 どんなに疲れていても、メールの着信を示すライトが点滅していると心が浮き立った。反対に、着信がない日はぐったりとベッドに倒れ込んだりもした。
 完全に他人を拒絶していたはずの俺の心にいつの間にか入り込んでいた彼女。メールのやり取りをするうちに、彼女は確実に俺の中に住み着いていった。俺自身も気付かないほど自然に、すんなりと。
 それなのに、顔を合わせた彼女はやっぱりどこか怯えた様子だった。祐太に笑顔を向けても、俺には決してそんな表情を見せない。もっとも、祐太に向ける笑顔はどこか硬いところがあることに俺は気付いていた。まるで、初めて見たあの写真の笑顔のように。
 ふと、俺の心に何かが引っ掛かった。核心に触れそうな、何かが。
 けれど、そんな思いはたちどころに消し飛んだ。暗闇に慣れた俺の眼には、お化けらしきものを前に立ち竦む彼女の後ろ姿がおぼろげながら見て取れたのだ。
 俺は足を速めた。彼女は動かない。叫び声一つ上げない。
 不味いな、と察知したのは俺の本能だった。本能が警鐘を鳴らした瞬間、考えるより早く俺の身体が動いていた。
 右手が空を切る。何も考えず、指先に触れた柔らかな感触を夢中で握りしめた。
「大丈夫だから。怖かったら目を閉じて」
 俺の口から勝手に紡がれた言葉に驚いたのは、彼女よりもむしろ自分自身だった。

 教室から出た瞬間、俺は眩しさに目を細めた。
 圧倒的な光の洪水。高く低く響き渡るざわめきに頭がくらくらした。一瞬、自分がどこにいるのか判らなくなる。そして、自分が何をしていたのかも。
 ぼんやりと隣を見下ろすと、彼女はまだまぶたを閉じたままだった。
「出口だよ」
 とささやくと、長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。その様子に見惚れていた俺は、ふと自分が彼女の手を握ったままだったことに気付き、慌てて右手を全開にした。ずっと彼女の手を握っていたせいだろうか、強張っていた俺の指はスムーズに動いてくれず少々乱暴な動作になってしまったが、そんなことには構っていられないほど俺は動揺していた。
 手を離した途端、彼女の手の平の柔らかさがリアルに甦る。実際に握っていた時よりずっと実感を伴った感触に、俺の鼓動が高鳴った。バクバクとまるで全力疾走した直後のように、心臓が激しく脈を打つ。
 そして、頬が。
 いくら抑えようと思っても、どんどん熱くなってくる。焦れば焦るほど、凄い勢いで血液が上昇する。
 これでは誰が見たってバレバレだ。明らかに、俺の顔は真っ赤だろう。
 ―― なんてこった……
 彼女の手を握ってしまったのは、咄嗟の行動だった。こうして我に返ってみると、不可抗力だったとはいえ何て大胆なことをしてしまったのかと愕然とする。もう何年も、妹の手だって握ったことはなかったのに。
 俺は奥歯を噛みしめて、視線を斜め上空に固定した。深く息を吸って何とか気持ちを落ち着けようと努力する。
 それでも、視界の端にこちらを見上げる彼女の姿が映った気がした。次いで、頬に感じる彼女の視線。
 俺は視線を動かさないまま全神経を耳に集中して彼女の気配を窺った。
 と、ひそやかな息遣いが聞こえた気がした。はっとした瞬間、
「ありがとう」
 とても小さな声だったけれど、ざわめきの合間をぬって彼女の声は鮮明に俺の耳に届いた。その言葉に、カッと頬が火照ってくる。収まりかけていた鼓動も再び暴れだした。これではとても彼女と視線を合わせられる状態ではない。
 全く制御できない自分の身体の反応にげんなりした時、今度ははっきりと彼女の笑い声が聞こえて来た。
 その声に釣られるように、俺は横目でそっと彼女の姿を窺った。
 そして。
 俺は、息を呑んだ。
 彼女は、俺を見上げて笑っていた。
 写真の笑顔とも、祐太に向ける笑顔とも、全然違う柔らかな微笑み。
 ―― ああ、そうだったのか
 もやもやと霞み掛かっていた俺の心にストンと何かが落ちてくる。
 暗闇で掴みかけた答え。彼女の笑顔が、それを俺に教えてくれた。
 俺は、見たかったのだ。
 遠慮がちな笑みでも、強張った笑みでもない、伸び伸びと笑う彼女の姿が。多分、初めてあの写真を見せられた時からずっと。
 ―― 霞み草なんかじゃない
 頑なな俺の心に射し込んだひと筋の光。とても弱いけれど、それでもじんわりと何かを融かしていく。

 ―― 彼女の笑顔は、ひだまりに咲く秋桜のようだったから。





END


ひそかさんことドロシーちゃん(逆だから)のサイト一周年記念祭りに妙なものを贈り付けてみたら
まぁこんな素敵なもんがお返しとして返ってきました。

割に合ってないよ!(ひそかさんが。


誰かをほんのりと想う気持ち。
すごくきれいでやさしくて
だけどすぐ壊れてしまう物のように危うげです。
それでもこれほどまでに誰かを幸せにする物はないのではないでしょうか。

この寒い時季(12月)にええもん読めました。
むねのあたりがじんわりぬくくなるような作品です。よね?(訊くなって。


ひそかさんのサイト:空に還る場所