最終話



「ありがとう。お坊ちゃん……いや、お嬢さん?」
「どちらでも構いません。私の名はテンです」
「ありがとう、テンさん。本当にありがとう」
手を組んだりほどいたりを繰り返し、ためらいがちに男は「しかし、どうしてこんな私を?」
と尋ねた。その質問に対して、少しだけ自嘲を織り交ぜ
「人と話がしたかったんです」
とだけ答えた。

しばらくするとスープが出てきた。
「にんじんとキノコのヨークス風スープ ヴェリゼ添え」だ。
透明なスープの中に橙色をしたにんじんが沈み、その上に青々としたヴェリゼが謙虚に乗っていた。
男は目を輝かせて、周囲の目も気にせずにがっついた。
スプーンと皿が甲高い音を立て、
顔を皿に付いてしまうほど近付け液体を口の中に放り込んでいく。
あまりマナーは良くないがそのスープは本当においしそうだった。

テンもスープを掬い、口にゆっくりと運んでいった。
野菜はよくいためられていて、特ににんじんは甘みを増していたが
スープがぞんざいに扱われていて、どこかぼやけた味だった。
正直「おいしくない」。
この目の前の男お同じスープを飲んでいるだなんて考えられなかった。

「あぁ、美味しかった。久しぶりにまともなものを食べたよ」
「それは良かったです」
まだスープが運ばれて三分ほどしか経っていないというのに、
男のスープ皿は綺麗にたいらげられていた。
そのスープ皿を見つめながら
「あのころは、忙しくて何を食べても味なんてほとんどわからなかった。
食事はただ腹を満たすだけの儀式みたいだった」
「それはもったいないです。きっと良い物を食べていたでしょうに」
男は目を丸くして「ほう。わかるかね?」と顔色を取り戻していた
「ええ、そのコートに入っている紋章。王国時代のものですよね。
たしかこの国は数年前まで王制だったはずですし。王宮に仕えていたんじゃないんですか?」

王宮、王制といった単語が出た途端に、男の顔色が再び引いていく様子が見て取れた。

「あぁ、ああ。そうなんだよ。私は王宮に仕えていた」
目が宙を泳ぎ、手を握ったり開いたりをしばらく繰り返した。

「……君は、この国の人ではないんだね?」
「ええ。……でもどうして?」
「この国の人間が、私達にそんな態度を取る事は無いんだよ」
周りを伺う。確かに冷たい視線が容赦なく降りそそいでいた。
男だけでなく、テンにまで。

「よろしければ、お話を聞かせてください」
「――よろしければ」
「え?」
「仔羊のローストを食べさせてはくれないか。
 あれは、私の好物だった……」
「…………」
にっこり笑って、仔羊のローストをウェイターに頼んだ。





「なに、そんなに難しい事ではない。王の圧制を倒そうと暴動が起きたのさ」
ローストを次々と切り分けては食べ、切り分けては食べを繰り返しながら話を進める。
テンはフォークとナイフを手に持ったままじっと男の話に聞き入っていた。

「そんなはずは……。だってこの国は良い大臣達に支えられて、
 模範的な王制を執っていると父は言っていました」

「そうだよ。一人の善き大臣によって全てが保たれていた。
けれどね……。ある日を境に男は変わってしまった」
ローストから目を離し、テンの瞳の奥をじっと見つめる
いや、その瞳に映る自分自身を見ていたのだろうか。
「欲にかられ、懐を肥やし、王を陥れ……

 国なんて簡単に傾いたさ」
男はごくりと喉を鳴らしてぶどう酒を呑んだ。
顔は徐々に赤みを帯びてきていたが、あまり心地の良い酔いとは思えない。
「――その人に何があったんでしょうか」
「……」
言葉を選ぶようにグラスの中のぶどう酒を弄び、大きなため息をこぼした。
「『欲』という快楽を知ってしまったのさ」
男の年齢は良くわからなかったが、その声は幾歳月を重ねた老人のように枯れていた。
「今まで国のため、民のためと自分の全てを犠牲にして尽くしてきた。
けれど、ある時自分の望について尋ねられたのだ」

「「望みを何でも一つ叶えてあげましょう。あなたの望みはなんですか」」

「その時、彼は何も答えられなかった。
望みなど何も無い。

それはきっと、満たされているという事なんかじゃないんだよ」
「そんな事は」
「欲が無い人間なんていない。もし本当にそんな人間がいたとしたら

 テンさん。それは何だと思いますか」



「……神ではないでしょうか。
 人間の領域を越えた者。他者への愛を無償で注げるもの」
「なるほど。そう言う考え方もあるのかもしれません。
 でもそれはきっと間違いですよ」


「欲が無い人間。それは……」


 唇は震えていた。



「ただの『抜け殻』にすぎないんだ――――」



「――――」

「彼は望みなんて無い。そういった。けれどそう言ってしまった途端、
 激しい後悔が襲った。
 せっかくの、生涯で一度のチャンスをみすみす逃してしまった。とね。

 私はなんと美しい宝石をドブに捨てたのだ、と」
気付けばひそひそ声は止み、周りの客は普通の会話の声に戻ってそれぞれの会話をしていた。
こちらを見る人間はどこにも見当たらない。
けれど何故だかさっきよりもずっと周囲から浮いているようだった。

「そしてその後、私欲の奴隷となった彼は国を崩し、
 そしてようやく民は立ち上がり、王を倒した」
「でもそしたら大臣だって殺され」
「違う。今、王は牢獄の中なんだよ。暴動の首謀者は実に情の深い男でね
 本当に極めて少ない血で革命を成し遂げて見せた。
 それが我々にとってどれだけの苦痛と屈辱なのかも知らずに」

『どれだけ罪があろうとも、そのものを殺める事は重大な罪だ』
首謀者は王を殺そうとする仲間をそう言って静止したと言う。
 王は牢獄に入れられ、その他の者は地位を奪われ、城から追い出された。

王宮から王に仕えていた者達を追い出しその場を民の為の政を行う為の場と改め
民主主義を急ごしらえながらも確立させた。
「そして、命こそ助かったけれど、行くあてもない王宮にいた者達は迫害を受け、こんな有様さ」
「でも本当に罰さなければならないのは大臣なんじゃないですか?」

「牢獄に閉じ込められるだけが贖いの形ではないのかもしれない。
きっと首謀者はそう言いたかったのだろう」


「なぁ。では、では彼は、その大臣はなんと願えば良かったのだろう」



 テンは静かに口を開く。
「簡単な事ですよ」
ナイフとフォークを置いた。
上品に高い音が響いた。




「ただ一言、『美味しい仔羊のローストが食べたい』と」
「!!」
「お代は払っておきます。どうぞごゆっくり
 ゆっくり味わって食べてください――――」

 テーブルの上に代金を置き、テンは席を立った。


 乾いたようなベルの音がした。
ようやく気付いたかのように男がドアの方を見たけれど
そこにはもうテンがいなかった。
ただ滲んだ視界がテンの残像を見せているだけだった―――――









「おかえりなさいませ、テン様」「あぁ」
肩にかかった水滴を払い、か細いため息を吐きながらただいま、とつくねに言った。
「「テン、どうかしました?元気がないようですが。
  メインディッシュがおいしくなかったとか?」」
「あなたは、自分の存在をどう思う」
「「……」」
テンの口調はまるで神に縋るかのように震えて、今にも消えそうだった。

「人々の願いを叶える石。あなたは意味無くそうしていると言った。
 そう言う風にできているからそうしているだけだと。
 けれど、あなた自身はどう思っている」
「テン様」「「私は使い方によれば便利な物になると思いますよ」」

「「ただ使いこなすのが難しい。機械車のようにね」」

「あなたは希望なんかじゃない」
 静かに苦しそうに台詞を吐きだしていく。
レストランからここにくるまで、いや、
ずっと前から考えていた台詞を、今この舞台で高らかに。



「絶望だ」

それなのに、声は言ってしまった、という後悔の波に飲み込まれていた。

何か必死で守ってきたものを落として壊してしまったかのように。

「「なるほど。――――なるほど」」
「願いはあなたに叶えてもらう必要は無い。
 いや、そんなものに頼ってはいけなかったんだ」

己の欲に駆られて何人の人が身の破滅を呼んだかは知らない。
でもそれは自業自得だ。
けれどこの石がなければ、とも思ってしまう。
「本当はあなたに願いを叶えれてもらった人達を元に戻してあげようと思った
けれど、余計なお世話かもしれないし、また犠牲は増える。
本当に幸せになれた人もいるしね」
つくねは静かにテンを見つめていた。
テンがつくねの事を知っているかはわからない。

「だから」
ドクンと鼓動が大きく打つ。
「私の願いは――――」