「そう」 女教師は大きなため息をついた後、額に手を当てて唸り始めた。 「どうしよう。困ったなぁ、最近鍵の管理とかうるさいのよねえ」 昨日先生の自宅へ行ったが先生と会うことが出来ず、鍵も返してもらうことができなかったという事実は相当彼女の頭を悩ませているようだ。合鍵ぐらいあっても良さそうなものだったが国語科準備室は古い校舎にあったので鍵は先生の持っていた一本だけしか残っていなかったらしい。その理屈がすでに良く分からないのだが、そんなものどうでも良い。 花枝は先生に会えなかった。 インターホンを鳴らした後に出てきたのは先生の娘と思しき少女だった。 歳は恐らく花枝達と大して変わらないだろう。格好は染髪にピアスと派手目で先生の娘とは考えられない装いだったが、遺伝子とは不思議なもので、彼女の顔はどことなく先生を連想させる雰囲気を備えていた。 先生そのものには似ていない。どこがどう似ているかは説明できないが、彼女と先生が並んでいれば「親子なんだな」ときっと誰もが思うことだろう。 彼女は制服姿の花枝に対し、ファッションチェックでもするような眼差しで一通り眺めた後 「どちらさま?」 と面倒くさそうに尋ねた。 「あ、あの。一松山高校の者なんですけど、暮凪先生はご在宅ですか?」 一松山と聞いた途端に彼女の眉間に深いしわが生まれた。 「何の用? あいつ、今居ないんだけど」 あいつだって。先生のこと、『あいつ』だって。何となくは察していたが、この親子の関係があまり芳しくないことが明確になった。まぁ、親子関係の良好な女子高校生の方が稀かもしれないが。 「準備室の鍵を先生がまだ持っていらっしゃると思うので、返してもらいに来たんですけど……」 花枝はまた今度来るか言付けてもらうか悩んだ。悩んだけれど正直どちらも嫌だ。 言いよどんでいる間にも気まずい空気は流れ続ける。 「ふうん」 「で?」 「あ、えっと。いつごろお帰りになるか分かりますか?」 「わかんない」 そうかよ。 「じゃあ、えーっと。伝えておいていただきたいん、です、けど」 「ん」 「よろしくお願いします」 花枝が頭を下げ終わる前にドアが閉まった。すぐに鍵がかかった。腹が立った。 「ん、ていうのはどっちだよ……」 自分は何もしていないのにとてつもない恥ずかしさが津波のように襲い掛かってきて勢い良く門を飛び出した。 あたし。何馬鹿なことやってんだろ。 その翌朝、職員室から戻った花枝が教室に入ってくるのを見るなり田宮が飛ぶように駆けて話しかけてきた。 「先生、何か言ってた?」 言うまでもないがこの『先生』は暮凪のことだ。 「会えなかった」 田宮は一瞬その言葉を反芻するように間を空け、次に出そうとしていた言葉を飲み込んだ。 「……そう」 「やっぱ、気になる?」 「何が?」 先生のこと。 「…………」 先生とのことは訊かないことにしていた。田宮の心はまだやわらかい豆腐のようで、今はなんとかその形を保っているように見えるが、それはただ単にそういう風に見せているだけに過ぎない。そんな状態の田宮の心をを自分勝手な好奇心などでつついてしまえばいともたやすく崩れ落ちてしまうだろう。 それならばこのまま田宮の心が固まるのを待ったほうがいい。時が来ればきっと彼女も笑いながら語ってくれるに違いない。その時はちゃんと笑って受け止めよう。そう決めていた。 「鍵が見つかったら準備室を占拠しちまおう。ほら、秘密基地みたいに」 「……この歳で?」 「秘密基地に年齢制限はないだろ。みんな誰の目も届かないところを求めているんだよ」 田宮は少しだけ笑った。 それが田宮のためになるのか、本当は分からない。けれど田宮は花枝に慰めを求めていない以上はその問題に触れないでいることが一番良いはずだ。 花枝にとって一番大事なことは「今、田宮が笑っていること」だから。 「誰の目も届かないところ、か」 女子たちの悲鳴に近い掛け声と軽やかな足音とバスケットボールが床を弾む音の合間、泡がはじけるように田宮が呟いた。 得点板に寄りかかりながら試合を目で追い、シュートが決まれば数字カードをめくっていく。バスケのルールに明るくない二人にはちょうど良い役回りだった。 「今朝の続き?」 「そう」 コートの中では柳瀬川の独りよがりなプレイが延々と続いている。独りよがりながらも柳瀬川の実力があるお陰で次々にボールは輪をくぐり、花枝の仕事が増えていく。球技ってチームワークが必要だったのではなかっただろうか、などと思いながらも田宮の話に耳を傾けた。 「誰の目も届かないようなところなんて、あるかな」 「さぁ。準備室にしたって一応学校内だから。本当の意味では誰の目も届かないってわけじゃないかもな」 「…………うん」 また点が入った。花枝は数字カードをめくる。 「田宮は、さ。誰の目も届かないところに行きたいわけ?」 甲高いホイッスルが体育館に響き渡り、こちら側のコートは減速するように試合が止まった。 ファウルがどうのとか、花枝たちには理解できない。けれどもたかが数歩歩いただけで試合を止める方がどうかしている。 「わからない」 ファウルがどうのとかボールがどうのとか、どうしてあんなに下らないことで盛り上がっているのだろう。受験や試合が彼女たちにとってはそれほどまでに大事なことなのだろうか。勝ったって負けたって、受験に失敗したって、死ぬことじゃない。 こっちは、下手すれば本当に生きるか死ぬかだというのに。 「わかんないんだ。花枝ちゃんと一緒に居るのが嫌だって言ってるんじゃないよ。けど」 試合が再開する。 「どうしてこんなにいらない人がたくさんいるのかなぁ」 「…………え?」 その言葉尻に寒気が走るほど遠い距離を見た。物理的にはもちろん、精神的にも触れようと思えば簡単に手が届くと思っていたはずなのに、今やその間に巨大な鉄柵が張り巡らされているようだった。 花枝には想像もつかないようなどこか遠くを見つめる田宮の虚ろな瞳は、一体何を映しているのだろう。 「私、わがままなんて一つしか言ってないのに」 「田宮、何のこと?」 先ほどよりも大きく長いホイッスルの音が鳴り響いた。 「あ、試合終わった。次私たちの番だよ」 いらない人がたくさん 「田宮」 太陽とは、そもそも人の手の届かない場所から人々を温める。それはきっと、人々の予想をはるかに超えるほど深く、凍えるような暗闇の中で。 花枝にとって一番大事なことは「今、田宮が笑っていること」だった。しかし、田宮自身の一番大事なこととは何だろうか。 田宮が笑っていることは、田宮自身の幸せに繋がると花枝は信じ続けてきたが、それはただ単に自分の心の平安を願っていただけではないのかと問われたら花枝はそれを真摯に否定することは出来ない。 田宮の幸せは果たしてどこにあるのだろう。 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ *おまけ* 本編とは全く関係がない事を念頭に置いてお読みください。 「どちらさま?」 と面倒くさそうに尋ねた。 「あ、あの。一松山高校の者なんですけど、暮凪先生はご在宅ですか?」 一松山と聞いた途端に彼女の眉間に深いしわが生まれた。 「何の用? あいつ、今居ないんだけど」 「準備室の鍵を先生がまだ持っていらっしゃると思うので、返してもらいに来たんですけど……」 「ふうん」 「で?」 「あ、えっと。いつごろお帰りになるか分かりますか?」 「わかんない」 「じゃあ、えーっと。伝えておいていただきたいん、です、けど」 「ん」 「よろしくお願いします」 「先生。その格好、すごくキツいものがあります……よ……」 「ここまで気付かない振りをしたんだから最後まで貫き通してくれないか汐見君」 |