「春の雪」
ふと、空を見上げてみた。 けれども、すぐにうつむいた。何度薄墨色の空を見上げたことだろう。 数えるのも億劫になってしまっていた。降る雪が体中に降りかかり、肌に触れては溶けていき 熱を徐々に奪っていく。 けれども僕の左手の中は少しだけ体温よりも温かい。 雪よりも白く、そして少しだけ赤みを帯びた柔らかな手。 「稲波」家の子女「雛深(ひなみ)」様の手。 「もう少しですよ。雛深様」「うん」 この会話すらも何度目か知らない。真っ白に積もった雪の上に二人分の足跡が続いて行く。 雪原の上を歩いていく。白い雪が舞う―――― 「お体の具合は大丈夫ですか?」 「平気よ。大丈夫」 白い息を吐きながら、はにかむようにして言う。 その頬は紅潮しており、か弱さの中にもしっかりとした意志が見受けられる。 「それよりも早く行きましょう。そうでないと家の者に気付かれてしまうわ」 辺りを警戒するように首を回し「ですね……」という僕の呟きに満足したら 長い着物を引きずりながら歩き始めた。 罪の意識なんて無く それは冒険するかのような浮遊感に満ちていた。 僕はかつて、この少女が大嫌いだった。 僕が『拾われた』のは4年前。 稲波グループの重役を勤めていた父と母が事故で死に、身寄りの無かった僕を拾ってくれたのが 現会長の「稲波 秀逸 (いななみ しゅういち)」 雛深様の祖父に当たる人物である。 これがなかなか豪傑な人物で、1代にして巨額の富を手に入れただけのことはある。 いくら父が重役であったとはいえ、赤の他人である当時16歳の少年を 軽々と「使用人として」受け入れてしまうとは。今も会長にだけは頭が上がらない。 大学を卒業したらグループの一員として正式に採用される事も決まっているのだし。 しかしまだ未成年だった僕が出来る事なんて無く、任されたのが 「家庭教師ですか……」 「あぁそうだ。勉学は学生の大事な仕事だ。 高校生だったね。それならば小中学生の勉強を観る事は容易いだろう?」 「えぇ、まぁその位の事なら」 ありがたい事に僕の頭は人並みよりか若干良かったし。 家の中の事なんかを任されるよりかはだいぶマシではあったのだが―――― 「本当に僕なんかでよろしいのでしょうか?」 正直、他人と関わりあうのは好きでは無い。 他人の何かを知る事なんてもう面倒だったし 所詮、みんな死んでしまうのだし。 「儂の孫娘でなぁ。『ひなみ』と言うのだ」 板張りの廊下を歩きながらしわがれた声を聞く。 二、三歩さがった位置だったので、少しだけ憂鬱な気分を隠すために見事な中庭を見ながら話を聞いていた。 ――― 女なのか……余計にどう扱ったらいいのやら…… ―――― 「実に体が弱くての。儂が行っても会え無い事も度々あるほどなのだよ」 ――― こんなところに閉じ込めてないで入院でもさせればいいのに。金持ちなんだから・・・・・・ ―――― 「しかしいつまでも学び舎に行かせんわけにもいかんだろうし。 それが叶わぬのなら、と君に教鞭をとってもらおうと頼んだ次第なのだよ」 「ご光栄ですが、本当にいいのですか?」 「ふん、『照昭』などは大反対をしておったが儂は君が適任だと思っておるよ?」 「ありがたいお言葉ですね」 ―――― テルアキ・・・・・・現社長か。ムコヨウシのくせに生意気な。 ―――― 本来は会長の娘である「時枝(ときえ)」が女社長となるはずだったのだが、 こいつがかなり古めかしい頭脳の持ち主で、男尊女卑な思考回路をを導入しているために 「私などではなく、彼の方が社長に適任だ」 などと言って照昭をつけあがらせている。 まぁ自分が左団扇を仰ぐために利用したのかもしれないが。 そのため、屋敷内でもまれに遭遇する事もあるわけなのだが、 まるで生ごみをあさるカラスを見るかのような目で僕を見てくる。(現在もなお) まぁ他人の家のお家事情など知った事では無いのでその話は置いておこう。 屋敷の随分と奥ばった部分にたどり着く。 立ち止まったその部屋が彼女の部屋なのだろう。 深窓の令嬢、とは言いがたい、障子の部屋ではあったが。 会長が戸に手をかけ、「雛深、入るぞ?」と声を掛ける。あけた瞬間に「ダメ!!」という反応があったが、 時すでに遅し。 黄緑色の物体が頭上を通過して行く。 空の青に、ぐんぐんと吸い込まれていった。 それを追うように今度は紅い物体が僕の腹を突き飛ばし、廊下のぎりぎりまで来て座り込んだ。 「あー……にげちゃった」 空を自由に飛ぶカナリアはどこかへと消えてしまった―――― それをぼんやりと彼女は眺めた。 「これ、雛深。あれだけ羽を切っておくように言っておいたろうが」 「酷いわ、そんなの。そしたら何故神様は鳥に羽をあげたと言うの?」 「それが嫌ならかごにちゃんと入れておけば」 「お爺様が開けたから――――」 「大丈夫ですよ。きっと戻ってきます。鳥には帰巣本能がありますから」 ようやく存在に気付き、僕の方に目を奪われていた。 なんというか、ものめずらしそうな目で。 僕が会釈すると、その令嬢は「誰?」と僕から目を離さず会長に尋ねる。 「お前の家庭教師の、遠野 灯駆(とおの ひかり)さんだ」 そこでようやく思い出したように彼女は会釈を返した。 僕は何より 現代に着物を日常的に着ている少女がいるということに驚いていたことは 言うまでも無いが。 その少女はあの二人から生まれたとは思えない程にとても穏やかで 春の陽射しのようにおっとりとした娘だった(まぁあの二人に育てられたわけで無いのだから当たり前か) 案の定、すぐに戻ってきたカナリアのさえずりを聞きながら、 授業の前に少しだけ話をする事になった。 「先生はどこのご出身なの?」「東京ですよ」 「東京!すごいわ、私少しだけあこがれてたの。日本の中心だし」 「それほどすごいものでは無いですけどね」 「あ、でも東京には山とか自然とかってないのよね?」 「そうですね。郊外にはあるらしいですけど、都心はあまり」 「じゃあ私はここが好きだわ。自然が沢山あるもの」 「そうですね。雪がとてもさらさらしていて」 「へ?東京の雪は違うの?」 「固いんです。まぁ雪が降る事自体希なんですけどね」 「へーっ」 どんなに適当にあしらっても彼女は本当に楽しそうな笑顔を見せてくれる。 話せば話すほどにこの少女が憎らしいと思えてきた。 どうしてこんなに幸せそうに笑うことが出来るのだろう? どうしてぬくぬくと太陽の元で幸せに生きて入られるのだろう? ここまで自分と正反対に生きている人間がどうして僕の前にいるのだろう。 何故僕だけが――――? 唯一彼女に与えられた「負」の部分はその体。 非常に弱く、授業のキャンセルも一時期に集中してあったりということも多かった。 しかし僕の仕事は「教師」だけではないので見舞いに行かないというのも体面が悪くなる。 「あぁ、灯駆―――」 『先生』と呼ばれるのはいささかこそばゆいものがあるので名前で呼ばせている。 「お加減は――――大丈夫そうですね」 くすっと微笑んで「そうね。もうだいじょうぶよ」と言いながら起き上がる。 「父様が休めって言うから。本当はそれほど大変じゃないの」 あの人は僕を嫌っているから、とは敢えて言わなかった。 「最近めっきり寒くなってきているわね」「そうですね。今日は雪が降りそうですよ」 楽しそうに、得意げに首を振る。 「今日は降らない」 「?」 天気予報では曇りのち雪、と言ってたのを思い出して言ってみたのだが。 そもそもこの部屋にTVやラジオと言った情報伝達媒体がない。 「障子、開けてくれない?」 「いけません。お体に障りますよ」「少しだけでいいの。布団の中に入っているから。ね?」 掛け布団を掴みあげ、布ずれの音を立てると頭のてっぺんまで布団に包まった。 そして顔半分だけを布団からだして「ね?」と大きな瞳をきらめかせて来る。 しょうがない、とあきらめながら立ち上がり、障子を開け放つと、中庭の景色が飛び込んで来る。 ほぼ同時に冬特有の冷たい風が流れ込んできた。 「ほら、ね」 何が、ね、なのだろう。とおぼろげに考えていると得意げに話しだした。 「私、この中庭以外の景色ってあまり見たこと無いんだけど それでも季節が移ろって行くのがわかるの。 勿論景色からも見えるけど、 空気のにおいとか、雲の様子とか。 だから、雨とか雪とか降るかどうか解るのよ」 だから降らないわ。 楽しそうに目を細めて入る様子を、僕は見下ろしていた。 哀れ とでも言えようか。たったこの小さな空間でしか季節の変化を知らないなんて。 少しだけ胸の奥に冷たい風が吹き込んできて、なんだかとてもすがすがしい気分だった。 |