その恋は一目惚れと言っても良いだろう。

 三ヶ月前、会社の同期の女の子に誘われ、いわゆる合コンに行く事になった。
三ヶ月前と言うと、ちょうど当時付き合っていた彼と別れたばかりで精神的にも滅入っており、正直気乗りはしなかったのだが、半ば強引に引っ張られる形で合コンに連れて行かれた。

 合コンの場所は都心から少し離れたところにある居酒屋で、和風のたたずまいをしていて、中でも畳の上に座るという形式の飲み屋だった。こう聞くと割合良さそうな風に感じるけれど実際はどこまでも安っぽいつくりだ。
 居酒屋のがちゃがちゃとした雰囲気に元々慣れてない所為もあって、私は非常に居心地の悪さを憶えていた。

 自慢と取られたら困るのだが、その当時付き合っていた彼というのが有名企業に勤めるエリートで、デートの度に高級車に乗って都内の高級レストランに連れて行ってもらったものだ。
結構長い間そんな生活を繰り返していたので、「高級癖」はなかなか抜けないのだった。
今も手元にあるサワーの薄さに辟易し、つまみの適当さに呆れかえっていた。
 それでも彼の事も高級思考も忘れなければならない。
 肥えた舌や心もダイエットの必要があるのだろう。

 それでも店の雰囲気や集まった男どもの程度の低さだけはどう頑張ってもだめだった。

「翔子」
「え?」
「もー。そんな湿った顔してないでさ、もっと盛り上がっちゃおうぜえー」
 友人の亮子だった。ふっくらとした顔つきと物腰はとても明るく、グループに一人居ると楽しいタイプの人間だったが、この系統の特徴に漏れなく、非常にお節介だった。
「そうだね。ごめん」
 慌ててその場を取り繕うが、こんな環境でどうやって盛り上がれば良いというのだろう。
 どんな態度でいればいいのだろうか。どんな話題を振ればいいのだろうか。こんな性欲に脳を支配された男と女たちと、どう付き会って行けば良い。
「ほら、右から二番目の川田さんとかどうよ?スポーツマン系で格好いいんじゃない?」
「あはは……」
 亮子は冷奴をつまみながら舐めるような目線で向かい側に座る男の品定めをしている。
「一番左の彼は?えーと、佐伯さん。なんか明るそうだし、デートとか色々楽しいところ連れてってくれそうってかんじ」
「そうだね。なら亮子がアタックしてみなよ」
 そう言うと、ろうそくの灯が消えたように亮子の表情は曇り、酒を飲みすぎた翌朝のような顔で私に言った。
「あのねぇ。あたしはあんたのことを心配して言ってんですけど」
「…………」
「そりゃ前の彼氏は何もかも完璧男だったのは知ってるよ。だけどもう振られたんだからさぁ。いつまでも引きずってたってしょーがないじゃん」
 あまりに過剰なお節介っぷりは故郷の母を思い出す。それは郷愁よりも反抗期に抱いたそれに近い感情だったと思う。
「何もいますぐ好きになれってわけじゃないけどさ。もうちょっと楽しもうっていう姿勢がないといつまで経っても吹っ切れないよ?」
「うん。そうだよね」
「そうそう」
 余計なお世話だブス。

 好きだっていう気持ちをそんなに容易く切り替える事なんて、本当にできるのだろうか。
 私が彼の事を好きだったという気持ちは、ついこの前まで許されていたというのに。たったの一言、彼の「別れよう」という言葉が形を成したその時点から禁止されてしまうだなんて。
気持ちというものは徐々に進んでいくものだ。クレッシェンドするように好きになり、デクレッシェンドして冷めていく。
車は急に止まれない。

 彼との別れも唐突だった。
 いつもと変わらぬデートの終わり、自宅まで車で送ってもらい、さよならの口付けをしようとしたら、
「別れよう」
 その一言が重ねようとした唇からもれた。
「どうして?」
 尋ねる私に、彼は多くを語らなかった。
 彼は、いつも自分で決めた事は覆さない主義だということをわかっていたから、敢えてすがるなんていう真似はしなかった。
 関係が戻らないと分かっているのならせめて彼の思い出の中では『良い女』でいたかったのだ。
 それでも私は足場を失って、こんなにも脆く膝をつく。


 だから気分も乗らないし、男を作る気にもなれないこのタイミングで、こんなうるさい場所というのは非常にストレスを増大させる要因にしかならなかった。
特に今、空回りと呼べるほど周りを盛り上げている男が一番邪魔だ。
くだらない笑いを誘い、オーバーなリアクションでおどけてみせる。
そんなに明るい人間だと思われたいか。
そんなに女にモテたいか。
 もういっそのこと関わるな。私の半径一〇〇〇メートルに近づくな。

 私の彼は、彼だった人は絶対に誰かに媚びたりなどしない。
いつだって自分がそうありたいと思う自分を貫いていた。
その分世間の風当たりは強かったが、それすらも跳ね返すような実力が彼にはあったのだ。
そこが一番好きだった。



「えー、ショーコちゃんってカレシと別れたばっかなんだーぁ?」
 アルコールが回ってみんな上機嫌になった頃、一人の男が馴れ馴れしく私の隣に座って来た。
「そーなのよー。藤田さんチャンスよー」
「ちょっと亮子……」
 こんな汗臭いような人生を送っている人間と付き合うだなんて真っ平ごめんだ。亮子もこんなものを押し付けるだなんて、お節介というよりも故意的に不要な男を端に除けておきたいだけなんじゃないだろうか。そうだとしたらかなり腹黒い。
「そっかー。じゃあオレ、口説いちゃおっかな」
「困ります……」
 お前も調子に乗ってるんじゃねーよ。このクズ。低脳。×××××!


 その時、ふとテーブルの隅でつまらなさそうにちびちびとビールを飲む男性が目に入った。
 他のクズどもがこれだけ盛り上がっているというのに、実につまらなさそうで、今わの際にでも立ち会っているかのような面持ちではないか。

 驚くことにそれは、さっきまで一番うざったいと思っていた彼だった。
「すいません、ちょっとお化粧直しに行ってきますね」
 無論、席を立つための口実だ。それでも藤田というクズはへらへらと「いってらっしゃい」などとほざいている。



「ずいぶんつまらなさそうですね」
 非常にゆっくりと落ち着いた様子で彼はこちらを見上げた。
「おれ、しらふの方がテンション上がりやすいんだ」
「珍しい」
 彼は頬杖をつきながら右人差し指でジョッキに付着した水滴をすっとなでおろした。
「隣、良いですか?」
「おれは別に構わないけど、いいの?」
「いいんです。一緒に居たらお互い、誰かに言い寄られて煩わしい思いしなくても良いでしょう?」
 それもそうかもね。と言いながら彼は私が座れる程度の場所を開けた。
「本当は私も困ってたんです。藤田さん案外しつこくって」
「あれは女に飢えてるからな。悪い奴じゃないけどね」
 悪くなかろうがなんだろうがクズはクズ。
「なんでさっきはあんなに盛り上がってたんですか?」
「あぁ。盛り上がってたっていうか盛り上げてただけだよ。最初はちょっと気まずかったから」
 顎を引き、はにかむように微笑んだ。

 それが


 何故か

「えっと、名前……何て言いましたっけ」
「おれ?赤井」
「赤井さん」

 道化じみているほど騒ぎ立てる彼と、周りが盛り上がった後のこのアンニュイな様子の落差が少し可笑しかった。

「赤井さんは、優しいんですね」
「なにそれ」
「他人への配慮っていうのかな。自分がどんなに楽しくなくたって他の人たちを楽しませるような、そんな努力が出来るってすごいなって思うんです」
「別に楽しくないわけじゃないよ」
「うそ。本当はどうでも良いと思ってるでしょ」
「……」
 赤井さんは照れているのを誤魔化すかのようにビールを口に運んだ。

 『彼』は、いつも冷静で大人びていたけれど、自分にも他人にも厳しいところがあった。
当時の私は彼のそんな所も好きだと思っていたけれど、よくよく考えてみたら優しくなんてされた記憶ちっとも無い事に気付いた。
 甘えたいわけじゃない。優しくされたいわけじゃない。けれど


「赤井さんは、優しいのよ」

 たまには、そんな恋だってしても良いじゃないか。



 そうして私は恋に落ちた。










「おい赤井。なにぶーたれてるんだよ」
 合コンの二次会(というより反省会)の時には見事に出来上がり、見事な低テンションっぷりを他の面々の前に晒していた。
「そうだよ。おめぇ、この前の合コンで女ゲットしたんだろうが。この卑怯もん」
 目線をちらりと上げてみたが、久々の悪酔いで頭がずきずきする。すぐにまた突っ伏した。
「今幸せ絶頂期なんじゃねぇの?うらやましーなー」

 彼女の事が忘れられずにいた。

 とても気品のある女性で、まつげがとても長くて、肌がとても白くて。
陽だまりの似合う女性だった。


「別れたよ」
 今のおれにはそう言うだけが肉体的にも精神的にも精一杯でその詳細を語る気には到底なれなかった。

ただ友人たちの絶叫にも似た追及の声を遠くなっていく意識の中で聞いていた。



「家に?」
 付き合ってからまだ三週間過ぎた頃、彼女は突然そう言った。
「うん。ご飯を、作ってあげようと思って」
「え、いや。ご飯って」
 彼女はどこか気まずそうな、恥ずかしそうな顔で、迷惑?とだけ尋ねた。
咄嗟におれは首を横に振り
「そんなことないよ。でも、ほらさ。でも……」
 流石にまだ早すぎるんじゃないだろうか。そんなことばかりを考えていた。
否定する理由なんてどこにもない。
「いいの?」
「うん。いいよ。美味しいご飯作るね」
 と言う彼女の笑顔に軽い電撃を喰らいながら、なるべく平静を装った。


 それから買い物をして、おれの家に着いた。

 それから、ご飯を作ってもらって、デザートを食べて



 振られた。

 あまりにも唐突で、何が原因なのかさえわからないまま別れを切り出され、連絡も取れない状態に陥った。
 納得なんていくものか。
 それでも振られたという事実だけが浮き彫りになり、結局それは受け入れなければならない現実となりつつあった。

 





 私はなるべく普通の恋人のように振舞う事を心がけた。
 彼の収入は一般的で、高級レストランなんかを望むことなど出来はしない。
 だからそれほど高望みはせず、良心的な値段の無難なデートを繰り返していた。
 彼の事をどんどんと好きになっていき、彼もまた私の事をだんだん好きになってくれている事も確かに感じていた。
 だが、時々小うるさい店などで食事をしていると、『彼』とのデートを思い出してしまう。食べ物も口では美味しいね、と言っていたが、正直な私の舌は極上の逸品を求めていた。  その非常にアンバランスな恋心を抱きながらも、ずるずると三週間過ごした。



「家に?」
 私が家に行っても良いかと問うと、彼はそう言った。
「うん。ご飯を、作ってあげようと思って」
 まさか男女のそれをしたいだとか思われると困るのでそう付け足しておいたが、彼は少し顔を赤らめていた。
 彼の事は好きだが、こんな勘違いは正直困る。
「え、いや。ご飯って」
「迷惑?」
 私はそんな軽い女じゃない。
「そんなことないよ。でもほらさ。でも……」
 期待するだけ無駄だよ。
「いいの?」
「うん。いいよ。美味しいご飯作るね」
 正直なところ、私は彼を利用しているに過ぎない。
 一般的な事をしてみたかった。
 普通の「彼女」がするような、家庭的で温かい、思いやりの詰まった愛を注いでみたかった。
 私だってもう結婚しても不思議ではない。『彼』とはあの時の関係があまりにも心地よすぎて結婚だなんていうものは意識していないし、『彼』もまた家庭に落ち着く事を望んではいなかったので、 どこか割り切った関係になりがちだった。
 だから今度の恋愛はそうならないように、と思っているのだ。


 夕飯は冷しゃぶにすることにした。薄切りの豚肉と大根、レタスを買い、他にも何か買おうと思い、デザート類の置いてある一角へ向かった。
 会話は非常に他愛の無いことばかりだ。それでもどこか頬のにくがゆるんでしまうような。
 平凡な幸せを少しずつ感じていた。


「デザート、何食べたい?」
「そうだなぁ」
「なんかさっぱりしたものがいいね」
 ぱっと目に付いた代官山のパティシエ監修の下作られたクリームブリュレに手を伸ばしかけたが、彼はすっと手を伸ばし、安いプリンを手に取った。
「これがいい。おれ、これ好きなんだ」
 私は正直そのプリンが好きじゃなかった。甘さがくどいし妙なやわらかさが気に食わない。だから私はクリームブリュレをつかもうと手を伸ばした。
 手を伸ばした。
「うん、じゃあ、あたしもそれにする」
 安っぽいプリンをかごに入れた。


 安っぽくても良い。だんだんとそんな生活に慣れて行かなくちゃいけない。
 彼とうまくやっていくため。彼をもっと好きになるため。




 夕飯は彼の口に合ったようだ。
 (しかし冷しゃぶなど料理の腕前と全く関係ないが)
 彼もとても喜んでくれて、会話も驚くほどに弾んだ。
 彼と居ると、幸せが滲み出てくる。彼が笑う度に私もおかしくなって、心のどこかからじんわりと幸せが分泌され、体中を巡る。
 少しずつ。少しずつ。
 前の彼とは違う安心感を憶えていた。



「プリン食べようか」
「そうしよう」
 席を立って冷蔵庫に向かう。

 不安はまだある。スーパーの安売りの薄っぺらい豚肉なんかよりも、神戸牛のステーキの方が美味しいに決まっている。
 スーパーで売ってるデザートなんかよりも、パーラーのスウィーツを食べたい。
 でも、どれだけ時間がかかっても、彼との幸せがその味を忘れさせてくれるに違いない。
 私はそう信じる事にした。


「はい」
「ありがと」
 彼はカップの下にある突起を折り、皿に開けた。私はそのままカップで食べる。

「ねぇ」
「うん?」
「どうしてカラメルを先に食べてるの?普通一緒に食べない?」
 彼は上にあるカラメルを掬い取って食べていた。
 下のカスタードが好きなのだろうか?
「へっへー。これでいいの」

 カラメル部分を食べ終わると、黄色い物体が残った。
そして
「おれ、こうやって食べるのが好きなんだ」



「……何してるの?」
 背筋が、寒い。

「知らない?」
 彼はどぼどぼと黒い液体を注いでいた。ほのかに香るしょうゆのにおい。

「プリンにしょうゆをかけるとウニの味になるんだよ。子供の頃とか流行らなかった?」

 プリンにしょうゆでウニ。きゅうりにハチミツでメロン。確かにそんなものもあった気がする。
「やべぇ。超ウニ」


 はっきりと聞こえた。

 私の中で何かが切れる音。
「ねぇ」


「ねぇ」
「なに?」
「やめようよ、そんなの」
 彼は笑った。幸せを感じさせてくれる、高級料理の味を忘れさせてくれるはずの笑顔。
「なんで?おれウニ好きなんだ」
「やめようよ、ウニ買って食べればいいじゃない」
「いいんだよ。俺貧乏だからウニなんて買えないし。ウニっぽければコレで良いじゃん」
「イヤなの」


 これは夢から覚めた時の感覚と似ていた。
「別れようか」
 始まろうとした恋物語もその一言で容易く終焉を迎えた。
 庶民派でも良い。
 愛する彼のためならどんな我慢だってしてあげた。


 けれど、私は
「プリンにしょうゆをかけて、それで満足するような男、耐えられないの」
 それを聞いた亮子はなんとも言えない顔をしながら笑いこけた。
「確かにねぇ。でもかわいいじゃない」
「そういう問題じゃないの」
 私の時もそうだったのだろうか。前の彼にとって「かわいい」で許されない何かがあり、彼の中で急速に何かが崩れてあの一言に繋がったのか。
プリンの彼が全く身に覚えの無いまま振られたように、私が気付けなかっただけなのかもしれない。

 振られる側の気持ちはデクレッシェンドでも、振る側の気持ちは急に止まることもありえるのだ。

 これから先、どんな人間と付き合うかわからない。石油王並の金持ちかもしれない。明日食う米もない貧乏人かもしれない。
 けれどどんなステータスを持っていてもであってもプリンにしょうゆをかけて満足するような、人間として安い男とは絶対に付き合わない。
 固く、心に誓った。






「軽快に傾壊」終。





「このまま壊そうか。」へ


あいうえお題一覧へ



茶室トップへ戻る




ねぇ、ところで今恋愛に関してアプローチをかけることを「アタック」って言うの?

プリンの彼は「翔子は陽だまりが似合う」とか言ってますが、陽だまりよりもクーラーの効いた室内の方が似合います。
心の中で罵倒するような人間ですから。


ところで最近女性主人公ばかりなので今度こそ男性にしようと思ったのですが
プリンにしょうゆをかけて満足する奴なんて嫌だ
と言う話が書きたかったので、もし男性が主人公だとしたら
「プリンにしょうゆかけるなんて。変なの。でもかわいい★」という展開になりそうなので、結局女性主人公になりました。
そんな事で男性は女性に失望しないと思うのです。


男ってアホ。

by♂


俺だったらちょっと引くぐらいです。