山の中にある小さな工房の中、一人の男が低くうなっていた。
男は無精ひげを気ままに生やしており、頭に巻いた白い手ぬぐいからはみ出るくしゃくしゃした黒髪は伸びに伸びていて、お世辞にも綺麗とは言えない風貌をしていた。
着ている作務衣もいつ洗濯したかあまり考えたくは無い。

 そんな男だが、陶芸の腕は確かなもので、その世界ではなかなか名の知れた人物だ。よってここでは敢えて名前を伏せることにする。

 その男はうなりながら、手の中に収まっている釜だしの終わった見事な作品を穴が開くほど見つめ、思わず湧いた生唾をごくりと喉の奥に追いやった。
 男の鼓動は時を浪費するごとに早鐘を打ち、頭上から水を注がれているかのように流れる汗を気に止めることなく、石像のようにぴくりとも動かぬままそれをひたすら見ていた。
 しかしその呆けた顔とは裏腹に男は耐えず思考を巡らせ、浮かび上がる思いを必死に砕き続けているのだ。
 男は必死で戦っている。

 男は作品を最初に見た時、落雷のような感動を得た。
 なんとまぁ見事な事。その色、形、手触り、全てが美しかった。
 こんなものがこの世に存在していて良いだろうか。近代の陶芸家程度ではこの作品の隣に自分の作品が置けるはずが無い。
どんな作品だってこれの隣に置けば、体験教室で作ったようにしか見えない。
どんな作品だってイミテーションにしか過ぎないのだということに気付かされてしまうだろう。
現に男も、今まで自分が作ってきた作品を全て壊してしまいたいという衝動駆られていた。

これを世に発表すれば驚くような値が付くことだろう。無形文化財に認定されることも決してありえない話ではない。
その名は雷鳴のごとく世に轟き、貧しさとは一生縁の無い人生を送る事が出来るだろう。

 これは国の宝となる。

 だから、男は今それを壊そうとしていた。

 こんなものが存在して良いはずが無い。

 なぜならこれは数十年陶芸を続けている男が作ったのではなく、ようやく釜を使う事を許されるようになった一人の青年が作ったものなのだから。



 その彼は数年前に高校を中退した後、男の元へ土下座して弟子入りを志願した。
彼の陶芸経験は非常に浅く、素人が少し陶芸の事をかじった程度しかなかった。
 そんな青年をなぜ弟子に取ったのか。それはきっと頼み込んだ彼の瞳の奥に潜む「後が無い」故の真剣さが他の選択肢を許さなかったのだろう、と男は今になって思う。
 彼はきっと「もし男に断られたら」などという保険的な考えは一切考えて居なかったに違いない。

 後ろに退けない人間の強さは本当に恐ろしい。窮鼠猫を咬むと言うように、失えるものはほとんど失い、今手にしているものを失ったらもはや待つのは死のみ、
という覚悟を持った生き物は凄まじい力を発揮する。
 彼も陶芸の基本的な技は本当に海綿が水を吸い込むように吸収しつくし、自分の内なる体積を貪々と膨らまし続けた。
これが若さというものだろうか。
 いや、それだけでは決してあるまい。 幾星霜経験を積み重ねてようやくこの地位までのぼりつめてきたこの男など、助走無しに跳躍して神の聖域まで踏み込んでしまう。
 彼は恐らく「天才」と呼ばれている物なのだ。

天才の作ったこの作品は、きっと世に送り出せば瞬く間に名声を手に入れるに違いない。陶芸の良さなど分からない人間にだってその美しさに嘆息をつかせる。
それだけの美しさがこの作品からはあふれ出している。

作品の美しさというのは通常詰め込まれているもので、その道に深く通じ、確かな目を持った者のみが中に隠れた美しさを千里眼のごとく見通す事が出来るようになる。
だから良し悪しの分かる人間と分からない人間がうまれ、芸術というものが敬遠されているのだが、
 本当の美しさを持つものというのは瞳が捉えた瞬間、その器に収まりきらなかった美しさが流れ込んでくる。
それこそが人々を魅了し、世界の宝として扱われる。

壊すべきではない。
そんなことをして良いはずがない。

それがどれだけ世界に対して損失を与えるかは十二分に理解していると言うのに。

しかし男は思うのだ。彼はまだ若い。さほどの苦労もせず周りから囃し立てられ成り上がっていけば遠くない将来その腕は霞み、神からは見放される運命になるだろう。
彼にはこれ以上の物を作るだけの将来性がある。これすらも超える作品を。

だからこの作品は壊さなければならない。それは師としての仕事であり、責任でもある。

お前のためだ、許せ――――



硬い岩のような手からするりと世界の宝が滑り落ちた。

男はそれが地に着いた瞬間の悲鳴すら聞き、静寂と余韻の響く中、散らばる破片をじっと静かに眺めていた。






どれだけ長い事それを見ていたのだろう。

汗がだらだらと滴り、二、三滴破片の上にこぼれた。
「はは……はははは」
これを罪悪感と呼ぶのか。だとしたら
「ははは、はは、は、はぁは」
 なんと甘い。なんと美しい。なんと清々しい。


「師匠!」
びくんと全身の筋肉が痙攣した。奥歯は音を鳴らし、一瞬思考が鈍った。
見られた?いつから?どこから?
「お昼できましたよー……ってあれ」
 彼はゆっくりと近づいて、破片の元で足を止めると「あーあ」と言いながら腰をかがめ、一つ一つ丁寧に拾い上げた。
「こんなところで割らないで下さいよ。早く片付けなきゃ」
「…………」
「あれ、これってもしかして俺の……?」
「そうだ。あまりに酷い出来だったから割ったんだ」
「そうなんですか」
 男は彼から背を向けずにはいられなかった。彼の瞳を見て正気でいられるはずが無い。
改めて自分のした事の恐ろしさに気付いた。しかし狂気は既に体を蝕んでいる。器を壊した時の快感が脳髄を溶かし、ぬるりとした快楽が甘く激しく体全体に響いている。
それを悟られまいと必死で目をそらした。
「じゃあ、俺次はもっと良いもの作りますから!」



あぁ、そうか。
 男はようやく自分が本当にやりたかったことに気付いた。
「そうだな。頑張れよ」




 もう一つだけ、壊さなくてはならないものがあったんだ。


 「このまま壊そうか。」 終

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懺悔その1・陶芸、やったことありません。
懺悔その2・だから陶芸の素晴らしさがわかりません。
懺悔その3・何がどう素晴らしいと書けば良いのかわからないので、ものすごくぼかしました。
懺悔その4・でも「壊す」という言葉が適しているのはやっぱり陶芸だったから結局その部分はネットで調べたにわか知識を駆使して書きました。
懺悔その5・ほんと、すいません。最後の一文が書きたかっただけなんです。
懺悔その6・貪々は「どんどん」と読みます。貪欲の貪です。多分造語。
懺悔その7・最後に男が壊そうと思ったのは……わかりますよね。