私が中庭のベンチに座って煙草を燻らせていると、「須藤先生」と私を呼ぶ力無い声が聞こえ、慌てて携帯用灰皿に煙草を押し付けた。
 振り向くと曇った表情の老女が一人、数歩離れた所に立っていた。
その格好から見舞い客であることは明らかだったが、陰鬱な影を映したその顔は病人のようだった。
「ああ、山城さんの奥さん」
 老女は深く一礼した。501号室に入院している山城正勝(やましろ まさかつ)氏の奥さんだった
山城正勝氏は私が担当している患者で、二週間ほど前に入院してきた。
「隣、よろしいでしょうか?」
「え、あぁはい。どうぞどうぞ」
 まだだいぶ吸えたはずの煙草をまじまじと眺めた後、灰皿の中に押し込んで少し隣をあける。
「お煙草でしたら構いませんよ」
「いえいえ、そういうんじゃないんです。ここ全面禁煙になっちゃったもんで本当は吸っちゃいけないんです」
「そうなんですか?」
「まぁ医者の不養生ってのも笑えませんから。しょうがないです」
 老女はゆっくりと腰を下ろした。
「良い天気ですねえ。うーんと伸びをしたいです」
 空は高く、絶好の喫煙日和ではあったけれど、隣人は深刻な面持ちで口を真一文字に結んだまま押し黙っていた。
 患者の家族ではよくある思い悩んだ雰囲気だったので、私は出来る限り和やかな口調で、と気遣う。
「どうかしました?山城さんのことで何か相談があったら何でも聞きますよ」
「……聞いていただけますか?」
 色を失った唇はかすかに震え、今にも事切れてしまいそうだった。患者よりもその家族の方が重病というのは良くある話。
「ええ、私でよろしかったら」

 そう言われても山城夫人は沈黙を守り、強く手を握り締めていた。
「奥さんは煙草、吸いますか?」
「いいえ、私はあまり」
「そうですか。お嫌いで?」
「いえ、そういうわけではないのですが。主人は良く吸っていましたよ」
「じゃあちょっと……やっぱりよろしいですかねぇ」
「構いません」
 それじゃあ失礼して、と断って胸ポケットに忍ばせていたマイルドセブンとジッポーライターを取り出し、かちりかちりと火を灯す。
「いやあ、どうも私はこれがないと生きていけないみたいで。落ち着かないんですよねぇ」
「はあ」
「もう立派なニコチン中毒ですよ。ははは」
「……でもそれだけ好きになれるものがあるというのは、私はうらやましいです」
「好きって言うか……」
 今まで喫煙家として嫌な顔をされたり窘められたりすることはあったけれどそんな風に褒められたのは初めてだった。
 健康に関する指摘をされると(例えそれが事実であったとしても)実に不愉快な気持ちになるが、推奨されるのもどこかシャツを後ろ前逆に着ているような感覚になるものだ。
「先生はご結婚されていますか?」
「ええ。あんまりかわいくない娘も二人居ます」
「娘さんを愛していらっしゃいますか?」
 灰を落とす。
「そりゃもちろん。あんまり好かれていませんが娘は娘ですから。愛していますよ」
「では、奥さんを愛していらっしゃいますか?」
 危うく煙草を落とすところだった。
「はい?」
「奥さんを愛していらっしゃいますか?」
「……えぇ、えーっと。はい。愛しています」
 周囲を見渡すが誰も居なかった。こんなところを誰かに聞かれたら勘違いされそうなので、それだけけは勘弁していただきたい。
「それが何か?」
 まさか私にそんな台詞を吐かせるための質問ではないだろう。その裏に何かしらの思惑があり、そこで悩みを抱えているはずだ。
 しかし、私は彼女の懐にテープレコーダーでも隠し持っているんじゃないだろうかという杞憂を捨てきる事は出来なかった。
「私は」


「うちの主人はもう長くないと、仰いましたね」
「……はい」
 山城氏の体はすでにぼろぼろで、もう手の施しようがない状態にまでなっていた。年齢も年齢で手術に耐えうるだけの体力もない。
ただ苦痛を和らげ、短い余生をなるべく楽に生かしてやることしか我々にできることはなかった。

「私はひどい女だと思われるでしょうか」
「どうしてですか?」


「私は余命を聞いた時、落胆しました」
「それは普通のことだと思います。それに奥さんは気丈に」
 嗚咽の一つも漏らさなかったのを覚えている。
 氏の余命が数ヶ月しかない事を告げても「そうなんですか」と述べたぐらいで、全くなんの動揺も見せなかった。
平静を装っているようには見えない、それをしっかりと受け止めているようだった。
「それは違いますよ、先生」
「違うと言いますと」
「私が落胆したのは


 あの人がまだ数ヶ月も生きるということです」

 静かに風が流れ、病院独特の消毒された空気が香る。
 灰が落ちた。
「それはそのままの意味で受け取っていいですか?」
「はい」
 数ヶ月も生の苦痛を与える事を哀れんで、というようなニュアンスではない事は明白だ。
夫人の言葉は「残業をしなければならない」と似たような音の響きを持って聞こえた。
「こう言っては何ですが、ご主人の事をお嫌いで?」
「いいえ、そうではありません」
 ではどうして、という言葉を飲み込んだ。
「先生はきっと信じられないでしょうね」
「……?」
「私ね、あの人の顔を知ったのは結婚式の当日だったんですよ」
 夫人はしわをよせて微笑んだ。けれどその中に幸せはどこにも見当たらない。
「うちの家柄もあったんでしょうが、家と家の結婚だったんです。
 少なくとも私の周りで好き合ってる二人が結婚する事なんてほとんどなかった。
 そうやって結婚することが当たり前だった時代なんです」
 話には聞いていた。家と家との結びつきを強めるための道具として見られている風潮が強い時代だったのだろう。
「だから私だってなんの不満も持たずに結婚しました。子供も四人産みました。
 人並みの幸せを手に入れていると信じていました」


「今年で、結婚して五十年になるんですよ。五十年。例えどんな出会いだってそれだけ長く一緒にいるから情だって生まれると思いました。 時間を重ねれば『愛』は生まれるんじゃないかと」
 煙草の煙を吸いながら私は静かに老女の話を聞く。
「でも、あの時あの人の余命を言われて気付いたんです。私はあの人の事を愛してなんていなかった。
 あの人が死ぬと知っても、何の悲しみも生まれない。利己的な感情しか感じられませんでした。  そこに『情』というものは生まれていたかもしれません。けれど、それは決して、決して愛なんかじゃなかった。
 ただ五十年前に家と家の間で交わされた約束に縛られて同じ屋根の下に暮らしていただけだったんです。
 五十年もかかりました。気付くのに五十年も。
 気付いたらなんと虚しい五十年だったろうかと思います。
 どうして私がそんなに長い間、見ず知らずの男性と同じ屋根の下に暮らさなければいけなかったんでしょうね」


 私は横目で夫人の様子を見る。ほとほと困り果てて頭痛がするような格好で独白を続けている。
 それは相談ではないことにうすうす気付いていた。これは懺悔だ。彼女自身の罪を赦してもらうための懺悔なのだ。
 私に解決を求めているわけではない。ただ彼女の中に溜まっている老廃物を昇華させるために私の隣に寄り添い、その罪を私に吐き捨てているのだ。
「本当にそうでしょうか」
「え?」
「愛と言うのは本来そういうものです。手にとって確かめることなどできない。
 それがどんな形をしていて、どんな色で、どんな名前であるかは自分で決めるしかないのですよ」
 煙を吐く。遠くではしゃぐ子供の声が木々の囁きの合間に響いた。煙は霧散し、平穏な空気に溶けていった。
 その煙と中庭の緑とが私の心に平穏をもたらした。しかし隣に座る夫人の平穏はいつ訪れると言うのだろう。
「女性というのは」
 それは山城氏が死んだときだろうか。
「悩みを男性に話す時、男性に解決を求めているのではなく、ただ単に捌け口として利用していると聞いたのですが言うのは本当なんですか?」
「……それは、相手によると思います」
 それとも、
「それにそれは真剣に聞いてくれればそれだけでも嬉しい、ということだと思いますよ」
「なるほど。つまりそういうことを私に望んでいるわけですね」
 夫人は困ったように眉間にしわを寄せ、力なく笑うと、強く握り締めていた手を解き、深いため息をついた。
「娘が離婚したんですよ」
 静かな風が髪を揺らしながら二人の間を通り抜ける。私は真剣にその言葉に耳を傾けていた。
「結婚して結構経っていたと思います。それなのにどうしてと訊いたら」
 なんて言ったと思いますか?
 恨めしいような、悲しいような、おかしいような顔をしながら私を見ながら言った。 「…………」


 『私はあの人の事を愛していなかったことに気付いたのよ』


「もう可笑しくて可笑しくて」
 好き合って結婚したはずなのに結局別れてしまうんです。好きでもないのに一緒に居た私たちよりもはるかに短い間しか暮らしていないのに。
離婚が忌むべきものではないと、世間が認識しているのでしょうね。
私達が結婚した時はそんなこと、決して出来ませんでしたから。
今は、とても良い時代なのですねえ。
 そう言い終わると夫人は立ち上がり、うな垂れるように頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。主人をよろしくお願いします」
 急いで立ち上がり、軽く頭を下げ返す。
「いえ、こちらこそ」
「先生、もう一つだけお願いがあります」
 私の瞳の奥を覗き込むように私を見上げながら、囁いた。




 院内にあるひっそりとした公衆電話にコインを入れ、聞きなれた呼び出し音を静かに聞いていた。

「俺」
 電話に出た相手はとてもびっくりしたようだ。私から電話をかけるなどということはめったにない。
「いや、別にそんな用があったわけじゃないけどさ」
 心配しながらも訝しんで、ちくちくと探りを入れられた。苦笑して
「本当だよ。今日さ、早く帰れるから食事でもどうかな」
 更に訝しんだ。めったな事はするもんじゃないな、と思いながらも何が食べたいかを尋ねると
 迷うことなく寿司を選んだ。
「ゲンキンなやつだな。じゃあ七時半にそこの寿司屋で」



「あー、あとそれからさ」



『先生がもし奥さんを愛していると言うなら、ちゃんと愛していると、伝えてあげてください』








「今日まで気付かなかった。」終。





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 本当に生まれてこの方煙草吸ったことないので妄想描写になりました。
銘柄もよくわからないので検索かけて一覧表の一番上にあったやつを適当に選んだだけです。
 ちなみに「式の当日まで相手の顔を知らなかった」というのは
うちの祖母のエピソードとして母から飽きるほど聞かされたものです。
 まぁ祖父は僕が生まれる前に死んだのでどんな関係だったかは知りませんが、
作中の夫婦のようではなかった事だけは付け加えておきます。