寝ぼけ眼の街は朝霧のブランケットにくるまって、ひっそりと朝の日差しを浴びていた。


 そんな街を歩くのは、もう終わった祭りの会場を独りで歩いているような、
めでたしめでたしの絵本の中に置いていかれたような
そんな寂しさを私の心の隙間に注ぎ込んでくる。

 緩やかな坂を登っていくと、Y字路が見えてきた。
そのY字路はどちらの道を行っても同じ場所に着くので、どちらを選んだところで変わりはないけれど
慣習的に左を行く。
それには何の意味も無く、ジンクスの類すらも無い。
ただ左側の方がほんのわずかに道幅が広くなっているのを無意識の内に感じ取っているだけだった。

これは何かに似ている。

そうだ。
口に出すのも恥ずかしいけれど「人生」っていうやつだ。

納得したすぐ後にそれが間違いだと言うことに気づく。
だって人生というやつには様々な分岐点と選択肢が配置されていて
いろんなキャッチコピーを肩にかけながら人間という駒を招きいれようとして来る。
一度入ったが最期。
ひとたび間違えたらばもう二度と引き返すことはできず、
苦難と言う名の茨に身を裂かれながら生きる事を強制される。
 そのくせその選択肢の中に当たりなんていうものは存在していなくて
どの道を進んだところでほかの道を選ぶべきだったという後悔に囚われてしまう。


あるいは、当たりを引いていても、気づかずにはずれくじだと思い込んでいるのかもしれない。

 人生とは地雷原を歩いていくようなものだと私は思う。





 この時間だと通勤ラッシュに遭うこともなく出勤する事ができる。
それを目的にこんな朝早く家を出るのだが、
入り口のガードマン以外に誰も出社していないオフィスで一人きりというのは案外つまらないものではあった。




 ひっそりとしたオフィスに入ってすぐ、足を止めて辺りを見回してみた。
無機質に静まり返った空間。並ぶデスク。鎮座するパソコン。

 今しがたつけたエアコンの息遣いが響く中、感覚が薄れてしまい、
ここには自分が存在しないかのような錯覚に陥る。
本当に存在なんてしていないのかもしれない。

 私を確固たるものにしている思い出達だって砂漠の向こうで霞むようなアレなのかもしれない。

 それがもし蜃気楼であるというなら、一昨日のあの一言さえも幻なのだ。


「そろそろさ、結婚しない?」
「え?」
 彼のその一言が周りの喧騒を一瞬にして吸い込んでしまったように私の周りから音が遮断された。

一昨日の夜、会社帰りの居酒屋で、付き合っている彼が唐突にそう言ってきた。
しかし私は案外冷静にイカのから揚げを口に放り込むのである。
喧騒もすでに戻っていた。

「なによいきなり」
「ほら、俺達もう付き合って二年になるし。そろそろいいんじゃないかなぁーっとさ」
 ジョッキの半分ほど飲みきったビールをくっと煽り、照れくささを隠すように彼は言った。
「……どうして?」
「どうしてって。俺達もう三十路だぜ?」
 イカは非常に堅く、なかなか噛み切る事ができない。
口の中で転がしても頑固なままなので、無理矢理流し込んだ。
泣いた時のようにのどの奥がつんとしている。

「三十になったから結婚するの?」

「君の事が好きだからだよ」
「でもあなたはそう言った」
「それはなんつーか……前振りっていうかさ」


「私の事、愛している?」

「あ愛してるよ!」

あわててこちらを向き肯定する様はあまりにも情けなかった。


 愛している。

その言葉もあまりしっくりこない。
愛って何だろう。
その人を想う事?
信じる事?
好きって口に出すこと?
肉体的なつながりを持つこと?

 あまりにもばかばかしくなって席を立った。
おい、と彼は呼び止めたけれど、ビールがまだ残っているのを気にしているのが横目で見えた。


あなたの愛ってやつはそんなものだったんですか。




 本当は彼の事が好きだった。
結婚という言葉を聞いて素直に飛び上がりたかった。

 けれど、私は結婚をしたいとは思えないのである。
 結婚という生々しい現実を目の前に押し付けられ、どうすればいいのかわからず戸惑ってしまう。


 私は大人になりきれていないのだ。


 三十にもなって……と言われるのだろうが、私には大人になったという実感が全く無い。
 おそらくそれは私がまだ実家で暮らしている事や、タバコが吸えない事、
お酒があまり飲めないことなんかが起因しているのかもしれないが、
それだけではない。


自分でもよくわかっていないのだけれど、自分が大人であることから逃げ出してしまいたいのである。

 自分というものをイメージするとき、今のこのスーツ姿ではなく、茶色いだぼだぼなセーターに真紅のリボン、
灰色のプリーツスカートにルーズソックスなのだ。
今から今から十四年前、ルーズソックスが流行り始めた九十年代中ごろの私をイメージしているのだ。


 本当はあのころのように髪を金色に染めたい。
こんな黒だか茶色だかわからないような辛気臭い色ではなく、もっと目立つような色に……。


 だけれど「大人なんだから」と諌められるだけだし、そんな頭じゃ会社に行けないのも事実なので
しょうがなく今の髪色で妥協してしまっている。


大人なんかになりたくなかった。

いいや、正確には「こんな大人」になりたくなんてなかったのだ。
 私には夢があった。
理想の大人像があった。


 けれどそれは所詮儚い夢でしかなかったのだ。
高校を卒業して、大学に入って、就職して……

 ただ世間と時間に流されていたら夢は夢のままで終わってしまうのだ。

私の夢はもう叶わない。

就職したって夢の実現のための努力はできるなんて高をくくっていたけれど、
日々の忙しさに溺れ、今の今まで結局何もできていないのが現実。

 こうやって一生は終わっていくのかしら。



 そう思うと結婚にも踏み出すことができなくなってしまった。
もしこのまま婚姻届にサインをしたら、
そのまま平凡でつまらない人生を送る事を了解してしまうような気がしてならない。
それがたまらなく嫌なのだ。
希望あふれる、不確かな未来を手探っているあの時代のままでいたい……。


けれど私は何をしたらいいのか、それはよくわからないのだった。


力ない足取りでデスクにつき、パソコンの電源を入れた。
少し古いために立ち上がりがのろまだ。
いつも私を苛々させる。

 けれど、自分の身分をわきまえ、着実に自分の仕事をこなしていくパソコンの方が、
私なんかよりもぐんと偉いのではないだろうか。

夢なんて見ないで、潔く。

苛ついているのは自分に対してなのかもしれない。

 泣き叫びたかった。
子供のように泣くだけ泣き喚いて、すっきりとしたい。


けれど涙腺はきつくしまりそれをよしとしない。
大人ではないけれど、子供でもないのだ。

昔流行ったノリのいい歌を震える声で口ずさんで、キーボードを叩き始めた。









 家に帰り、ピンク色のベッドに倒れこむ。
この部屋は十代のあの頃と全く変わらない。
流石に当時好きだったアイドルのポスターは剥がしているけれど
愛くるしい顔をしたぬいぐるみや、ずっしり重いプリクラ帳、
友達と撮った写真を貼ったコルクボードはそのままにしていた。
そのままにしているといえば……


ふと思い出した。

 上体を起こす。
疲れも忘れてクローゼットを溶けるように見つめながら、一生懸命に埋もれた記憶を探る。





確か




確か衣装ケースの中に



短距離のスタートみたいに飛び出し、クローゼットにもぐりこんだ。


ああ、私は何をしているのだろう





何がしたいんだろう。



そんなもの見つけたってどうしようもないのに





ただ未練だけが増長するだけなのに……




五分ほど探っていると、ようやく見つけ出した。


白くてマフラーにできそうなくらい長い、
あの時代、女子高生の代名詞となった『ルーズソックス』




まるで宝物を見つけたときのように恍惚とした気分になり
じっとそれを見つめていた。

懐かしさで胸がいっぱいになり、危うく熱いものがこみ上げて来るところだった。

まだ履けるよね。

急いでストッキングを脱ぎ捨て、長い靴下を足に通していく……




ああ、懐かしい。



足を包むこの履き心地、あの時代の感覚をありありと思い出すことができる。


ブレザーって、あったかな?


確か、せっかく買ったからという理由でとっておいたはず。

案外簡単にブレザーとスカートが出てきた。

にんまりと笑うと、強い衝動が湧いて出てきた。

着てみよう


スーツにしわがつくことなど遠慮しないで脱ぎ捨てて、袖を通す。

幸いな事に体型はそれほどまで変わっていないため、労せずして着ることができた。

このなじむ感じ。
制服もまた私の事を覚えてくれていたのだ。
懐かしい友人にばったりと会ったような嬉しさ。
くるりとまわるとスカートのすそもふわりと回転する。

これを着てプリクラを撮りに行ってはどうだろうか。
最新機種の事は知らないが、大して変わりはしないだろう。

半分冗談でそんな事を考えていると、
隣の部屋にカバーのかかった全身を見る事ができる鏡があることを思い出した。




 わくわくとした気持ちでカバーをはずし、



かがみよかがみよかがみさん





絶句。




この鏡はうそつき鏡なのだ。

そうにちがいない。

だってそこに映っているものは若々しい女子高生なんかじゃなく、


深い赤の口紅をさした、化粧の濃い三十女だったのだから。




普段生活をしている時は全く気にした事はない。
確かに結婚適齢期ぎりぎりではあったけれど、まだ十分に若いと思っている。

しかしそれは

同い年の人間と比べてのことだ。


私は年を取っていた。
あの頃の若さはあの頃にしかないもので、
日々磨り減ってしまっていたんだ。


中古品には中古品の良さがあるのだろうけれど、新しさで新品に勝つ事は不可能だ。





おもむろに携帯電話を取り出した。



「…………あ、私。
 ……うん、あのさ、この前のあれ。…………ううん、いいの。
 あの、私ね。
 結婚しようと思う。


 ……誰とって、あなたと……


 ……あははは……うん、うん」



 電話をかけるその姿は、ずいぶん滑稽で道化た制服姿。
ロマンティックなんてかけらもなくて、ぼんやり「子供には教えられないな」
と、少し先の未来に思いを馳せていた。


 それから少し後私は、婚姻届にサインした。
思い出にふたをしたまま、平凡な現実を受け入れますというサインを。


「思い出を畏れる」・終


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思い出というキーワードしか合ってないような


副題は「2009年のピーターパンレディ」でした。
もともと携帯でちまちま打ってた作品で、あいうえお題に挑む前から温めていました。

というか、俺にはわからない大人の世界を描いたので出すのに抵抗があったんですけど。
でもまぁ妄想上の産物はいつものことだからいーか!と開きなおってみました。


ちなみに、この作品に反感を抱いたあなたはきっと正常だと思います。

簡単に言うと「何もしなければ何もならない」ってことと「中古品の良さは自分で見つけよう」が主題です。
「夢は叶わない」というのはうわべだけのテーマですよって今回いいわけ多いなぁ