消毒液の清潔過ぎるにおい。

 ベッドが六つ入った病室には彼女と私、そして夜の闇しか存在しなかった。

 私はパイプ椅子に浅く腰をかけていた。彼女は静かに寝息を立て、夜の闇は物も言わずに音と言う音を食い潰しているようだった。


 静かだ。そう、あまりに静か過ぎる。


 元々賑々しい場所は苦手なので、本来ならば好ましい環境のはずだった。それでもこんな静けさは胃の奥をざわつかせてひどく不快な気持ちにさせる。

 自分の息の音が聞こえる。自分のリズムを感じる。


 窓からは月明かりが煌々と差し込んでいる。夜だと言うのに、こんなにも明るいなんて。 差し込む非常灯の不気味な緑も綺麗なはずの月明かりも、ざわざわを助長する。
 不安が心の中で倍に倍に増えて行く。


 病院とはなんと恐ろしいところだろう。

 この場所には死が満ちている。
 今彼女が使っているベッドは何人もの患者が使用しただろう。
 しかしその中で、誰かは退院できずに死に誘(いざな)われたのではないだろうか。

 そうした患者たちの思念、あるいは「死」が染み付いているような気がした。


 実際には危篤状態になったら集中治療室なりなんなりに運ばれるのだろうから、このベッドの上で息絶えるかどうかはわからないけれど、そんな風な気がする。
 そうでなければこの「嫌な感じ」は何だというのだ。


 そわそわする。ざわざわする。


 彼女の顔はこんなにも安らかなのに。見つめるこちら側にはちっとも伝染して来ない。
 運び込まれて処置を受けてから何時間経ったろう。とっぷりと夜が更けたというのに眠気さえ訪れず、ずっと緊張状態が続いていた。

 そわそわしているのは彼女がなかなか目を覚まさないから、というせいもある。
 深い呼吸を繰り返すのみで、意識が戻る気配は見えない。
 検査の結果、脳には異常が見られなかったのでそのうち目を覚ますとのことだったが、そんな言葉は何の慰めにもならなかった。
 表情の変わらない穏やか過ぎるその表情が直喩的に「死」を示しているのではないか、という考えを払拭できないまま、雪だるまの様に膨れ上がり続けた。
 早く、目ぇ覚ませ。ばか。


 それにしても、静かだ。
 まるで暗闇が音を全てたいらげてしまったかのように。
 一切の音が死んでしまったように。


 すると、突然目の前を何かが横切った。

 するすると

 ずるずるずると


 そろそろろろろ


 ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ


 私は身を守るように立ち上がった。膝の後ろでパイプ椅子を押し倒したはずなのに、耳障りな音は聞こえなかった。

 黒色をした何かが目の前をまた横切った。何だろう。

 『影』に似ているかもしれない。
 蛇のように細い形をした影がどこからともなく飛来し、這いずり、飛び交い、そして

 横たわる彼女に纏わりついた。

 ……これはなんだ?何故影がまるで意思を持つように飛び交っているのだ。

 一本一本の影が彼女の腕に、首に、胴に、足に絡み付き、影と影がうごめき、癒着を始める。
 巻きついていくというよりも、塗りつぶされて、あるいは食われているように見える。

 彼女の危機に対して、本能的に影をつかみ彼女から引き剥がそうとする。
 触れた瞬間、痛みのような冷たさが腕から脳にまで響いていった。

 この冷たさはまるで


 影の持つ冷たさが何に似ているのかを理解した瞬間、それが「何」なのかを理解した。
 これは影ではない。


 『死』そのものだ。


 引き剥がそうとつかんでもそれは液体のように指の間から零れ落ち、また彼女を乱暴に包み始めた。

「やめろ」

 彼女が死の中に埋葬されていく。

「やめろよ」

 為す術などない。死とは太古よりそのようなものなのだ。不平等に訪れているように見えるが、厳粛なまでに平等に訪れ、容赦なくその者の全てを奪う。


 彼女が奪われる。
「やめろよ! こいつは、まだ、死にたくなんてない」

「そう思いたいだけだろう」

 絡まる死の内の一つが伸び上がり、鎌首をもたげながら冷酷に言い放った。

「こいつを取らないでくれ」

「そんなのお前のエゴじゃないか」
「エゴなんて」

「こいつは誰よりも死にたがっていた」
「違う」

「だからあんなことしたんだろ」

「あれは、事故だ」

「でも彼女は自ら飛び出した。赤信号の中に死を見つけたんだ。違うか?」

 淡々としゃべる声色は、気付けば私の声そのものだった。


「やめろ」

 彼女の全てが飲み込まれた。


「やめろよ、や、いやだ」


 ベッドの上にあるのはもはや死のみ。

「っ―――――――あっ!」




 がしゃん





 自分の息の音が聞こえる。自分のリズムが聞こえる。
 アップテンポなリズム。切れ切れな息。

 立ち尽くす私の後ろではパイプ椅子が倒れていた。


 相変わらず病院には死が満ちており、寒気がするような静寂が流れていた。
 しかし、恐怖を覚えるほどの沈黙を経験した今は静寂という音が流れているのだという事を知る。

 彼女からも定期的な呼吸のリズムが聞こえた。確かに、生きている。

 パイプ椅子を立て直し、ゆっくりと腰を下ろした。

 少しうとうととしてしまっていたらしい。

 彼女は未だ目覚めない。けれど彼女は生きている。生きようとしている。

「ただ死に損なっただけだろう」
「黙れ」


 本当の所は、彼女が目覚めるまで分からない。


 夜が滴る。





 「したたる静けさ」 終

「澄んだ水様液」へ


あいうえお題一覧へ



茶室トップへ戻る





 小さいころ二度病院に入院したことがあります。(一番最初の入院はすごく小さいころなのでほとんど覚えてません。二回目は小学1年生の頃です)
 廊下が非常灯の灯りで緑色になっているのがすごく不気味だったのを強烈に覚えています。
 そして、いまでもアレが苦手です。人工的な緑色がダメ。

 大きい病院って嫌なところですよね。