心地よい浮遊感。視界は白く世界は狭い。男は快楽の海の中を漂う。 ゆらゆら、ふらふら、ゆらゆらり。 何か大事な事を忘れているような気がするけれど、それでも男は微笑を浮かべ、ゆらゆらする心地よさに酔いしれていた。 しかし、次第に自分の体に違和感を感じるようになった。 自分の鼓動が耳の中で響く。それと同じくして痛みが体の芯からじわじわとにじみ出てくる。鼓動とシンクロし、脈打つ度に痛みが強く、深くなる。 次第に脈は速くなり、痛みが全身を支配して来た。それでも何故か男の体は指一本動かすことは出来ず、身じろぎすらできず、 棒切れのようになったまま痛みをこらえていた。 すると体が沈み、海の底にずぶずぶと引きずり込まれた。 水が男の口を通り、食道から胃へ、そして気道から肺へと流れ込む。 息が出来ず、快楽の海の中にいるというのに、今や快楽の対極に位置するものを感じていた。 かくん、と落ちる感覚の後、ぱっと目が覚めた。 息は出来る。水は無い。 けれど鼓動と痛みは絶えず体を蝕んでいる。まず感覚がつかんだのは天井からぶら下がるランプと 「気が付きましたか」 という冬の空気のように凛とした女の声だった。 「言葉、わかりますか?エッレミヘヅェン?(大丈夫ですか)エッレリシオ?(どこの人ですか)」 その女の方に向こうとしたが、体が動かない。 痛みに耐え、口で激しく息をしながら自分がどんな状況にいるのかを思い出す。 男の名はバドガル。苗字はまだなく、この戦争で活躍すれば広い土地や様々な権利と共にもらえる予定だった。 それが何故こんなところで横になっているのだろうか。 「俺、は」 無理矢理起き上がろうとすると女がそっと胸の上に手を置いた。 「動いてはいけません」 かすかに触れているだけなのにものすごい力をかけられているように微動だにすることはできなかった。 その手を振り払うことも出来ず、素直にベッドに背中をつけた。 「森に倒れてたのを見かけたのですが、あまりにもひどい傷だったので小屋まで運ばせてもらいました」 「倒?」 ゆっくりと自分の額に手を当てると、布のさらりとした触感があった。 良く見れば額だけでなく胸にも足にも巻いてある。 「お前がやったのか?」 「傷を作ったのは私ではありませんが、治療をしたのは私です」 男の問いに女はあまり表情を変えることなく淡々としゃべった。しゃべったというよりも伝えた、と言った方が適切かもしれない。 女はまっすぐで濃い栗色の髪を腰まで伸ばし、滑らかに黒いローブを羽織っていた。 「薬草を探しに森へ入ったら血まみれになって倒れていたので」 「やくそう?」 「それからあなたが持っていた武器は隣の部屋に置いておきました。ライフルの弾は入ってないようですが、ナイフはまだりんごを剥くくらいなら使えますし。首を掻っ捌かないなら持ってきましょうか」 「いや、何にせよ動けそうもないから必要ない」 男は一息つく。痛みは波があるように、満ち引きを繰り返す。 「お嬢さん、俺を助けてくれたのはありがてぇことだが、あまり感心はできないな」 体はあまりうごかないので天井のランプに語りかける。 「俺は脱走兵だ。わかるか? 戦争から逃げてきたってことだ。そいつをかくまうのは重罪だ。重罪」 重苦しい痛みはまだ体の中で脈を打ち、自分というものが喰われてしまうような感覚にめまいがしていた。ランプが廻る。 「その事なら大丈夫です」 「バレなければってか? バレてからじゃ遅いだろ」 表情を崩さず首を横に振る。これだけ見事に表情を崩さないというのも素晴らしい。 果たして感情というものがあるのだろうか。 「そういうことではなく、国は私に手を出すことは出来ません」 「一体どこから沸いてくるんだ、その自信」 「それは私が『魔女』だからです」 めまいがわずかに弱まった。まじょ?まじょと今言ったのか? 「まじょ?」 「はい」 「この国にはそんなもんがいるのか」 「ええ。正確な数は知りませんのでなんとも言えませんが。魔女と名乗れるだけの資質があるものはまぁ、 両手ぐらいですかね。無論人間の手ですよ」 男は体を強ばらせる。彼は今まで三十回近く季節を巡らせてきたが、今まで魔女などという存在に出遭った事はない。 そう言われれば幼いころ母親に悪い魔女が王を騙し、国を狂わせてしまったというような童話を読んでくれた事があるくらいで、 「魔女」という単語を頭の中に浮かべたことすら無かった。 そんなリアリティの無い単語が目の前にあるなんて。おまけにそんなものが自分を助けただなんて――。 「……何が目的だ」 「目的って何に対してのですか?」 「とぼけるんじゃねぇ」 傷が、音を立てるほどに痛む。声はかすれ、迫力もあったもんじゃない。 「俺を助けて何になるって言うんだよ。あれか、魔術の実験か何かするのか」 女は片眉を下げ、まるで全く意味の分からない抽象画を眺めているように男を見下ろした。 「俺を改造してモンスターにでもする気か?臓物を取り出して悪魔へ捧げるのか?」 歯ががちがち音を立て、何度も舌を噛みそうになる。すると女はこう言った。 「あなたを助けたのは、うちの敷地内で腐られても困るからです。 それと、人間をモンスターに変えるのは『ネクロマンサー』の類です。悪魔に臓物を捧げるのは誰かに呪いをかけたりする時にやることですから。私の仕事ではありません」 言い終わると失笑し 「それに、そんなものはみんな想像上の産物で物語の中にしかいませんよ」 と付け加えた。 男の体は急に熱くなった。まさか魔女なんてリアリティのない存在そんな事を言われるなど思っても見なかった。 「まだこの国でもそんな風に思ってる人がほとんどですけど『魔女』というのは病気や傷を治したりするための薬を作る人の事を指します」 「杖振ってしゃらんらとかやらないのか?」 「それはお話の中の魔女です」 そういわれてみれば、この部屋も奇妙な匂いが染みついている。薬品の匂いが家全体に染み付いているのだろう。 「それはつまり、医者ってことか?」 「医者とは違います。民間療法とでも言えば理解してもらえるでしょうか」 「もうなんでもええや。なんか疲れた」 男は知からなく頭を枕に沈めると、細く長い息を吐いた。その様子を静かに見下ろしながら魔女は声を潜めて 「まだ痛みますか?」 尋ねた。 「お陰さまでな」 ぶっきらぼうに答えるが、それ以上の文句をつけるほどの余裕も無い。 まぶたを閉じ、暗闇に身を浸す。 けれど閉じたまぶたの裏は血の色が染み付いているようだった。 体も心もずたずた。色々な重い物が重なり、少しだけ泣きそうになってきたので眉間に力を込めて必死にこらえた。 嫌な時代だ。 すると木製のドアが開いて、また閉まる音がした。 うっすらと目を開けると、魔女はどこにもいなかった。 「おい?」 耳を澄ますと、扉の向こうで足音がするのが聞こえたが、ずいぶん厚い壁にさえぎられてしまったみたいだ。 いや、もう既に世界から高い壁でさえぎられてしまっているのだろう。 元々男には戦争で人を殺す以外には生きる意味はなかった。 人を殺すのが嫌なのは確かだが、そうすることで自分の命は助かることが保障されていたし、生きながらえる事が出来れば将来も約束されていた。 けれど、男は何もわからなくなってきていた。そうすることが本当に正しいのか。 戦争にモラルや正義などないのはわかっている。けれど、『自分自身の人生』として、本当にそれは良いことなのだろうか、と。 逃げ出したときは、頭の中が真っ白で、どうしたら良いのかわからなくなって、ただ生きる事だけを考えて走ってきた。 今落ち着いて考えてみると、どうしたらいいのかまったくわからない事に気付く。 国から逃げてきた以上、この国では邪魔なよそ者でしかない。ほかの国で生きる事というのは想像以上に困難だ。 けれど引き返すことは決して出来ない。 どちらにしても、男に待つのは『死』のみだ。 再びドアが開く音がする。魔女は盆にタンブラーと小瓶を載せ、しなやかに歩いてベッドの隣まで来た。 「薬を持ってきました。これを飲めば回復も早いと思います。痛みも和らぐでしょう」 盆をベッドの隣の小机に置くと、部屋の隅にあった背もたれの無い小さな丸椅子を持って来て、座る。 魔女はタンブラーを差し出す。薬と聞いて、どぶ色に濁った奇天烈な臭いのするものを想像したが、それとは全く正反対に どこまでも透明で、少しにおいはするにせよ見た目は水と見紛うようなものだった。 「起きられますか?」 「あぁ」 魔女に支えられながらゆっくりと体を起こす。傷口が傷むが、先ほどよりかは幾分かマシだった。 渡されたタンブラーを両手で包み、じっと水面に映し出された時折ゆれる自分の顔を見て、夢の中の浮遊感について思い出していた。 あれは、 すっと白い手が伸び、タンブラーを奪うと魔女はごくり、ごくりとそれを飲んだ。 何か複雑な感情を飲み込みながら「ほら、大丈夫でしょう?」とわずかに微笑みかけた。 「少し苦いですが毒なんかじゃないですから。安心して飲んでください」 疑念を持っていたわけではなかったけれど、少し考えたらその可能性も十分にあった。 そんなことすら考えられないほど自分は弱ってしまったのかと思うと、少しだけ惨めな気持ちになった。 魔女が口を付けた反対側に唇を寄せ、水様液を一口含む。 「ぶっ うげっっ」 ほとんど反射的に噴き出したというのにまだひどい苦味が舌を貫き、口から喉まで暴れまわった。 「なんだこれ、苦すぎるぞ」 魔女は平然として 「当たり前です。生きるための薬なんですから」 黒いローブのポケットから三角形に折られた真っ赤な紙を取り出し、包みをほどいて中の白い粉を男に差し出す。 紙が赤いせいだろう。その白はいっそう際立って見えた。 「指に少しだけつけて、舐めてみてください」 言われるままに指につけ、舌先にちょっとだけつけた。 するととたんに苦味はその粉の甘さに包まれ、口の中に平穏が訪れた。 鼻を通り抜けるその匂いは熟れきった果実のようにかぐわしい。 「なんだこれ。砂糖じゃなさそうだが。口直しか?」 「いいえ、毒薬です」 「?!」 体の血流が止まった。男の顔は次第に青白くなり、涙を浮かべながら口元に手を当てる。 ものすごい形相で魔女を見つめると、 「安心してください。致死量には遥か及びません。致死量の一万分の一ですから、体に害もないですよ」 動揺した風もなく淡々と魔女はなだめる。 「つまりそういう事なんです」 確かに驚いたが、魔女の言いたい事はなんとなくわかった。男は少しだけ笑った。腹に力は入らないのでなんとも情けない笑い声だった。 「それにしたって苦すぎるだろう。それ一杯、すべて飲みきる事なんて普通はできないよ。途中で放り投げたくなる」 魔女はおもむろに小瓶に手を伸ばし、ふたを開ける。さじで中身のどろりとしたものを小皿によそった。 「だから、どこかで蜜をもらうんです。そうすれば」 「きっとあなたは飲みきる事が出来ます。あなたにそうしたいと願う意志さえあれば、最後の一滴までだって、おいしく」 観念して男は、薬と蜜を交互に舐める。ようやく薬は半分までなくなった。 「生きるって苦いのな」 「そうですね」 さじと皿が触れ合う高い音と、男のため息が交互に聞こえた。 窓の外にある異国の空は、祖国の空と同じくらい美しかった。 戦場で見た空よりも、ずっずっと、美しかった。 「澄んだ水様液」終。 →「せめて盛花を」へ →あいうえお題一覧へ |