梅雨がもうじき明けようという六月。私は雨の雫が落ちる空の下、アスファルトに包装された街の上を震える不安定な気持ちを胸に抱えながら歩いていた。 ここに来るまで何度か通行人の傘にぶつけた気がするけれど、私は上の空で一瞥さえせずに通り過ぎてしまった。 そんなことは全くどうでもいいことで、頭の中はもっとほかの重要な事で溢れかえっているのだ。 それは本当に『溢れかえって』いるようで、おもちゃ箱をひっくり返せるだけひっくり返したようにぐちゃぐちゃと軽快な音を立てて秩序を崩していく。 正直、私はそれをどのようにして片付けて良いのかわからないでいた。 ほんの少し駅の雑踏から抜けると、テレビのスイッチを切ったかのような静けさを取り戻す。 唯一雨粒が傘を叩く音だけが聞こえているが、それは鼓動や耳鳴りのようにさほど気になりはしない。 辺りを見回すと、私がまだ住んでいた頃とはすっかり変わってしまっていた。 私は視線を落としながら小さなため息をこぼす。 住んでいたといってもずっと昔の話だし、あまり外に出て遊んだりすることはなかったので、『あの場所』以外に思い入れなどないのだが。 よくよく考えてみれば、こども時代の大半をこの街で過ごしたというのに、私の思い出はたった一箇所に集約されている。 涼やかな風と古い本の匂いと緑と茶色で構成されたあの世界。 私は今、その思い出の地へと足を向けているのだった。 駅から四十分ほど離れた場所に私立の図書館がある。設立の経緯は色々あったらしいが、それは私の思い出を語るにあたって取るに足らない事だと思うのでこの場では割愛させてもらう事にする。 そもそも図書館の設立の経緯などを知りたがる人間はこの街にどれだけいるだろう。 図書館とは名ばかりで、図書館と言うよりも植物公園に近いような場所だ。 少なくとも私がその場所へ通いつめていたころは図書館へ行く事は極めて少なく、中にある庭園を目当てにしていた。 他の数少ない来客もまた私と同じようなものだった気がする。 何回目かの角を曲がり、しばらくすると「榊山私立図書館」という寂れた看板のかけてある門が見えた。 私は懐かしいその門の前に立ち、目を瞑る。 その場所を初めて訪れた時、私はまだ小さくて、目に映るすべてが大きく偉大なもののように思えた。 自分めがけて飛んでくるような日差しの温かさに胸を躍らせ、鮮やかな自然の色をそのまま心に写す。 大地はいつでも私に優しかったあのころ。 何もかもが新しく見え、小さな手には収まりきらないほどの『宝物』を毎日見つけていた。 そして再び目を開く。けれど目線の高さ以外では昔となんら変わる事のない情景が目の前に広がっている。 胸の奥に安堵感が広がった。 こんこんと湧きあがる懐かしい思いに足取りも軽くなって、わずかに歩調を速めながら門をくぐる。 門を抜けると舗装された長い路が続き、その両側でまばゆいほどの緑が迎えてくれる。 おじぎするもの、つんとそっぽを向くもの、気持ち良さそうに揺れているもの。……。……。……。 何と表情豊かな仲間だろう。駅前で私とぶつかった人間なんかよりもずっとずっと個性というものを理解している。 ああ、私は今あの時歩いた路を歩いているのだ。 木々のざわめきも響く足音も緑の色も、何一つ変わらない。 路は時々十字に分かれたりして、広い庭園を葉脈のように巡らせているが、図書館へ行くには一番太い路をただまっすぐ行けばいい。 通りにある紫陽花を眺めながら図書館を目指した。 途中、四人の人にすれ違った。しかしその人々は誰もが角から曲がって来て、私の後ろに消えて行く。 図書館へ人がほとんど来ないのは今も変わっていないようで、この見事な庭園を覗きに来る人がほとんどなのだ。 図書館の扉は昔の住居をそのまま使っているような引き戸になっている。 いくら私立とはいえ、懲りすぎではないだろうかと今になって思う。門にかけてある看板を見なければ、誰がここを図書館だと思うのだろう。 ただしっかりとしたつくりの木造建築は遺跡のように厳かにその森の中に佇んでいる。 図書館と呼ぶには些か親しみや気軽さが欠けているようだ。 入り口をくぐり、司書に軽く会釈をし(私が昔よく庭園へ遊びに来ていた時の人ではなかった。それが少し残念だ)埃くさい棚の間を意識的にゆっくり歩く。 その都度板張りの床はぎしり、ぎしり、ぎしぎしという悲鳴をあげる。 しかし、本当にここの図書館としての価値は皆無に等しい。 特別資料価値の高い本も絶版になってしまった貴重な本も新作も置いてない。 ただ単に埃くさい本が偉ぶって置いてあるだけなのだ。形だけで中身は薄い。 正直、どうしてここは今までやってこれたのが不思議だった。もっと早くつぶれていてもおかしくはないはずだ。 十分ぐらいすると飽きてきたので図書館を出る事にした。ここに私の思い出はない。 私の思い出は、いつだってこの引き戸の外だ。 戸を開けると、雨はもう止んでいるようだった。 敷居をまたいで戸を閉めて外に出ると、ぼんやりと眼前に広がる緑の景色に惚れ惚れとする。 ここは素晴らしい。この街もそれなりに都会らしい振りをしているが、こういう緑あふれる空間を有していると言うのは実に素晴らしい。 これこそが人間に潤いをもたらす最高の癒しであり、恒久に保存されるべきものであるはずだ。 そんなことを考えていると、後ろで引き戸が開く音がした。 振り返るとそこには背の高いひょろりとした青年が立っていた。 突然の音と思わぬ人間の存在に驚いて私は小さく悲鳴を上げた。 この場所に人が居るなんて、それもこんな若い人が入ってくるなんて思いもしない出来事だ。お赤飯でも炊くべか。 素っ頓狂な顔をしている私をさておいて、彼はすっと横を通り過ぎる。 私はある事を思い出した。 「あ、あの」 軒先から出ようとしていた彼は私の声に足を止め、大きくて丸い目をこちら側に定めた。 「はい?」 「傘、さしたほうが良いと思います」 目を丸くしたまま空を覗きこみ、雨が降っていないことを確認するとにっこりと笑って 「もう止んでいるみたいです」 穏やかに言い、再びその場を去ろうとした。 そしてしばらく歩くと 「うわっ」 何かが彼の肩をすくませた。 彼は上を見、続いて私の方を再度見る。まるで本物の予言者を見つけたような顔だった。 私はこらえきれずに小さく笑った。 「ここは時差があるんですよ」 ***** 「雫がたれてくるんですか」 「電線の下にいてもたまにそういう事ありません?」 私たちは赤と黒の傘を並べて庭園の路地の上を歩いていた。 雨が止んでも、葉についた雨粒が次々と落ちてくる。これだけの木があると小雨程度の雨がしばらくの間降ってくることが良くあるのだ。 「えぇ、そういう体験はあるんですけど。まさかこんなに降ってくるなんてね」 照れくさそうに、けれど少し子供が面白い遊びを見つけたように笑っていた。私の身長では彼の顔を覗くのに少し顔を上げなければならないのが面倒だったが 彼のすごくきらきらした瞳をぜひずっと見ていたいと、いつの間にかそんな事を考えていた。 「ここ、初めてですか?」 「はい。わかりますか」 「こっちの方に来る人ってほとんどいないから」 「そうなんですか?……でもここ、図書館って書いてあったじゃないですか」 「でも大した本のない図書館にどんな価値があるっていうの?」 「ああ……なるほど」 この図書館に一時間以上いることはできない。座るスペースも限りなく少ないので落ち着いて本を読む事も出来ないし、読みたいと思う本もほとんどない。 その場所に居て得るものといえば無意味な時間を過ごしたという記憶だけだ。 これは何かの魔法がかけられているのではないだろうか。 空間そのものは居心地がいいのに、長居はしたいと思えないような、なんとも奇妙な場所だった。 「ここって、森みたいな場所ですよね」 「森?」 「うまく言えないんですけど、森にいるみたい」 整った鼻筋。眉はわずかにカーブを描いていて優しいけれど少し頼りないような印象の顔立ちを見ながら微笑む。 「不思議な事を言うのね」 私の物言いが気に障った、というわけではなさそうだったが、不本意だとでも言いたげに眉間に数本しわを寄せた。 「また笑ってる。そんなに僕の事おかしいですか?」 「そうじゃないよ」 そうではない。 ただ、私が小さいころに考えていた事が彼の口から出て、共感してくれる存在がいたということがたまらなく嬉しいのだ。 こんな規模では森どころか林と呼ぶのさえ躊躇ってしまうが、この場所の持つ独特な陰陽の雰囲気はまさしく森に似ていると昔から思っていた。 「子供の頃、ここに良く来てたのよ」 「そうなんですか?」 「ここいら辺に住んでたから、学校終わったらすぐ飛んできてたな」 彼は話の間に規則正しいリズムで相槌ちを入れてくるが、実を言うとこれはどこか独白めいたものだ。 本当は誰かに話したくてしょうがなくて、この思いを最後に誰かと共有したかったのだと思う。 「ここが好きだった。学校の方はだんだん開発が進んできてて木が植えてあってもほんの何本かだったし。 こんなに木が植えられてるのは初めて見た。あなたみたいに雨の後に驚いたりもしたんだよ」 彼は笑った。私は終始笑顔だったような気がする。 雨はもうとっくに止んだというのに、風がそよぐたびに雫がこぼれ落ち、思い出したようにそこだけ雨が降る。 「ここは、時間の流れから取り残されちゃっているのよ」 「時差って事ですか?」 ゆっくり首を横に振る。 「それだけじゃなくて。 この場所だけはずっと何も変わらないの。 町並みがどれほど移り変わっていってしまっても、ここだけはあの頃と同じ。 いつでも優しく『おかえりなさい』を言ってくれるのよ」 彼は要領を得ないような変な顔をしているに違いないが、前を向き情景に浸る私に確認する事は出来なかった。 私の独白はこの道のように続いていく。 「変わらないというのは素敵な事だと思わない?自分の記憶にあるままの姿が そのまま色褪せることなく残っている。 そういうものやそういう人を見る度にほっこりと笑いたくなるの」 「そうですか?」 彼の声に不服の色が混じっていた。けれど私は意見を引かせる事なく『そうなのよ』と笑った。 「でも、変わっていく事を成長っていうんじゃないですか?昔と何も変わらないって進歩がないって事でしょ?」 「成長ね。うん、それはそうだと思う。けれど私は私の中にいる人たちや私の中に在る物達に、変わらないでいて欲しいのよ」 すっかり変わってしまった人をみると、胸の奥がすごくしめつけられる。 素直な笑顔が消えた人がいた。自分に似合わない色を塗り固める人もいた。大人になった振りをした人もいる。 明るくなったように見せ、心の闇を深め続けている人も見てきた。 そうやって世間に身を浸すうちに、大切な何かを失ってしまった人たちを見るのは、どんな悲劇よりも私の心を締め付け涙させる。 久しぶりにこの街を見た時も、それに近しい感情がこぼれてきた。 「それで怖くなる。私も変わってしまったんじゃないかって」 私を見た人が心で涙を流していないだろうかと、そう思う。 「けれどこの『森』を見て、変わらないこの場所を美しいと思えた私は 昔と変わっていないと思えるのよ」 そして、彼は少しうなった。 「僕にはよくわからないけど。でもここを好きだっていう気持ちは なんとなくわかります」 「そう思う?」 「はい」 彼は初夏の日差しのように笑った。 「良かった」 足元で水がぱしゃん、とはねた。それがすごく楽しく思えて、今度はわざと水溜りに足をつけた。 ぱしゃん、ぱしゃんぱしゃん。 「でも、残念ですね」 ぱしゃん。 気付くと黒い傘は赤い傘より二、三歩下がって立ち止まっていた。 「ここが、もうすぐ無くなってしまうなんて」 高揚した風船から空気が抜けていく気がした。そうね、と相槌をうちながら、頭の中は再び秩序をなくす。 私は、その事についてどう頭を整理すれば良いのかわからないでいた。 開発の魔の手はいよいよこの場所にも及ぼうとしている。地域住民からもわずかではあるが反対の声が上がり、署名活動も行われたらしいが 努力も虚しく、この場所に高層マンションを建てることが先日正式に決まった。 私が久々にこの街へ下りたのもその事を知ったのがきっかけだった。 「私ね、小さいころ、毎日学校が終わったらすぐここに来て、何時間も何時間も木や植物を見ていたの」 一際大きく聳え立つ木を見上げながら言った。この木は何年もかけてこれだけ大きくなったと言うのに、これとは比べ物にならないくらい大きなマンションが瞬く間にここに建つのかと思うと なんともいたたまれない気持ちになる。 「ここに来ると、すべてが許されるように思えた」 「でも私はどうしたらいいのかわからない」 「こんな事を言ったら不謹慎かもしれないけれど」 振り向く。 彼はまるで雛がエサを待っているかのように半分口を開きながら傘を右手に立ち尽くしている。 一瞬、言うのを躊躇ったが所詮はこの場限りの縁。心に抱えたわだかまりをすべて吐き出してしまおう。 「この場所が無くなってしまえば良いと思う気持ちも、確かにあるの」 「どうしてか聞いても良いですか?」 彼もまたこの先に縁は続かないとのことだろう。控えめに、けれども好奇心を寄せ、静かに尋ねた。 「言葉で説明するのはすごく難しい。そんな事は思っちゃいけないと思ってる。けれどその一方でそういう考えが止まらないの」 もしかすると人を殺したいという衝動はこのようなものなのだろうか。 そうだとしたら、と思うと背中に冷たいものが一筋流れた。 「小さいころ、毎日ここに来たと言ったわね」 彼は無言で話を促す。 「おかしいと思わない?友達とも遊ばず、一人でずーっとここにいるのよ」 人とコミュニケーションを取ることがどんな事よりも苦痛だった。 言葉を発しようとすれば声が上ずるし、誰かが自分の前に立つと足がすくむ。 今はほとんどそういう事はないが、子供の頃はひどいものだった。 そんな人間が群れに受け入れられるわけもなく、羊たちは腫れ物のように私をそこから遠ざけた。 しかし群れの中に入りたいという希望はほとんどなかった。その場所は神聖すぎて、こんな愚かな自分は入るだけの資格がないのだと、幼いながらもそれに近いような事を考えていた。 そんな私を受け入れてくれたのがこの場所。 独りはかわいそう、独りはいけないことだ、独りは寂しい そんな思想に満ちた世の中で唯一私の事を許してくれたこの場所を心の底から愛した。 だが、ここでの思い出は自分が孤独に生きることしか出来なかったという暗い記憶を伴う。 私は独りを望みながらも、心のどこかで自分を受け入れてくれる人間を求めていたのだと思う。 底が見えないほどに暗い、不安と恐怖。 それから逃れるためにこの場所を愛していたのではないだろうか。 そして今でも時々思い出す。 温かく迎え入れてくれたこの森で、癒されながらも消える事の無かった胸の奥に見え隠れするあの孤独感、あの不安、あの恐怖。 眠れぬ夜に思い出す度、頭をかきむしりたくなる。 もしこの場所が消えれば、その思い出も消えてくれるかもしれない。 私の記憶を孕んだままアスファルトで覆われ、地中でゆっくりと分解し、消してくれるのではないかという淡い希望を夢見てしまう。 「思い出は、きっと少ない方が楽に生きていけるわ」 もし『忘れる』ことができなければ、『変わる』ことができなければ きっとその重さに耐えられずに潰れてしまうのだろう。 変わる事が出来なかったものは、変わってしまったものに淘汰されその身の破滅を招く。 それがわかっていてもなお、私は変わらない物を好むのか。 それなのに都合よく、自分にとって不都合なものは切り捨てる、私というものはなんと高慢な人間だろう。 「ごめんなさい。こんな事話して」 話のすべてを聞いても彼は相変わらず呆然としたままだった。 「いえ、そうじゃないんですが」 「聞いてくれてありがとう。そんな深く考えてくれなくていいの。ただ聞いてくれるだけで」 理解など出来るはずはない。私自身が迷っているのだから。 思い出を捨ててしまえば本当に楽になるのだろうか。それを失くしたことで更なる重みに襲われる事になるかもしれない。 水溜りの水を撥ねさせながら、思考の渦に足を引きずりこまれた。 この森の思い出は、時にアリ地獄のように私をぐんぐんと飲み込むけれど、時に細い蜘蛛の糸が時々救いの日差しを差し伸べる。 しかしその糸は余計に私の体に絡みつき、また深みにはめられていく。 窒息と呼吸を繰り返させて、すぐには殺させない。 私はどうする事も出来ず、苦しみに溺れながら死ぬまで生きなければならないのだろうか。 「ここは、本当の意味で『故郷』なんですね」 「?」 歩みを早め、わずかに私の前へ出て言う。 「僕も、高校でたらすぐに実家出てきたんですよ。それでなんか……『そんな感じ』でした」 「そんな感じ?」 「なんていうのかな。うーん。色々思い入れはあるんだけど、そこから出なくちゃならないものみたいに思っちゃうんです」 「親の愛に反抗するみたいな?」 「うん、そんな感じ。でもそれって、捨てるってことじゃなくて旅立つことだと思うんですよね。巣立ち?」 たどたどしくはあるが、彼自身の言葉を慎重に選びながら話しているようだった。 「みんな、かっこつけたがりなんですよ。郷愁なんて恥ずかしい。独り立ちはカッコイイ。でも、今はそんな風に思わなくて良いと思います」 とびきりの笑顔がそこにはあった。たどたどしさは一瞬で消え、しっかりとその足で体を支える姿がそこに。 「どんな思い出があっても、こんなに素敵なところなんだから。それを忘れるって、ちょっともったいない。 思い出は少ないほうが楽かもしれないけど、多い方が楽しいです」 彼の言っていることは、『もったいない』などという子供じみた理屈でしかない。 私の思い出はそんな言葉で片付けられるほど軽い物ではない、そう思っていた。 思っていたはずなのに。 私は少しだけ自分を恥じた。 楽ばかりして生きられるはずがない。生きている限りそんなものはいつだってついてくる。楽をしたところで自分に何が残ったと言うだろう。 どれだけ嫌な思い出が隠れていても、ここが私の故郷で、ここが私の帰るべき場所だったのだ。 「故郷って、そんなに悪いものじゃないと思います……」 それを否定することは、今の自分を否定する事。 そんな風に思えた。 「あ」 「うん?」 彼は傘をそっと傾ける。 「陽が射してきましたね」 「ほんとうだ」 雲の切れ目から太陽の破片が姿を現し、葉の上の小さな雫に光をもたらした。 「夏が来たら、ここも閉まっちゃうんですよね」 「うん」 「僕、また今度来ようと思います」 私の元へも、光が差し込んだ。 「私も――――また今度来たいわ」 梅雨はもうじき明けるだろう。 「もしかしたらまた、会えるかもしれませんね」 「そうね、そうだと嬉しい」 また会いたいと思った。けれど彼も私も次の約束を口にする事は無い。 長い路に終わりが近づいていた。 「あの」 門の所にたどり着くと、彼は躊躇うように足を止める。怪訝そうに見つめる私をちらりと伺いながら頭の中に浮かぶ言葉を選んでいるかのように見えた。 「僕、さっきあんな偉そうなことを言ったけれど」 「気にしなくていいのよ」 そうじゃない、と彼は首を振った。 「僕、本当は捨ててきたんです」 「何を?」 「故郷」 私はしっかりと彼の方を向いて、静かに続きを待った。 「あんまり、詳しくは言えないんですけど。もう、あそこには戻れない。……親にも会えない」 どうして、と訊こうとしたが、彼はひどく苦しそうな顔をして、それ以上聞くのはあまりにも酷だ。そう思った私は 「私は何も知らないから、大した事は言えないけれど」 少しだけ彼に近づいて 「いつか、胸を張って故郷に戻れる事を祈っているわ」 彼の元にも陽射しが差し込みますように。 私にはその程度のことしかできないけれど、彼を応援したいと心から思えた。 彼は今にも泣きそうな顔でありがとう。とだけ呟く。 そのとき、一陣の風が吹き、雨を巻き起こした。 けれど私たちは驚きもせず、静かに笑いあった。 深々とした緑のファンファーレ。夏の始まる音がした。 終。
→目次へ戻る →茶室 この作品は「一次創作小説同盟。」主催 第三回企画「絵か写真を使った短編」投稿作品です。 橘冬希さんの提供して下さった写真を元に作られました。 背景の素材も提供された写真を加工して使用しています。 無断転載厳禁。 なお、作中に出てくる「榊山私立図書館」は作者の脳内にのみ存在するもので、 実際にそのような図書館は無いと思われますが、 万に一つの奇跡的可能性で現実に存在したら、その場所とは一切関係はありません。 ご了承ください。 あとがき。 なかなか噛み応えのある企画で、アイデア出しの時点から難航しました。 話のアイデアは他にも三つほどあったのですが、最終的にこの話に落ち着くことが出来ました。 没になった他の作品も、いつか形を持つことが出来たら掲載したいと思うのですが、 書きたいものが山ほど溜まっている現状では当分無理でしょう。。。 この話も途中から論点がずれてるような、問題解決してないような感じが否めませんが、 生暖かく見守ってくだされば此れ幸い。 これ以上は言い訳になりそうなので、後は独りで反省会したいと思います。 読んでくださいましてありがとうございました。 補足1:タイトルの「あまもり」は「雨森」であまもりです。 雨森の正しい読み方は『あめのもり』(苗字)らしいのですが、それとは全く関係なく 当て字として使っています。 補足2:作中に出てくる時差の雨ですが、実際に作者は通学路で散々そのような目に遭っております。 木の種類により色々あるような気がするので、小雨程度に降るかどうか微妙なところですが、 変だなぁーとか思ってもちょっと目を瞑って下さい。 追記:2005年九月十八日 ちょっとだけ文章を推敲しました。 推敲している時に思い出したんですが当初青年は故郷を完全に失っている、という設定にしようと思っていました。 故郷を失う、ってことなら「ダムに沈んだ」ことにでもしてしまおうか、 と思ったんですけど、ダムに沈んだっていつの時代だよ!ということになるので結局没に。 それで最後のオチに繋がらなくなっちゃったんですよね。 青年が何故故郷に帰れないかは納得のいく設定をご自由にお考え下さい。 ところで主人公の「私」って何歳くらいなんでしょうね。 |