ハナミチ 31



 気付くと病室から闇は消えていた。薄い黄緑色のカーテンが太陽の日差しを柔らかく濾して室内に注ぎ込んでくれている。パイプ椅子に座りベッドの端に突っ伏すように寝ていたせいもあり、背骨が動き方を忘れてしまっているようだった。それを一つずつ直すようにゆっくりと起き上がる。疲労感など当然抜けるはずもなく、細胞という細胞が不満の声を上げている。目が覚めてもそこに田宮の笑顔はなかった。昨晩から変わることなく昏睡していた。
「田宮」
 返事はない。
「ごめん。あたしが不甲斐ないばかりにこんなことになってしまって」
 手を取り、ゆっくりと握りしめる。昨日よりは血の通った温かい指先だ。田宮の体は生きようとしている。まだ諦めているわけではない。
「何ができるわけでもないだろうけど、あたしなりに何とかするから。何とかしてみせるから。だから、待っていて」
 手を放して、そっと布団をかけなおす。
 もう二度と失わない。離れたくない。決意してドアへと歩き出す。
「どこに行くの」
 幻聴ではなかった。確かに自分の鼓膜が震え、脳に届いた。
「田宮」
「花枝ちゃん、どこに行くの」
「田宮!」
 先ほどの決意も出鼻をくじかれ、慌てて田宮の元へ駆け寄る。田宮は横になったまま顔だけを花枝の方へ向けていた。
「花枝ちゃん、これ、苦しい」
 酸素マスクを外すと田宮は少しだけ笑った。
「すごい顔。どうしたの」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「ここどこ」
「病院」
「頭すごい痛いんだけど」
「トラックに轢かれたんだよお前」
「本当? ひどいことするね」
 本気で言っているのか冗談なのか分からなった。笑っていいのかすらも。
「覚えてないのか?」
「あんまり。ぼやーっとしてる」
 やはり脳にダメージがあるのだろうか。一命を取りとめて一安心とはいえ、生きていたら次の心配をするのは人の強欲だ。
「先生のお墓に行って……駅で別れて、その後?」
「うん。信号無視だって」
「うわ、ぼーっとしすぎてたかな」
 少し照れるように肩をすくめる。その様子はかつての田宮の姿と変わらないように見える。
「無理するな」
「ごめんね。迷惑かけて」
 花枝は首をゆっくりと横に振る。迷惑なんてとんでもない。
「あたしこそ、ごめん。田宮の事守ってやれなかった」
「何それ。いいんだよそんなこと」
「ううん。守らせてほしい。何ができるか分からないけど、できる限りの事はやってみるよ」
「変な花枝ちゃん。気負いすぎじゃない?」
 らしくないのは確かだろう。いつでもクールで無関心。そういう人間なのだと思っていた。
「誰のせいだろうな」
 自分を貫けないこともある。生涯に一度くらいはこういう役回りも悪くはない。
「お前はゆっくり待っていてくれ。今は何も心配しなくていい」
 精一杯格好をつけて花枝は病室を去った。これで不安は一つ消えた。立ち向かう決意はあっても肝心の田宮が生きていなければ何の意味もない。
 田宮は生きている。生きてさえいるならば後ははどうにでもなる。という意気込みはすぐに暗闇の中に突き落とされる事となった。

 着替えてから学校に向かった花枝は教室には行かず職員室に直行した。担任はちょうど授業がなかったらしく、自席で資料作りでもしているようだった。柳瀬川やその取り巻きがしたであろう報告内容の確認でもあった。案の定都合の悪い所は捻じ曲げられ、自らの正当性を前面に押し出した内容だった。
 それは違うと言っても田宮に近しい花枝の発言は聞き入れてもらえなかった。
「田宮さんも事故にあったということは聞いているわ。本人の口から事情を聞いた上で今後の処分を決定しますからその点はご心配なく」
 そうは言っても暴行事件だ。当然だが大学の推薦も取り消しだろう。こればかりはもうどうすることもできないし、浪人すれば来年挑戦することもできるだろう。だからせめて退学だけは何とか免れたい。彼女の三年間を、先生と過ごした一年間を、決して無駄にはしたくない。
「あの……柳瀬川……さんは」
 担任は当てつけのように大きくため息をつき、うなるようにしゃべり出した。
「左腕を骨折。体中に痣も傷もたくさん。親御さんは訴訟も考えているそうよ。退学だけで済んだら良い方ね」
 下手をすれば前科付き。それはとても笑えない話だ。暴力を振るったという事実を変えられない以上、何とかして情状酌量に持ち込むしかない。それができるだろうか。客観的に認めてもらえる証拠。
 今花枝が持っている切り札だけでは弱い。もう少し、あと一つでも――

 花枝はそのまま帰るつもりでいたが、HRだけでも出るよう釘を刺され渋々教室へ向かった。無視しても構わないが花枝とてこのまま不登校になるのは本意ではない。昨日の今日で教室の熱が冷めたとは思えないが、七十五日は待っていられない。針の筵も早いうちに慣れておくべきだろうという考えの下だった。

 その考えの甘さを、たった一歩明け教室に踏み入れただけで後悔することとなる。
 全員の息を飲む音が聞こえた。まるで花枝がガラスの花瓶を割ってしまったようだ。誰もが花枝を注目し目を見開き、そして気まずそうに視線を逸らす。
 それだけなら何ともなかった。今までだってそういう扱いを受けてきたのだから。けれど正義とは、義憤とは顔に絡まる蜘蛛の巣のように鬱陶しい。
「よくのこのこ出てこられたじゃん」
 柳瀬川の取り巻きの一人が教室の隅から花枝のいる教室の前方まで届く大きな声で呼びかけてきた。
 こうなることも予想はしていたが、もっと陰口や陰湿な手段で対抗してくる可能性の方が高いと思っていた。自らの正当性を主張するには良い機会なのかもしれない。
「流石に田宮の方は顔出せないか。それとももう退学になった? それともブタ箱行き?」
 柳瀬川はそこにいなかった。なるほど、リーダーが不在だからこんな雑魚が粋がっているのかと花枝は得心する。
「汐見、自分は関係ないなんて思ってないよな? あんただって同罪なんだよ。ヤナがあんなことになったのは」
「自業自得だろ。あいつが言ってた事忘れたわけ?」
「さて、何の事だか」
 あくまでも白を切るつもりらしい。他の連中だってそうだ。誰に味方をするべきなのかを良く分かっている。厄介者にはなるべく関わらず、観劇でもするかのように。
「田宮のしたことが正しいとは思わない。暴力は暴力だ。だけどそれに至った理由はちゃんとある。先生をあんな風に侮辱されたらあたしだって腹が立つ」
「理解できないね」
「理解なんてしてくれなくていい。温かく迎えてくれなんて言わない。だけどお前らにだって譲れないものはあるだろ。他人に理解されないような拘りとか他人からすればちっぽけだけど自分にとってはものすごく重要で触れられたくないこととかあるだろ? だからせめてそういうのがあるってことだけでも理解してくれよ。あたしたちの存在そのものを否定するなよ。放っておいてくれていい。無いものとして扱ってくれたっていい。でもせめて、クラスメイトとしてここに居ることくらいは許してくれ」
「あんなひどいことして許せるわけないじゃん。あんたも田宮もとっと辞めちまえ」
「それはお前の意思じゃない」
 花枝はずっと思っていた事を口にした。本当は柳瀬川に一番聞きたいことだった。
「柳瀬川の意思であってお前の意思じゃないだろ。お前は何で田宮が嫌いなんだ? どうして暮凪先生を無視した? 授業をボイコットした?」
 彼女は返す言葉を吟味するように口を閉ざした。
「お前が憤っているのはお前の正義じゃない。柳瀬川の正義を代弁しているに過ぎない。お前は本当に今怒っているか? 田宮を憎いと思っているか? 本当に思っているなら理由を言ってみろ」
「理由なんてない。友達が暴力を振るわれたら普通怒るでしょ」
「なら田宮の気持ちも分かるはずだろ。尊敬する人をあれだけ侮辱されたんだ。暴力を振るうことが間違いだったとしてもその気持ちは理解できるはずだ。お前は、お前らはただ柳瀬川の言いなりになっているだけなんだよ。柳瀬川がそうだって言っているから倣っているだけに過ぎない。本当はどう思ってるんだ? 柳瀬川の暮凪先生への態度は過剰だとは思わなかったか?」
 単なる一教師に何故クラスの連中を巻き込んでまで嫌悪しているのか花枝には理解できなかった。気に食わない所とか、合わない所は誰にだってある。でもそれは自分の問題だし、それに同調する人がいたからと言ってあそこまでするほどのものなのだろうか。
 お互い引けない状況ではあったが、そこに担任が現れて言い合いは中止になった。それから誰も絡むことなく、花枝自身もわざわざ食って掛かる事に価値を見いだせず、結局彼女とは最後まで分かり合えなかった。





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*おまけ*


「ここどこ」
「病院」
「頭すごい痛いんだけど」
「トラックに轢かれたんだよお前」
「本当? ひどいことするね」
 本気で言っているのか冗談なのか分からなった。笑っていいのかすらも。
「覚えてないのか?」
「あんまり。ぼやーっとしてる」
 やはり脳にダメージがあるのだろうか。一命を取りとめて一安心とはいえ、生きていたら次の心配をするのは人の強欲だ。
「大丈夫か? とりあえずどこまで記憶が残っているかテストしてやろう」
「大丈夫だよ花枝ちゃん」
「お前の名前は?」
「……田宮」
「下の名前は?」
「花枝ちゃん、ちょっと私まだ本調子じゃないから」
「名前を言ったらすぐに休んでいい。名前は?」
「……お前、消されるぞ」