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Auld Lang Syne



久しぶりに実家に帰ってみると、ちょっとしたものが妙に懐かしく感じられませんか?
勉強机、好きだった漫画、教科書―――。

ふと目についた卒業アルバムに手を伸ばし、そっと開いてみると。
懐かしい級友たちのあどけない笑顔が、学生服に包まれて花咲いている。
最高に楽しかった体育祭。苦手だった勉強。好きだったあの子。

思わず頬を緩めながら、貴方はどんどんページをめくっていきます。
そして、たどり着いた最後のページには、友人達の寄せ書きが。
「楽しかった!ありがとう!」「これからも友達でいよう!」
余白なんか無いくらい、ぎっしりと書き込まれたそれを、一つずつ読んでいく。

「……ん?」
その時、貴方は見覚えのない、一つの寄せ書きに目を奪われます。

『あさがお』

可愛らしい文字でたったそれだけ。

果たしていったいいつ、誰がこれを書いたのか。
『あさがお』が意味することとは。



全てを思い出すため、貴方はそっとその瞳を閉じるのです。







 和風の佇まいをしたその店は下品な色のネオンライトを避けるように、繁華街からわずかに離れた場所にあった。店の名前をはがきで確認し、店の前に掲げられた「椿戸市立第二中学校 第四十九期卒業生 三年三組 様貸切」という達筆な文字を眺め、髪の毛を少し直してから引き戸を開けた。
 途端に人々の視線が私に集まり、プレゼントの箱を開けた時みたいな嬉しさと驚きが入り混じった声が真昼の花火のように私に向かってきた。
「翔子ー!」
「しょーこ! しょーこじゃん!」
「え、マジ? 三宅?」
 見渡すとすっかり大人になった、けれどどこか昔の面影が残る旧友たちがアルコールで頬を染めながらそこに居た。
「みんな久しぶりー。遅れてごめんねー」
 店内はさほど広くは無くて、左側にカウンター、右側の座敷に大きいテーブルが三つ。
 私は戸を閉めてから肩にかけていたショルダートートを下ろして友達が手招きしている奥のテーブルを目指した。その間にも多くのクラスメイト達が私に声をかけてくれる。
「翔子遅いじゃん。何してたんだよー」
「ごめんってば。だって全然道わかんなくなっちゃってるんだもん。あたしの知ってる椿戸はどこ! みたいなねっ」
「しょーこ久しぶりー。あたしのこと覚えてる?」
「わー、久しぶり。覚えてるに決まってるよー」
「三宅久しぶり。なんか超きれいになってんじゃん。まじでビクったんだけど」
「ありがと。佐々木くんはちょっと頭薄くなってない?」
 そんな冗談も交わしつつ、友達の横に着いた。
「翔子遅いよー」
「ごめんごめん。ちょっと迷っちゃってさあ」
 アンタらしいね、と友恵は笑う。
 細谷友恵は中学時代の親友で、卒業してからも時々連絡を取りあうような仲だった。私が東京の大学で友恵は地元の大学に進んだ事で互いに忙しくなり、あまり付き合いはなくなってしまったが、七年の溝は全く感じない。
「アンタ今何やってんの? 東京の大学行ったんだよね?」
「うん、今はフツーにOLやってる」
 同窓会の幹事の藤本くんがにっこり笑って私にキンと冷えた生ビールを持ってきてくれた。
 藤本君は中学三年の時一年間共に学級委員を務めた間柄で、クラスの男子の中ではよく話をした方だった。
「やだ、藤本くん? 久しぶり。元気だった?」
「ぼちぼちだねぇ。三宅さん、やーと来てくれたんだ。前の同窓会には来てくれなかたよねぇ」
 中学を卒業してから二、三度同窓会を開催していたそうだが、私は部活だのバイトだので都合が合わなくていつも行く事が出来なかった。
 だから私にとってはこれが初めての同窓会となる。
「おれ三宅さん来てくれないかなてずーと思てたんだよー」
「ほんとに? ありがとう」
 受け取ったビールを一口飲んで笑い返す。藤本くんは嬉しそうな足取りで元いた席に戻っていった。
「藤本さ、アンタのこと好きらしいよ。中学ん時からずーっと」
「マジ? 勘弁してよあんなフニャ男。怖いわー」
 よく話をした方だったが、それは単に学級委員の職務上必要な事で、個人的な趣味とは無関係だ。
「バカ。藤本ってこん中じゃ多分一番の出世頭だよ。何か仲間と会社起こして結構成功してンだと。玉の輿ってやつぅ? ま、たァしかにちィとキモチワルいけんどもね」
 グラスを傾けながらけたけた笑っていた。昔からとてもパンキッシュで皮肉屋だったが相変わらずのようだ。
 私は目の前にあった鳥のから揚げを小皿に取り、レモンを絞って口に運ぼうとした。
「そういえばサ」
 額がぶつかるんじゃないかと思うほどの勢いで顔を近付け、酒臭い息を吹き掛けながら目を細めた。その妙な気迫に負け、鳥のから揚げは畳の上に落下する。
「何?」
「アンタ、林クン好きだったよね。林哲郎。ハヤテツ」
 ハヤテツというあだ名が複雑に入り組んだ記憶の中を駆け巡り、奥深くに沈んでいた淡い想いの残滓を掬い上げた。
 あぁ、そうだ。林哲郎。私の初恋の人。野球部のピッチャーで、背はそんなに高くなかったが顔立ちがすっきりとしており、ちょっと無口で粗野なところが当時の私には格好よく見えたものだった。朝練を見るために頑張って早起きしたこともあったっけ。
「ハヤテツね、懐かしいなぁ。今日は来てるの?」
 意味のない期待に思わず頬を緩ませる私に小さく苦笑をしながら、下あごを突き出して「向こう」へと払った。その先の、二つ向こうのテーブルには同窓とは思えないほど化粧の厚い女(多分遠藤さん)と、これまた別の意味で同窓とは思えない、まぁ落ち着きのない格好をした色黒の男がじゃれついていた。男の方は誰だろう。まさかとは思うが
「あれって」
 友恵の左親指が天を向く。
「イエス。ハヤテツの成れの果て」
 これは何とも驚愕だ。初恋の人になんて会うもんじゃないとよく聞くけれど、あそこまで変われるものだろうか。あの野球一筋のハヤテツが、ファンデーションとマスカラで出来た尻の軽そうな女を必死で口説く、趣味の悪い男になってしまったという衝撃は重い。
「しかも相当なタラシだね。さっきからずーっと女に声掛けまくって、ようやく相手してくれたのが遠藤ってわけ。あの分じゃ今夜はお持ち帰りかしらね」
 合コンかっつーの。と吐き捨てる友恵に今度は私が苦笑し、もう一度ハヤテツが居る方向に目を向けた。そこにかつての面影は無く、自分の胸の中にも彼を愛しいと想う気持ちは見当たらなかった。もはや遠くの人でしかないハヤテツから目をそむけ、私達は他愛ない話に花を咲かせる。
「それにしても翔子に会うの久しぶりだよね。何年ぶり?」
「確か、あたしが東京に出る前に一回会ったんだよね。だから……七年だね」
 懐かしさが心の中にじんわりと滲み出てくる。
「懐かしいよね。憶えてる? あたしが東京に行く前の日、二人で市内の方に遊び行ってさ。帰り際二人とも泣いちゃって……」
「そうだっけ? あんまりおぼえてないや」
「そうだよ。それでさぁ昔の話で盛り上がっちゃったりして」
 思い出話は尽きず、次々溢れるあの頃の日常を口にしていると気分が少しずつ盛り上がってきた。
「懐かしいなぁ……」
「そだね」
 どうやら友恵の方はあまり乗り気でないらしく、適当な相槌を打ちながら黙々と酒を胃に流し続けていた。私の語気は夕立があがるように勢いを失い、グラスに付いた滴を指でなぞることしかできなくなった。
「そういえば翔子は今彼氏とかいんの?」
「――――うん。いるよ」
「へぇ。どんな人?」
 少しだけ言うのを躊躇った。
「どんなって」
「仕事とかさ」
「あ、うん。普通の……お医者さん?」
「マジ? 何だよそれー。そんなんどこ行けば釣れるわけ? いいなぁ」
 この反応にもそろそろ飽きてきた。だけど彼が医者である事は否定しようのない事実だし、隠せばまたややこしいことになるかもしれないから正直に話した。自慢に聞こえていなければいいのだが。
「東京のお医者様と地方の社長じゃ比べ物にならないわな」
「友恵は? いないの?」
「んー。どうかな」
「え。どうかな、って何」
 並びの揃わない歯を見せ、「内緒」と笑う。
「まさか不倫とか言わないでよねー」
 冗談で返した私の言葉に返答は無かった。聞こえなかったのか、返す価値もないと判断したのか。
「どうかした?」
「ねぇ翔子。どうして世界は平和にならないんだと思う?」
 酒気を感じさせない真面目な声色は、周囲のざわめきに飲み込まれそうに小さく、私は一度聞き返した。なんでもないと言った彼女の顔は、昔放課後の教室で「振られちまったよ」とおどけて見せた、あの固く悲しい笑顔だった。しかし酒で渇きを潤す彼女の横顔にあの頃の面影は見えない。七年の溝は私には見えなかっただけで、確かに存在しているようだった。
「そういえばさ、あたし卒アル持ってきたんだよね」
「え、マジで? 見たい見たい」
 二人とも何かを払拭するように明るく振舞う。
 友恵は早く他の話題に移したいと思ってこの話題に噛み付いてきたのだろうが、私は『あれ』が何を意味するのか、彼女ならもしかして分かるかもしれないと思っての事だった。
 青色の厚紙で出来たケースに入ったそれをバッグから取り出し、友恵に手渡す。友恵は受け取るとケースから本体を抜き、手触りの良い表装のアルバムを開き、一枚一枚丁寧にめくる。
「わ。懐かしい。なんかアタシすんげぇ変な髪形してんですけど。まじウケる」
「あのさ、最後の方にある寄せ書きのところ見てくれない?」
 言われるままに友恵はページをめくり、年表の後ろまで進めた。そこには色とりどりの文字がぎっしりと白紙を埋め尽くしており、それぞれが私に対してのメッセージを成していた。
「寄せ書きがどうかしたの? あ、『これからもず→っとず→っとマブダチだヨ!』ってさ。アタシ寒い事書いてんなア」
「そこじゃなくて。コレ見てくれない?」
 最後のページの隅に書かれた一つの文章を指差した。
「――――『あさがお』?」
 黒いペンで書かれたその文字は周囲の彩り溢れる言葉を拒絶するかのように異質な空気を放っていた。
「あさがおってアサガオのことだよね。何なのこれ?」
「それが分からないんだよね。あたしも昨日見つけたんだけどちょっと気になってさ」
 その書き込みには名前が書かれておらず、本当にただ一言だけがぽつりと書かれているのだった。
「あさがお。何か特殊な意味があったっけ? 友恵何か知らないかな」
「アサガオ。朝だけ咲く花。開花時期は夏から秋。朝の美人。花言葉は……『愛情』? だったかな」
「愛情?」
「ひゅー。モテモテじゃん」
「やめてよ、そんな」
「短い愛っていう意味もあったけどね」
「………………」
 花言葉は一つの花に一つというわけではないので、あのメッセージを書いた人間が伝えたかった事をピンポイントに理解してもらう事は難しい。もっと何か他の意味が込められている事は違いないだろう。しかし一体誰が、どういう意味で?
「そういえばアンタ『クラス全員からメッセージもらうんだ』って言ってなかったっけ」
「……あぁ、そうだったかも」
 数ページに渡って書かれている寄せ書きは確かに一クラス分以上はある。しかし友恵はどうしてそんな事を憶えていたのだろうか。
「忘れたの? アンタが全員分書いてもらう間アタシずーっと校門ところで待ってたんだからね」
「あ、あれ? そうだったっけ」
「調子いいんだから全く」
 他のメッセージは全て名前が書かれている。ならば一つ一つ確かめていけば良いということ――――?
 私は友恵からアルバムを奪い、個人写真の載っているページまで戻す。無理やり取らされたポーズと不自然な笑いに満ちた十年前の私達。それを一つずつメッセージと照らし合わせた。赤木くん……あった。上原くん…………あった。嘉穂ちゃん…………あった。有働くん、あった。弘美……あった。順不同に書かれたメッセージの中から探し出すのはなかなか骨を折る作業であったが、最も確実な手段だった。他のクラスの人間という可能性も残っていたが、それはクラス全員分をチェックしてから考える事にしよう。

「あ」
 クラスの丁度真ん中ほどに来たとき、一人だけメッセージが見当たらない生徒が居た。
「見つかった?」
「うん」
「どれどれ、見せてみ。――――うーん…………。確かそいつ登校拒否で卒業式来なかったじゃん。だから違うんじゃない?」
 いいや。確かに私はクラス全員からメッセージを書いてもらった。
 押し寄せる荒波のように頭の中で卒業式の日の記憶が次々と蘇ってきた。卒業式の後、謝恩会の前。そうだ。私は彼女の家に行っていた。




 関口籐子はとても気が弱く、自己主張できずにいつも俯いているような少女だった。彼女とは小学校から同じで、クラスも五年と六年の時に一緒だった。その当時から女子にいじめられており、中学に進んでもほとんどが持ち上がりだったため、彼女が学校に馴染む事は無かった。一年の初めにはまだ登校していたらしいが、二学期が始まる頃から本格的に登校拒否をし始め、学校には一切顔を出さなくなる。
 三年になり、学級委員になった私は先生から「彼女にプリントを届けるように」と命じられた。彼女の家は私の家と比較的近くにあり、帰り道に少し道を変えればすぐに行く事が出来る距離だった。そのこともあって私に頼んだのだろう。快く引き受けた私はほとんど毎日彼女の家へ行き、プリントを渡した。最初のうちは彼女の母親に渡してそのまま帰ることが多かったが、彼女が出てくるようになり、夏には部屋の中に招き入れてくれるようになった。


「やっほー関口さん」
「あ、三宅さん。いらっしゃい」
 そうだ。よく思い出してきた。彼女の部屋は空色のカーテンが綺麗で、キャラクターのぬいぐるみがベッドの近くにたくさん置いてあった。彼女の服はブランドのものばかりで、本棚にはたくさんの参考書が並べられていた。それが彼女のイメージとはずれていて最初に入った時は驚いたっけ。
「今日も勉強してたんだ」
「うん、高校は普通の所に行こうと思っているから。ちゃんと勉強しておかないと」
 今日はどこまで勉強進んだ? と彼女に尋ねられて一応答えるが、彼女はそんな範囲はとっくの昔に勉強し終えていてどんどん先に進んでいたので本当はあまり意味はなく、単に会話のきっかけでしかなかった。
「ハゲ山怒ってさぁ。でもそいつら全然相手にしてないんだもん」
 彼女はいつも静かに微笑んで私の話に相槌をうっていた。笑うべきところで笑い、悲しいところでは眉尻を落とした。
 私にはどうして彼女が学校に来ないのか分からなかった。たしかに地味な子ではあったが、そこまで嫌われるようには思えない。実際、昔彼女の事をいじめていた人間は他のクラスに居るので、クラスに彼女の事を嫌っている人は居ないはずだ。
「ね。やっぱり学校に来るのは嫌?」
 彼女は目線を床に落としてしばらく迷うようなしぐさを見せてから見逃してしまうほど小さく頷いた。
「みんな気にしたりなんてしないよ。もし変な事言うやつが居たらあたしがとっちめてあげるし、さ」
 彼女の唇は真一文字のまま動かない。
「休めば休むほど来難くなったり、しない?」

 彼女は答えなかった。


 私の訪問が続いても、結局彼女は学校に来なかった。少し遠くの私立に進学したことは聞いていたが、その後どうなったかは分からない。

 私は席を立ち、クラスメイト達の後ろを通り、カウンター席に座る藤本君のもとへ向かった。
「ねぇ、今日って皆来てる?」
「へ? いーや。欠席者は八人だよ」
「誰?」
「んとね、赤木とタカと吉本と、阪井と、京本とスズキさんとミッチーとあと名前忘れたけど、登校拒否だたセキなんとかさん」
 やはり彼女は来ていなかった。あのメッセージはきっと彼女が書いたものだろう。何故私の記憶が抜け落ちているのかは分からないが、彼女に聞けばきっと全てが解決するに違いない。「あさがお」の、本当の意味。
「関口さん――――登校拒否だった子って住所変わってない? まだこっちにいるのかな?」
「うん、ちゃんとはがきの返信が来たから多分大丈夫だと思うよ」
「そう……。ありがとね」
「どういたしまして」
 彼女の家ならなんとなく覚えている。卒業アルバムにも住所が載っているし(最近の卒業アルバムには個人情報保護とかの目的で載っていないらしい。こういうときは昔に生まれ育って良かったとしみじみ思う)明日にでも行ってみよう。
 今の自分は冷静さを欠いているかもしれない。たかが寄せ書きの事で家にまで行くなんてどうかしている。でもどこか不思議な響きを持つ、意味を感じ取る事の出来ないその書き込みは今やどんなメッセージよりも私の心を強くゆすぶっているのだった。
 私の中の熱い蒸気のような好奇心がざわざわと騒ぎ、その日はお酒にも郷愁にも酔う事が出来なかった。




 翌日、天気は相変わらずの快晴。暑さで目が覚めた時はもう太陽が真上まで届いていた。
「お母さん。どこ行くの」
「あら、あんたまだ寝てたの」
 母はとても派手な服装で玄関に座っていた。何足も何足も靴を並べ、どれがいいかと吟味している。
「お母さんね、ちょっとお友達と出かけてくるから。夜、遅くなるから適当に食べていて」
「…………うん」
 母も、しばらく会わないうちにすっかり変わっていた。常に化粧をし、香水を纏い、少し洒落た下着を身に着けている。今までの自分に無頓着だった母とは思えないほどに自分を高めようと意識している。そう言えば聞こえはいいかもしれないけれど、それが何を意味しているのかなんていうことは二十代を半ばまで過ぎた私には分かりすぎるほど分かる。
 父が死に、様々な制約が解かれた反動なんて言い訳だ。
「お母さん、帰り、何時ごろになる?」
「分かんない」
 他人はこれを子離れと呼ぶのだろうか。ただ縋るものが他に移っただけなのに。縋られる事もずいぶんと鬱陶しかったとはいえ、せっかく自分の娘が久しぶりに帰ってきたというのに『友達』との約束を優先するというのはちょっと悲しいものがある。
「それじゃあいってくるね」
「いってらっしゃい」
 複雑な心境で母を見送った。


 朝食を兼ねた昼食をかき込み、身支度を整えて昨日と同じ卒業アルバムの入ったバッグを肩にかけ家を出た。青々とした山の向こう側には念入りに泡立てた石鹸のような入道雲が連なっている。日差しが気になって黒いレースの日傘を持ってきたが、もしかすると雨傘の方が良いかもしれない。
 私の気持ちはプレゼントを待つ子供のように落ち着きなく跳ね回っている。正直どう転ぶかは分からない。彼女自身が覚えていなかったらアウトだし、何の意味なんて無かったのかもしれない。それならば完全に無駄足だ。
 でも万が一そこにとてつもなく大きな意味があったとしたら? 予想だに出来ない答えがそこにあったとしたら? 私はバッグの取っ手を強く握り締めた。熱を反射させるアスファルトの道を一歩一歩踏み進める。それに併せるかのように心臓も早く脈打つ。
 この道の先に、答えはきっとあるだろう。自信なんて無かったけれど、遠く広がり、突き抜けるような青をした空が私をそんな気分にさせるのだ。

 緩やかな坂を上った場所に関口邸はあった。庭付きの木造二階建て。具体的な坪数は分からないが家族三人では持て余すほどに広いと思うものだった。改めて眺めてみると彼女の家は裕福だったのだな、と実感する。
 敷地に入り、インターフォンの前に立つと、はたと気付く。電話の一本くらい入れたほうが良かったんじゃないか。急に行ったりしてもし誰も家に居なかったら? 今日は日曜日だけれど彼女が平日休みの会社に勤めているかもしれない。自分の顔が熱を持って赤くなるのを感じた。私バカみたい。どうしてそんな事も気付かなかったんだろう。しかし今更帰るのも変だし、でもいきなり行っても……。少し挙動不審気味に右往左往していると、急に鍵がかちりと開いた音がした。
 呆気に取られているうちに中から深緑色のワンピースに白い夏用のカーディガンを羽織った中年の女性が出てきた。
 予想外の展開に狼狽し、頭の中が混乱してくる。何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。
「あ――――あ、あ、あ、私」
「三宅さんよね? 椿二中の」
 再び予想外の展開。その女性はあからさまに挙動不審な私を穏やかな口調に似合う優しい笑顔で迎え入れてくれた。
「憶えていてくれたんですか?」
「えぇ。それはそうよ。籐子のお友達だものね」
 おばさんはドアを大きく開けて、体を壁際に寄せた。
「よろしかったらどうぞ」
「…………お邪魔します」



 木目のドアを開くと、体をすくめるほどに冷たいエアコンの風が真っ先に私を迎えた。
 彼女の部屋は、十年前と殆ど変わることはなかった。もちろん本棚いっぱいの参考書はなくなっていたけれど、色合いや雰囲気というものは全くあの頃のまま。何もかもがそのままだった。
「―――『あ、三宅さん。いらっしゃい』……」
 椅子を回転させこちらを向く。肩まで届く真っ直ぐな黒髪、銀色の細い縁をしたメガネをかけ、夏だというのに薄手で黒い長袖のタートルネックにグレーのロングスカートという出で立ちの彼女は少しおどけるような調子で笑った。
「やっほー。関口さん」
「久しぶり」
「久しぶりだね。昨日、同窓会あったんだよ。来られなかったんだ?」
 しまったと気付いた時にはもう遅い。登校拒否でほとんど顔を出さなかった人間が同窓会に出席するというのも彼女に気まずい思いをさせてしまうかもしれない。例え暇があったって来るはずなんてないだろう。
「うん。ちょっとね」
 座りなよと促された私は部屋の中心にある小さなテーブルの脇の色褪せたクッションの上に腰を下ろした。椅子に座っていた彼女も私の反対側に腰を下ろした。
「みんな、元気だった?」
「え?」
 私は自分の耳を疑う。今彼女は『みんな』と言った。それは三年三組の事であり、クラスメイトの事だ。
「うん、そりゃもう元気だったよ。みんな年取ってるんだけどさ、やっぱりどこか面影残ってるんだよね。ちょっと不思議」
「私はどうかな? 面影、残っている?」
 昔の事も今の事も、あまり気にしていない様子で安心した。
「面影は残ってるけどやっぱり綺麗になったよね。服装もメイクも落ち着いてる感じだし、流行に流されない大人の女って感じかな」
 おだてるつもりは無かったけれど少し取り繕うように聞こえてしまったかもしれない。彼女は首を右にかしげてあの恥らうような笑顔を見せた。
 そこで初めて、こちらに帰ってきてから初めて自分が心の底から安堵していることに気付いた。
 彼女は十年前から何も変わらずに今自分の目の前に居る。この何もかもが変わってしまった町の、変わってしまった人々の中で、この部屋の彼女だけがあの頃と変わらずにいてくれた。
「関口さん、今何やってるの? 地元で就職したのかな」
「……大学に行って就職したけど、半年で辞めちゃったんだ」
「そうなんだ」
「今はね、あのパソコンで株をやってるの」
 机の上のパソコンを控えめに指差して言った。
「すごいね。私なんてそういうの全然分からなくてさ。楽しい?」
「うん。それに結構お金稼げるのよ。社員として働くより少ないんだろうけどね」
 彼女にはそういう生き方が相応しいのだろう。聡明で理知的な彼女は非常に真面目で、才能という面では他より秀でているが、いかんせんコミュニケーションスキルが著しく欠けている。いくら会社に対して貢献できたとしても、社内の人間関係が上手くいかなければ他の面で足を引っ張ることになる。何より彼女は人の輪に加わる事もそれから外れて陰口を叩かれる事も苦痛でしかなかったに違いない。
 家の中で誰にも迷惑をかけることなく、ただ生きていくためのお金を稼ぐ個人投資が彼女の性に合った生き方だと私も思った。
 この人は、自分に合った生き方を見つけられたのだなぁ。
「三宅さんは?」
「あたし? あたしは普通にOLやってるんだ」
「そう。偉いのね」
「――――偉いって?」
「そのまんまの意味。普通に生きられるってとても良い事でしょ」
「そんな事初めて言われたよ」
「世間や他人との折り合いをつけて、自分の居場所を切り開いていく。自分というものを犠牲にしてね」
「…………」
「気に障ったのならごめんなさい。私は本当に羨ましいと思ってるの。そうやって普通に生きていける事が」
「ううん。あたしはそんな人間じゃない」
 本当は仕事も上手く行ってなかった。人間関係も表層的な部分ではなんとか取り繕っているけれど、本質的にはお互いいがみ合い、憎しんで蹴落としてやりたいと思っている、とても下らないものだった。彼は忙しくてろくに会うことも出来ず、地元に帰ってきたのも色々な事から逃げ出したかったのが本当のところである。ほんの少しの間でもいい。東京の色褪せた現実から離れ、遠い昔の華やいだ頃に色をつけて楽しみたかった。
 それでも故郷は私に癒しを与えてはくれなかった。
 歩き慣れているはずの駅前は再開発によって区画が整備され、どこをどう通れば良いのか分からない。久しぶりに会った友達との会話もずれがちで、違和感だけが胸に残った。実家でさえもう他人の家のようだった。
 だからあの頃と変わらぬ彼女を見て心の底から安心した。変わらぬものがあるから自分の中の懐かしい思い出も鮮やかに蘇らせる事が出来る。今の傷付いてささくれ立った私の心に安息をもたらした黒衣の天使だ。
「でも、関口さんが元気そうで良かった」
「死んでると思った?」
 彼女はさらっとした微笑みに乗せてそんな言葉を投げかけた。自分の頬が一瞬引きつった。
 正直なところ、もしかすると彼女はこの世には居ないんじゃないかと思っていた部分もある。彼女のような真面目な人は、自分の居場所を見つけられず、世の中に適合できない自分に嫌気が差して自らの命を絶ってしまうようなそんな気がしていた。
 全くそんなもの根拠など無かったけれど。
「そんなこと」
「あながち間違ってるわけでも無いけれどね」
 そういって彼女は左手の内側を上に向け、静かに差し出した。
 目を背けたくなるような無数の傷跡。細く細かく付いたもの、太く大きく付けられたもの。それは長い年月を経て繰り返し繰り返し刻まれた物に違いない。彼女の悲しみや自己嫌悪が込められているその一つ一つの傷を私は泣きそうな目で眺めた。きっと目をそむけてはいけない。私は彼女を受け入れなければならない。
「大学入ってから会社辞めるくらいまでやってたんだ。大学入ってから、一人暮らしでさ。友達も出来なくて生きてる意味とか分かんなくなっちゃって、死にたいとは思ったけど私臆病者だから」
「大変だったんだね……」
 卒業してから十年間。きっと皆が何かしらの問題を抱えて生きているんだ。友恵もそう。藤本くんもハヤテツも、なんでもない顔をしていたけれど、きっと沢山の辛い事を抱えて生きている。あの頃とは比べ物にならないほどの大きなものに苦しみながら、色々な事でごまかして今の生活を維持しようとしている。変わってしまうのは仕方の無いことかもしれない。
 あの頃のみんなはもういない。
 書き込んだはずの寄せ書きも、皆何を書いたか忘れてしまっているんだ。
 でも、あの頃の気持ちを本当に忘れてしまっていいのだろうか。あの頃に囚われているのは私と彼女だけだというのか?

「それで、何か用があって来たんでしょ?」
「うん、あのね」
 私はバッグから卒業アルバムを取り出し、彼女に差し出した。
「この、寄せ書きのところ見て欲しいんだけど」
 彼女は無言のまま昨日友恵がしたように年表の後ろの寄せ書きまでページを送った。
「これがどうかした?」
「……その、最後のページに『あさがお』ってあるでしょ?」
 彼女の眉がわずかに動く。続けて優しい声色をこぼした。
「憶えていてくれたんだ」
「じゃあやっぱり関口さんが?」
 驚いたように顔を上げる。
「……どういうこと?」
「これ、関口さんが書いたんだよね?」
 事態が飲み込めないのか、戸惑ったようにもう一度『あさがお』に目線を落とし、静かに下唇を噛んだ。
「私が、これを書いたかどうかは憶えていない。でも多分私が書いたんだと思う」
 だってそうでしょう? と突きつけるように、すがりつくようにこう言った。
「あさがおは、私達の『はじまり』だもの」


「はじまり……?」
 私も次第に頭が混乱し始め、状況を把握する事が出来なくなってしまっていた。
 自分の記憶の中に『あさがお』が特別な意味を持つようなものはない。それも、関口さんと深い関わりがある?
 私達のはじまりとはなんだったろう。同じクラスになったのが小学五年の頃。正直あまり良い思い出ではなかったが、少なくともあさがおは何の関係も無かったと思う。中学になって家に来るようになってからもはじまりはただ単に先生に頼まれただけで、あさがおが関連するような事はなかったはずだ。
「やっぱり、忘れちゃってるんだね」
「ねぇ、関口さん、どういうことなの? 分かるように教えてよ」
 じっとりと責める様な目で私を見る。そして彼女は語り始めた。
「小学校一年生の時。私、体があんまり強くなかったから学校を休みがちだったんだ。それで夏前にも体調を崩しちゃって、育てていたあさがおを終業式の前までに持って帰る事ができなかったの」
 熱い夏の日差しが照り返す中、彼女はか細い腕で重いあさがおの鉢植えを持って帰ろうとしたのだという。二十分はかかるだろう距離を病み上がりの子供が、である。
「そんな時に、あなたが鉢植えを持ってくれたの」
 記憶にない十八年前の私は「百歩歩いたら交代ね」と彼女に笑いかけたらしい。
「あなたはそう言って殆どの間あさがおの鉢植えを持って歩いてくれた。クラスも違う、名前も知らない、話した事もない私のことを助けてくれた。私はとても嬉しかったの。休みがちで友達も出来なかった私に優しくしてくれたあなたの気まぐれな親切が、とても嬉しかった」
 本当に憶えてないのね。と言った彼女の言葉は私の良心に深く突き刺さる。額を右手で覆い懸命に遠い日の記憶を思い出そうとするが、思い出す事はできない。彼女の作った妄言なのではないかというほど、きれいさっぱりそんな記憶は見当たらなかった。彼女の瞳に応えられない自分はまるで彼女を裏切った卑怯者のように思えてくる。
「それで、寄せ書きにそのことを?」
「分からない。正直なところ私も憶えていないの。でも私達の間であさがおって言ったらそれしかないと思う」
「……ごめんなさい。思い出せないや」
「気にしないで。だってもう十年以上も前の事でしょう? 忘れてるのも当然だよね……」
「ありがとう」
 申し訳なさで彼女の顔を見ることさえ出来なかった。あさがおは彼女にとって何よりも意味のある大切な思い出だったのだろう。きっと彼女は遠い昔の事を語り合いたかったに違いない。私達の間にあるわずかな絆を、小さな芽に水を注ぐように慈しんで喜び合いたかったんだ。
「本当にごめん……」

「いいよ」

 言葉を失った二人の間に長い長い沈黙が流れた。こんな状況では昔を懐かしむ事も出来ない。語れるような今も無い。それならば一体何をしゃべればいいのだろう?
 そんな風に戸惑っていると、彼女がゆっくりと口を開く。
「忘れた方が幸せなのかな」
「え?」
「昔の事なんて忘れて、今を生きた方がきっと建設的なんだろうね」
「関口さん?」
「だって憶えていられる事には限りがあるでしょ。昔の事なんて憶えていても、何にもなら無いもの」
「そんな事無い。そんな事無いよ」
「…………」
「思い出って、今を生きるためには大切な物だよ。何にもならないなんて、悲しいこと言わないでよ……」
 手の中に何も無い今の私から思い出まで抜き取ってしまったら、一体何が残るというのだろう。色々なものを取りこぼして、次第に空っぽになっていく自分が恐ろしくて、強く強く拳を握り締めた。
「三宅さんが素敵な人生を歩んでこれたからでしょ。素敵な思い出ばかりの人生だからでしょう」
「誰にだってあるでしょ? 楽しかった事とか、思い出すだけで幸せになるような思い出」
「ないよ」
 彼女はその身を切りつけた刃物のように鋭い口調で吐き捨てた。
「私にはそんなの一つも無い」
「そんなはず」
「あなたには分からない!」


「明るくて、かわいくて、みんなから好かれてて、誰とでも気軽に話せて。そりゃ思い出したいことばかりよね。そのくせ都合の悪い事は忘れてしまう。でも私は違うの。昔の事なんて何一つ思い出したくない。いつもいつだって忘れたいことばっかり。私の人生には嫌な事ばっかり! もう私のことは放っておいてよ……!」
「そんな……」
 彼女は立ち上がり、パソコンの電源スイッチを強く押す。壊れてしまうような勢いで椅子に座り、こちらに背を向けた。
 私はただ、昔の話がしたかっただけなのに。
「私とここで話した事も?」
 起動音が長く響いた。
「関口さんは楽しくなかったのかな」
 私だって正直面倒だと思うことはあった。真っ直ぐ帰りたい日もあったし、行きたくない日もあった。でもそこまで苦痛だと思ったことは無いし、彼女といる時は気を使わなくていいのが楽だから色々な事を素直に喋れた。彼女は違ったのだろうか。
 椅子を回転させた。

「私、あなたのこと大っ嫌いだったよ」
 この部屋はとても寒すぎる。今になって体の芯から冷えが襲ってきた。
「三宅さんは忘れちゃってるんだろうね。私がどうしてこんな人間になったのか」
「どういう意味……?」
 あなたのせいじゃない。
「全部あなたのせいじゃない。小学生の頃初めにいじめられていたのはあなた。それから逃れるために私を利用した。違う?」
「どうしてそのこと…………」
「やっぱり変な噂を流したのはあなただったのね」
 カマをかけたというよりは事実の確認みたいな口ぶりだ。
「あなたがいじめられていたのは知っていた。それで私が次に来たときは標的が私に移っていた。単にあなたへの興味が薄れて私に移ったとも考えられるけれど、私を標的にする理由は全く心当たりの無いものだった。だから多分これは誰かに謀られたなって思ったの。でも誰かに恨みを買うほど私は学校に来ていなかったから、一番考えられるのは『前にいじめられていた人間が逃れるために噂を流した』ということ。少し考えれば誰にでも思いつくようなことだものね」
「………………」
「おとなしくて抵抗しない、無力な私を犠牲にして自分から注意をそらそうとした。そうでしょう?」
「それはそうだけど……」
 小学生の時、リレーのバトンのようにめぐってきたいじめの順番からいち早く逃れるため、他の誰かを犠牲の山羊に仕立て上げた。それだけがいじめから逃れる唯一の方法であると考えた私はそれを躊躇うことなく実行した。
 いじめられている最中は噂を吹聴しても聞く耳を持たない。だから、ほんの少しだけ他人の手を借りた。いじめをしていたのは女子の主力グループで、殆どの女子に影響力を与えてこそいたが、表面的に従ってはいるものの中立を保っている女子は予想以上に多かった。
 だから私も完全に孤立しているわけではなく、友達だった人間が敵に回り、親友が友達になった程度だ。だからそんな彼女達に協力してもらい、ある女子に関する噂を流してもらった。それも私なりに考えていじめの被害を最小限に食い止めるため、おとなしくて友達が少なくて、体の弱い休みがちな子を、関口籐子を選んだのだった。
 関口籐子は学校をサボって遊び歩いている。子供の思いつくような単純な嘘も、相手が子供ならば容易く信じ標的をそちらに移した。

 しかしいくら被害を最小限に、とはいえ彼女自身は大きな被害を被っている。
 これは私の罪の意識を減らすための口実でしかなかったのだ。
「それで、罪滅ぼしのために私の家に通ったんでしょ」
「…………」
 全くもってその通り、返す言葉も見つからない。私は初めにプリントを届けるように言われた時、これは心の奥底にあったしこりを取り除く良いチャンスだと思った。彼女の元へ通い続ければ贖罪になるし、友達になれば彼女だって昔の事と言って忘れてくれるかもしれない。彼女の元へ通うだけで十分だと思って、自分の中ではとっくに解決した問題だったのに。彼女は私を全く許してくれなかったようだった。
「私はね、三宅さん。私をいじめたり無視したり煙たがった人間よりも、あなたみたいな偽善者の方が嫌いなの。だから私はあなたのことを絶対に許さない」
「私がやった事は謝るよ。本当に申し訳ないことをした。だけどもう、昔の事じゃない」
 うめくように声を絞り出す私を見下ろしながら、関口さんは見たことも無いような笑みを浮かべた。裂けるほどに歪んだ口。力の込められた瞳。
「あなたが言ったんじゃない。忘れた方が幸せなんて言わないでって」
「そういう意味で言ったんじゃない……!」
「自分に都合の悪い事は忘れろって言うの? そうやって、自分の罪を忘れてもらう事で自分が楽に生きたいからでしょ? 自分の過ちを無かった事にしたいんだ! ただそれだけ!」
「違う…………違うよ……」
 違いなどあるもんか。胸のうちではそう思っている。他人の中に居る自分を出来るだけ綺麗に保っておきたい。そうすることで今の自分も綺麗で居られると思いたいだけなんだ。なんて醜い生き方だろう、と自分が自分で嫌になった。
「人間はとても恐ろしい生き物だと思った。人を平気な顔で落としいれ、虐げ、自分の歓楽だけを追及する。自分が痛めつけた人間がどうなろうと知った事じゃないって言って笑って、全部忘れて楽しく生きているのよ。なのに被害者である私は一生苦しむの。歪んで屈折した自分と、そうした相手を恨みながら、一生! ……とても不平等だと思わない? 翔子ちゃん」
「ごめんなさい。ごめん……なさ」
「―――もういい。迷惑だから帰ってよ」
 操り人形のように頼りない所作で私は立ち上がり、アルバムをバッグに入れ、時折ふらつきながらドアへ向かった。
 ドアに手をかけた瞬間、
「それから一つ言っておくけど」
 私は振り返らず
「…………何?」
 彼女の言葉を待った。
「私、今すごい幸せだから。付き合ってる人だって……いるし。近々結婚すると思うの。私、幸せなのよ」
 勘違いしないでね、という声はドアを開ける音に被り、聞こえなかった。




「―――あなたがもし始まりを覚えてくれていたら、私も忘れてあげたのに」
 その声も、扉の向こう側の彼女には届かなかった。







 日もすっかり暮れた川沿いで私は丸まるように膝を抱え、泣いていた。
 もう何もかもどうでもいいや。私の知っているものはもう何も無い。ここにある全てのものはもう私の知らない何かに変わってしまっていた。
 そういえば
 中学の頃の私も何かある度この場所に来ていたような気がする。友達と別れた帰りに寄り道し、夏には蛍が舞う川べりで何時間もぼーっとしていたものだった。
 今はもう、蛍なんて居ないんだろう。
 だがそれもどうでもいいこと。鞄からアルバムを取り出し、丁度真ん中のページを開いた。
 もう思い出なんていらないんだ。こんな変わり果てた町も、友達も、何も要らない。ページを一枚破いた。二年の時の遠足の写真。みんな楽しそうに笑っている。それを更に細かく破り、ばらばらにちぎった。、たったの一ページ引きちぎっただけで手が痛くなる。でもそうすることで胸の中に涼しげな風が吹き込んでくるような気がした。空っぽってのもいいもんだ。
 泣きながら笑い、笑いながらまた一枚ちぎる。思い出が一つ一つ壊れていく。
「何してんの?」
「思い出を捨ててるの。全部」
 私の隣に居た制服姿の少女はふーんと言いながら頬杖をつき、私の行為をじっと眺めていた。
「どうして?」
「いらないから。思い出なんていらないってわかったから」
「意味わかんない。思い出って、今を生きるためには大切な物なんじゃないかな。ほら、辛い時とかを乗り切るために?」
「そんなの意味が無いって分かったの。自分だけ楽しい目を見ても、どこかで自分以外の人間が不幸になってんのよ」
 そんな思い出にどんな意味がある?
「世界中の人が幸せになることなんて出来ないよ」
 大人の癖に変なことを言う、と少女は笑った。
「あたしね、今日卒業式だったんだ。中学とか結構楽しかったし、大人になってもずーっと忘れたくないよ。それって普通じゃないの?」
「ううん。もう大切な事を忘れているんだよ。本当に大切な事だったのに」
「忘れちゃうようなどうでもいいことだったんじゃない?」
 私にとってはそうだった。関口さんは友人のうちの一人でしかなく、沢山居る友人達の一人一人との出会いのきっかけなんていちいち憶えちゃいられない。でも彼女にとっては唯一の出会いだったんだ。一番の思い出だったんだ。それを私は裏切ってしまった。
「本当はどうでもいいんだよ」
 ただ自分の居場所を見つけたくて、故郷は変わっていないと思いたくて彼女に救いを求めただけだった。つい昨日まで彼女の存在すら忘れていたというのに、何とも虫のいい態度だ。馬鹿馬鹿しい。もう全部馬鹿馬鹿しい。だから黙々と思い出を破壊し続ける。
「卒アルを破るのって何の意味も無いよね」
「儀式」
 故郷を捨てる儀式。全てを忘れるための血の禊。意味なんて無い。けじめをつけて区切りを引きたいだけの、自己満足。
 少女は半ばあきれた様子だ。まるで理解できないという目をしている。あなたもそのうち分かるようになるよ、と心の中で語りかけた。
 少女は鞄から卒業アルバムを取り出し、最後の寄せ書きのページを開いた。
「寄せ書き?」
「うん。みーんなあたしの友達。嬉しいよ。あたしのことを好きで居てくれる人がこんなに居る。こんなに沢山の人が私との別れを惜しんでいる。だからあたしはみんなのことを忘れたりなんてしないんだ」
「そんなの欺瞞だよ。十年も経ったらみんなあなたのことなんて忘れている。あなただって忘れてしまう」
「私そんな大人になりたくない。たとえ後でどれだけ嘘になってしまっても、寄せ書きに書いたことも書いてもらったことも全部全部本当だと思うの」
「…………」
 色とりどりに書かれたメッセージ。私は最後のページを破り捨てた。
「貸して」
「やめてよ。今日貰ったばっかりなのに!」
「破いたりしない。あたしからもメッセージ」
 不安そうに首を亀のようにすぼめながらおずおずと真新しいアルバムを差し出した。
 私はそのメッセージとメッセージの間に黒いペンで『あさがお』と書き込んで突き返した。
「…………『あさがお』……? 何これ」
「さてね。今ならきっと思い出せるんじゃないかな」
「何のこと?」
「思い出さなきゃならない言葉だよ」
「………………頭、大丈夫?」
 もうずっとイカレてる。だけど何か憑き物が落ちたみたいに、引越しの荷物を全部片付けた後の部屋みたいにすっきりしている。これからそこに、色々なものを詰めていけばいい。そう自分に言い聞かせてみた。
「こんな大人になっちゃだめだよ」
 真っ暗になった川沿いに一陣の風が吹く。思い出の破片たちは軽く舞いながらその風に乗っていった。
 でも私はその風に負けぬよう、一人で立っている。周りにはもう誰も居ない。

 もう帰ろう。ここではない、東京に。いや、いっそ東京から離れるのも良いかもしれない。何もかもを捨てて、一からやり直すのもきっと楽しいだろう。
「そんな度胸ないくせに」
 風に乗って少女の声が聞こえた気がした。
 きっとそうなんだ。会社を辞める事も、今付き合っている彼と別れることも、今住んでいるマンションを引き払う事もきっとやらない。私はそういう人間だ。
 バッグを掴んで立ち上がる。
 もうここに戻る事は無いだろう。ほんのわずかな郷愁に胸を痛めていると小さな緑色の光が現れた。
 たった一匹、誰に見せるでもなく虚しくさまよう光。
 その光に背を向け、私は故郷を去った。


〜終〜


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一次創作小説同盟。



あとがこ。
 この作品は『一次創作小説同盟』主催 第四回企画「ストーリーテラー形式」に投稿したものです。
 加えてオプションで「書き手と反対の性別視点で書く」という課題も入っています。
 ……でも普段から女性視点のものが多いので制限どころか……。


 書いている途中から、この話は珍しく大馬鹿野郎ばかりだなぁ、とちょっと嫌になってきました。
 大概自分の書いた作品の中には多少なりともどうしようもない人間を支える良心的な人間が居るはずなんですけど
 (『ルームランナー』におけるナンゴク、『春の雪』の雛深、『ハナミチ』の田宮、『東四柳〜』の加奈子など、主に女性がこれに当てはまる場合が多い)
 このお話には一人も居ません。
 どいつもこいつも馬鹿ばっかりで。自分の事しか考えていなくて、本当に救いようの無い人間達を作ってしまいました。

 どうかこの馬鹿どもの言う事に耳を傾けないでください。僕はたぶんこの椿戸の人々が大嫌いです。
 作り上げたのは僕ですが、どうか彼女達の言葉や考え方が全て僕のものだとは思わないでください。


 でも同窓会に行きたくないのは同じだったりする。


 なお、この話は執筆当初「日陰でしか咲けない」という仮題でしたが、執筆を通して内容と題が一致しない上に
「日陰でしか咲けない」というタイトルがちょっと気に入ったので「Auld Lang Syne」に改題しました。
 「Auld Lang Syne」は「蛍の光」の原曲のタイトルであり、スコットランド語で"old long since"という意味なんだとか。
 意図せずして「Auld Lang Syne」は旧友と再会し酒を酌み交わす歌だったので自分でもびっくり。
 本当はただ最後に蛍が出てくるからっていう理由だったんですけど……。

 まぁいいじゃん。


 ところで適当に思いついた「翔子」という名前ですが、ずーっと「ギザカワユス」の人が頭の中に出てきてちょっと萎えた。
 イメージと違うんだよ!!