「春の雪」

「 ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづこころなく 花の散るらむ 」

授業の途中、唐突に彼女が詠んだ句は、紀友則の句だ。

「……百人一首?」「そう。灯駆は百人一首知っている?」

「えぇ、まぁ一般教養として」

昔、父に教えてもらったことがあった。子供の時以来やっていなかったが、少しだけなら覚えていた。

「これって、どういう意味の句なの?」

「日の光がのどかな春の日に、どうして桜の花がせわしなく散っていくのだろう
 ―――という意味だったはずですよ」

「ふーん」

「それがどうかしたのですか?」

「……桜ってそんなにせわしなく散っていくものなの?」

何を、と問いかけようとしたのだが、寸での所で

「そうですね」

とだけ言うに留めた。

中庭には桜の樹が植えられていなかったのだった。
彼女の世界に、桜は存在しない。

紺碧の空に薄桃色の花弁が吸い込まれていく様を

風に舞い、はらりはらりと散る様を彼女はその瞳に映した事が無いのだ。

「桜は散り際が一番美しいですよ」

この時はまだ



彼女が少しだけ物憂げな影をその顔に落としていたのは

美しさを知らないことへの残念さだとしか思えなかった。
それ以外に思えるはずなんて無かった。



彼女がもうすぐ散り行く運命などとは、想像すらも出来なくて。



それを聞いたのは家庭教師を始めてから1年後。僕が丁度、高校二年の冬の時。

「は?」

「そういうことなのだよ」

丁度会長と雛深様の高校受験に関して相談しに行った時に告げられてしまった。

『あの子は高校へ行くまで、命が持たない』と。



「それは……」

「雛深も十分に知っておる。誰よりもその未来を」

深窓の令嬢、病弱体質、美人薄命。

なんともベターな設定だろう。

笑えるほどに力が抜けてしまった。
「そもそも、屋敷にいることすらも本人の希望なのだ。
延命治療は受けない、だとさ。あんなに小さい子がだよ」

エンメイチリョウ
この屋敷では非日常的な単語が躍り出てくる。

意外とお気楽な事を頭の中で考えていた僕とは対照的に少し禿げた頭を抱える会長は
真剣そのもの。


自分が死ぬわけでも無いのに
どうしてこの人はこんなにも悩むのだろう。
自分も明日死ぬかもしれないと言う事など頭の片隅にも無く

予期せぬ事故で明日には死んでいるかもしれないのに

別れの挨拶も言うことなく死んでしまうかもしれないのに
どうして少し明確な死を持っている人間に対してそんなに悩むのだろうか。

「すまないな。こんな事を君に言っても仕方が無いと言うのに」

「いいえ、構いません」



「ですが、何故勉強を?
 高校にも行かないのでしたら―――こういうのも失礼かと思いますが、
 もっと他にやるべき事はないのですか?」

「それも、あの子の希望だ。
 人並みな事がやりたいというね―――」





「知りたかった。もっといろんな事」

布団の中から天井を静かに見上げながらうわごとのように言う。
「たとえば物理とか、世界にどんな法則があって、それがどんな風な物なのか」

「たとえば国語とか、どこのどんな人が、どうして、どういう意味を込めてその作品を作ったのか」

「たとえば歴史とか、この世界で昔どんなことが起こったのか」

「たとえば地理とか、世界にはどんな国があって、どんな暮らしを送っているのか」

「たとえば数学とか、難しい数式を解くとか」



「私、よくばりなの。何でもほしい。何でも知りたい。
 どこにでも行ければかったんだけど」





微笑みは随分と弱々しいものでかすかに震えている。
優しい先生の仮面を被りながら、冷ややかな目で見下す。

なんと哀れな少女。

知ったところでそれは活かされることなく無意味に地へ還るとは。
それを知っていてなお繰り返すとは

哀れを通り越して愚かだ。

この少女は幸せなんかじゃない。

自分なんかよりも不幸なのだ。

井の中の蛙。

その小さな世界しか知らず、残りの人生をこの狭い世界で終える。

巣の中から旅立つ事は無く「雛」は死ぬのだ。

死ぬのだ……











そんな僕が彼女をようやく好きになれたのは、
皮肉な事に、雛深様が一番悲しい出来事によることだった。




「今日は会わん方がいい。一人にさせてやってくれないか」

教科書とノートを抱えたまま部屋の前に立つ僕をさえぎる会長。
何だか痛みを必死にこらえているかのような顔だった。

「またご病気が?」

「違う。そうじゃないんだ」












布団の上にちょこんと座って、

空のケージを見ていた。

「また逃げてしまわれたのですか?」

「そう」

「すぐに帰ってきますよ。前だってすぐ―――」

「帰ってこないわ。もう二度と」




空のケージ

羽ばたいたカナリア。

その向かった先。それは

「逃がしちゃった・・・・・・。だって、ずっと空を飛びたがっていたんだもの。
 こんな狭いかごの中に入れられて――――
 この子は空を飛ぶことが出来る。だから私の代わりにって」

慰める気にもならない。そんなのはただの偽善。

「そしたらね……うちの庭で死んでたんだって。猫か何かに襲われたみたい」

飛べないとりは不幸だなど、所詮飛べない人間の妄想。
かごの鳥は飛ぶ事を知らず与えられた幸せに満足をしていたのに

勝手な感情で外に追いやられ、挙句の果てに食われてしまった。

こうすれば幸せだ。

それが必ずとも幸せになれるなんて限らないのに。

利己的な感情がこの少女の友を殺した。僕は仮面の下でせせら笑っていた。



「運が悪かったのです。仕方なかったんですよ」

「私の所為なんかじゃ無いわ―――」

「……?」

「私の所為じゃない。けど……私の所為じゃないなんて思いたくない」

小さな心臓を守るようにうずくまった。





「         」
(あなたは悪く無いわ)

(あれは事故だったのよ)

(お父さんもお母さんも、天国であなたを見守っていてくれるわ)

やめてくれ。

「                      」

 

嫌だ

 

( どうして僕だけが生きているんだ )

( どうして僕なんかが生き残っているんだ )
( 違う。僕は悪くない。僕は知らない。嫌だ。嫌だ )



僕の所為なんかじゃない。僕は無関係だ。僕はそんな事知らなかった。

知らない。

父さんは

母さんは


「君は悪く無いんだよ」


僕と一緒に死のうとしたのか?

「君の所為じゃない」

「違うわ」

僕は、父さんと、母さんが、死んだ日、病院の、ベッドで、目を、覚まして、そして、


「私があの子を殺したのよ」

「君の所為じゃないじゃないか!!」



彼女は大声に驚いてこっちを見た。

僕はそれすらも気付かないほどに動揺していた。

「君は悪くなんて無い。だって、死ぬ事なんてわからなかった。
 だって、気付かなかった。知らなかった。考えるはず無い。死ぬ事なんて」

ドライブに行こうって言ったのに。

温泉に行って、美味しい物を食べて、それで?

だから両親と旅行なんてなんとなく小恥ずかしかったけど

楽しみで

楽しみにしていて、



父さんも母さんも死ぬつもりだった?

「灯駆?どうしたの?・・・・・・ねぇ」


 

『一家心中?』

聞きたくない

思い出したく無い。

『えぇ、恐らく。多額の借金があった事も解っていますし。ですから生き残った息子さんに事情をお聞きしたく』

そんな事は知らない。僕は病院のベッドの上で、霞んだ意識の中で聞いたのは幻聴だ。夢だ。真実なんかじゃない。

『彼は今そんな事が聞ける状態じゃありませんよ。外傷だけが全てじゃないんです』





「何もできないだろう?知りもしなかったのに、助けてやる事なんてできない……っ」

「灯駆―――」

だからみんな嫌いだ。

本当は僕の事を哀れんで嘲笑しているのに仮面を被って見えないようにして

卑怯じゃないか。

どうしてみんな仮面を被っているんだ?どうしてその下の顔を見せてくれないんだ?

だから被るんだ。僕だって被ってやるんだ。この下の哀れな顔を見せないように。優しい顔した能面で

「悲しいの?」

「え」

「何が悲しいの?あの子が死んじゃったこと?」

「―――――――」



「どうしてそんなに自分を隠しているの?」

少女は誰よりも清らかで

「泣いてもいいのよ?私も、悲しいわ」

誰よりも繊細で、仮面なんてものを被らずにそれでいて誰かの仮面の下をいとも簡単に覗いてしまう。



そうだ。僕は怖かった。

この少女に触れてしまうことが。この少女に触れられてしまうことが。

太陽のように暖かくて、醜い自分の細部まで照らされてしまう。

自分の弱いところまで、全部、全部。


そして羨ましかった。

僕の持ってない全ての物を持っている彼女。僕の一番ほしかったものを持っている彼女。

そしてやはり憎かった。

僕があんなにも欲しがっていたものなんて、彼女にとっては他愛も無い、小さな物としてしか機能していないことが。





「ごめんなさい」

「謝らなくていいわ。泣いてくれたら嬉しいもの」

いつの間にか自分が泣いている事に気付いた。少し僕ははにかむようにして両目をぬぐう。

「灯駆、私今度は犬がいいわ。大型犬」

「ドーベルマンでいいですか?」

「毛のふあふあしたのがいいの。ゴールデンレトリーバーとか。あ、柴犬でもいいわ。かわいい」

無理矢理に笑顔を作ってはしゃいだ。
それでも彼女は最後まで泣かなかった。

頭を一度だけ、撫でた。

「犬じゃないよ?私」

「お手」
















「灯駆、ちょっと待って……?」

ふっと我に返ると世界は白いままだった。
「あぁ、ごめんなさい。早く歩き過ぎましたね。大丈夫ですか?」

息を切らしながら、白い息を吐き二、三度頷く。こちらに向いた顔は青白さの中に赤みがかかった色。
少し遠出をしすぎたかもしれない・・・・・・

「もうすぐです。もうすぐですから」

「うん」

ひらりひらりと舞う粉雪は確実に僕らの体温を奪っていく。
けれど僕らは生きている。

化学反応を続け体温を保っていく。一定に。

僕らの距離も一定で、付かず離れず――――

それでも決して手は離さない。僕はあの時に、しっかりと決めたのだ。誓ったのだ。この幼い少女に。

その誓いを思い出すと





溶けない雪が、僕の頬をかすめた。







「ゆきっ」
それはほんの数日前。

「雛深様。お勉強中です」

「ゆきゆきゆき!!!」

参考書を放り出し上着も羽織らずに畳を力強く蹴って障子を開く。
そこは清浄で異常な白い世界。

音を喰らいしんしんと降り積もっていく―――

今頃には珍しい。少し遅すぎた雪だ。

雛深様をたしなめる事すら忘れて思わずその輝きに見入った。

「きれい。つめたい」

「お風邪を召しますよ?お着物を――――」

床にぺたりと座った雛深様に上着を羽織らせ、しばらく無言でその雪の白さに見とれていた。

「ねぇ、灯駆?」

「はい?」



「……雪は、なんで降るの?」

「冬だからです。気温が低くて」

「違う。そうじゃなくって」

声が少しだけ震えているのは

きっと、

気のせいだった

「どうせ溶けてしまうでしょう?降っているときはすごく嬉しいの。楽しいしきれいだし。

 けどね

 溶けてしまうじゃない。

 それが、だんだん大きくなるにつれて、悲しく感じてしまうの。



 子供の頃は、ね・・・・・・

 来年も、また・・・・・・見れるって思って。

 けど」

 
「雛深さま・・・・・・」

見上げるその瞳は、やわらかに濡れて、今にもこぼれそうだ。

「ねぇ、灯駆―――私、来年も、見られるかしら?灯駆と一緒に、見れる?」

「……」

僕には何も言えない。

雪は一時だけ降るからいいのだなんて。
すぐに溶けてしまうから美しいのだなんて。
その時の僕には、今の僕には、言えない。



「桜」

「え?」

「今年はもう桜が咲いているそうですよ?」

「そうなの?」

例年よりも今年は桜の開花時期が少し早くて、雪も春が近いというのにまだ降っている。

早く花が咲き、遅く雪が降る。

どちらもすこしずれていた、本来相容れないはずの二つが今年はめぐり合った。





「お花見を、しましょうか?」

少しだけ冷えた雛深様の手を握り、ゆっくりと微笑んで部屋に入った。

雛深様はまるで夢でも見ているかのように無表情に驚いていた――――









薄墨色のぼやけた空。

真っ白に輝く綿のような雪。



そして溶けない雪。






「灯駆―――これ」

薄桃色の

あわい花弁。





それが墨色と白の間を縫いながら舞って行く。

時折吹きぬける風の中を

雪の間を



さくらが



雛深様の掌に花びらが落ちる。


その花のような色を顔一杯に浮かべ

声にならない声で、まるで叫ぶように喜びを感じているようだった。

「桜・・・・・・桜!」

少し向こうにある桜の樹めがけて走り出す。

桜の花びらと戯れるようにして

幼い子供がするように

ひらり舞う花弁と一緒に、雛深さまも踊っていた。

ワルツでも舞踊でもなく本当に戯れるような踊り

くるり

くるり

くるり

くるり

ひらり

くるり

くるり

くるり
・・・
・・・
・・・
・・・
 

 
 
 
樹にたどり着くと、その表皮に手を当てる。
鼓動は聴こえないけれど、

自分の鼓動と一緒に脈打っているように感じていた。

見上げればコントラスト。荘厳に、けれど優しく。

母親の胸の中に居るような温かさ。

父の背に負ぶさるかのようなぬくもり

ほんの少しだけ彼女の体を温め、心を暖めた。

 

「灯駆。本当にありがとう」

僕は雛深様よりも少しさがって大樹を見上げていた。

「いえ、僕は雛深様に喜んでいただければそれで」

 

振り向いて、満面の笑みで

「私、この樹の下なら死んでもいいな」



「今なら、死んでもいい。

 灯駆がいて、桜の樹があって

 私を包んでくれるなら――――」

桜の樹に実を寄り添わせ、静かに目を閉じた。

「雛深様・・・・・・」

 

 

雪は降る。大地のあらゆる物を覆い隠すように。

桜は散る。その雪を包むように。

その二つも春を過ぎれば消えてなくなるのだろう。

けれどきっとここにある。

僕らが見えないだけで、それはこの地球にあるのだ。

 

雪は溶け、大地に身を沈め、陽の光を浴びて空に還り、また形を変えて地に戻る。

桜は地に還り、その土を豊かにする。淡い色をなくしても、穢れなく気高く。

 

雛深さまは、

きっと僕のこの仮面の下に。

使い古された言葉では「心の中に」





雪は降り、桜は散り、けれどまだ雛深様は明るい笑顔で樹に寄りかかっている。

時は永遠では無い。

移ろう。

だからこそ、僕はこの少女とこの景色が美しいのだと思える。

 

だからこそ、この時がもう少しだけ続けばいいと思った。










終幕。









感想を書く。

 

あとがき

 

 

 

 

 

 

 

 

トップへ。