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ちっちゃんのうた


 春の陽射しが、彼女の小さい背中の上をかすめていた。
私が学校から帰ると、小さな庭に続くガラス戸は開いたままで、そよそよとカーテンをゆらしていた。
その一見穏やかな光景も、すぐに嫌な予感に変わり、私は慌てて駆け寄った。
 いつもそこにいるはずの彼女の姿が見えない。ひやりとした様々な憶測が頭の中を交錯し、同時に最悪の事態への対処もいくつか用意できた。
 しかし、すぐに息をつく。
 彼女は大して広くはない我が家の庭にぽつんと丸まりながら何かをしているらしい。ときどき体が揺れ、そして虫が羽ばたくような声の歌が聞こえていた。
「ちっちゃん」
 私が彼女の名を呼ぶと、勢い良く首だけをこちらにむけ、その口を、くっと横に広げてみせる。
おかえり、と拙い口調が私を迎えた。
「なにしてるの?」
 ガラス戸に手をかけ、体重を預けながら庭を覗き込む。
すると、ちっちゃんはしゃがんだまま、私に向けて両手を差し出した。

その上には赤紫色の可憐な花が六本。
「わ、きれい。どうしたの?」
「そこに咲いてたの。おねえちゃんにあげる」
 私は壊れ物を扱うようにそっと三本の指でつまみ、顔のすぐ近くまで持ってきた。
それは母が毎日ちっちゃんの世話をする傍ら、庭の花壇で育てていた花だ。
お母さんしょぼくれるだろうなぁ、と思いながらも
「ありがとう。玄関に飾っておくね」
 満面の笑みで答えた。
「でもちっちゃん、お母さんがいない時に一人でお外に出ちゃだめって言われてるでしょ?」
 わかったよ、と気の無い返事をしながら大きく洟をすすった。
 良く見ればちっちゃんは裸足のまま庭を散策してたらしい。
そのまま部屋に上がろうとしていたちっちゃんをなだめ、もらった花をその場に置いてからタオルを取りに洗面所まで走る。

 洗面台に水が勢い良く流れる音が響く。よくタオルを水に馴染ませて、ぎゅっとしぼる。
別に何の意味があるわけではないが、ため息がこぼれた。

 お母さんでかけちゃったのかな。ちっちゃん一人置いていくなんて……。

蛇口をひねると、音が止んだ。
ごぼっと音を立てて排水溝が水を飲み込む。


 絞ったタオルを握り締め、風の吹く部屋まで急いだ。


 スローテンポのリズム。風がそよぐような声で、サッシのあたりに腰掛けながら歌を唄っていた。
土で汚れた足をぶらぶらと動かし、私の知らない歌をとろんとした表情で唄うその姿に、私はしばらく足を止めた。
 実の所、ちっちゃんの歌を聞くのがとても好きだった。
子守唄みたいに心地よいソプラノは、どれだけささくれ立った気分になっていても、春先の昼にうたたねをしているみたいにふわふわとした気持ちになれる。
その歌と春風とを感じながら目を瞑り、日々の喧騒から少し遠のいた。




 ちっちゃんは大きく洟をすする。
「ほら、ちっちゃん。足出して」
「ん」
 ちょこんと足をあげた。小さな指先を丁寧に拭きながら
「ちっちゃん、お歌じょうずね」と声をかけた。
 間を埋めるためではあったが、それは確かに私の本音だった。
「わたし大きくなったら歌手になるの」

 そう、と俯きながら左足をふく。白かったタオルが徐々に土色に変わっていく。
「ちっちゃんならきっとなれる」
 ちっちゃんは花を一本手に取り、それを見ながらはにかんだ。そして再び小さく唄いだす。
その目は遠い未来を眺めているように思えた。
 幸せそうなちっちゃんの顔とは裏腹に、私の体の真ん中がきゅっと切なくなった。

「ほら、ちっちゃん。そろそろ上がろう」
「うん」
 ちっちゃんの、花の茎のような手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。
「また今度お歌聞かせてね」
「うん。いいよ」



「ああそうだ、佳代子ちゃん。冷蔵庫に寒天が入っているの。おやつに食べなさい」
「うんわかった」
「私はさっき食べたから、残りの、全部食べちゃっていいのよ。佳代子ちゃん寒天大好きだものね」
「ありがとう」
 私は手を放して、自分の部屋へ着替えに行くことにした。





 フルーツの入った寒天をほお張っていると、ただいま、と玄関から声がした。
居間から私が顔を出すと母は「あら、あんた帰ってたの?」と何を悪びれる風も無く言った。
「帰ってたのじゃないよ」
 私は精一杯の不満を体中からかき集めて抗議の表情を作り出す。
「あら、このお花」
 玄関には先ほどの花が活けてある。玄関に飾ったのは半分母への嫌がらせのつもりもあった。
「おばあちゃん、裸足で外に出ちゃったんだよ」
「いやぁだ。これ摘んじゃったの?あーあ、せっかく咲いたのに」
「お母さん、おばあちゃん一人にするの危ないってわかってんの?
 転んで頭打ったりとかしたらどうすんのよ。あたしが早く帰ってきたから良いものの……」
 それでもお母さんはごめんごめん、と笑っていた。
「本当にちゃんと見てないと危ないよ」
「ちょっと近くに買い物行ってきただけでしょ。
 それにつきっきりでなんていられないわよ」
 確かにそうだけど、と口ごもっていると、お母さんはさっさと台所へ荷物を置きに行った。
途中に座っていたちっちゃんに「今日、けんちん汁作ってあげるから、待っててね」と言い残して。


 ちっちゃんは私の祖母で、老人性痴呆症という問題を抱えている。
私は問題だとは思っていないけれど、病気と呼ぶのは少し気が引けるし、他に言いようが無いので便宜的にそう言わせてもらっている。

 そのお陰で今年で七十九になるというのに、彼女の中では五歳程度という設定になっているらしい。
私を姉と呼び、嫁を母と呼び、息子(私の父)を兄と呼ぶ。

 けれど唐突に本来の年齢に戻ったりするので最初のうちは戸惑った。自分はからかわれているんじゃないだろうか、
今までのはほんの冗談だったのではないか、と思わされたが、今ではこちら側のスイッチも巧みに切り替えることが出来るようになってしまった。


 祖母はかつて、有名とまでは行かないものの数枚のレコードを出せるほどの歌手だったらしい。
彼女の夢は確かに叶った。けれどこれから先の未来で叶うことは決して無い。
のこされた時間は五歳の彼女にとって、絶望的に短い。そんな限られた時間の中で未来を夢見る彼女の瞳は、
どんな高価な宝石よりも美しく見える。
死を全く知らないものの瞳だ。


 よく祖母の話をすると「大変ね」といわれるが、そんな事は決して無かった。
現状を見れば誰もが嘆くかもしれない。不憫だと思うかもしれない。


けれど私は、祖母がとても幸せそうな顔をしているようにしか見えないのだ。

 そしてちっちゃんは歌を唄う。
何を憂うでもなく、意味を追求するでもなく、ただその行為が楽しいと、純粋に唄う。







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 下校途中にすれ違った、きれいな花を持って虚ろな目の小さいおばあさんがあまりに印象的で、
家に帰って二、三時間ぐらいで書き上げた作品です。

 そのおばあさんは別に痴呆がどうのとかじゃないと思うんですが、
子供に還ったおばあさんを子供みたいに描写して、読んでる人を騙せたら面白そうだなぁという。

騙すだけなら最後の方は不要だと思ったのですが、読み手を騙すだけのために扱って良い問題ではなかったので付け加える事にしました。