ハナミチ 10




 目が痛くなるほど真っ白なワイシャツと濃紺のジーンズを穿き、モスグリーンのエプロンをつけた細身の男性が立っていた。
 顔は純朴な田舎の青年といった、日に当てたふとんのようにやわらかい印象だった。しかしどこか知性を感じさせる鋭さが見え隠れしている。
 目がすごく大きい。
「すごいなぁ。まだ若いのにこんな絵が描けるなんて」
「……はぁ」
 黒と赤をベースに荒々しいタッチで描いたそれをしげしげと眺め続ける彼の顔を下から見上げる私は、釈然としない気持に首をかしげる。
 自分が描いた作品をじっくり見直したことなどない。けれど見直したところで結局それが本当に良い物なのかどうかは今ひとつ怪しいものがある。
「これが?」
「うん」
「……そうですかね」
「うん」

 そう言ったきり彼はまるで石像になってしまったかのように微動だにしなくなった。
 今までじっくりと(しかも嫌悪感を抱かれず)作品を眺めてもらった事はないので、自分の服の下を覗かれているような羞恥心が頬を紅に染めた。
「そんなに見ないでくれません?」
「あ、俺スエマツヒロミって言います。ここの講師」
「は?」
「きみは?」

「……汐見花枝です」
 ぱっと顔を明るくするとそのスエマツヒロミという人は口元をほころばせた。
 さっきの鋭い真剣さからは連想できないほどに優しそうな顔だ。
「ハナエちゃん?へぇ。どういう字をあてるの?森英恵の英恵かな?」
 森英恵って知ってる?と森英恵の説明をしそうになるのを遮るように
「いえ、花に枝って書いて『花枝』です」
 と慌てて言った。するとどうだろう。また彼は満足そうに微笑んだ。
 この人は、どうして笑っているのだろう。
「花枝ちゃん。描く絵に似合わずかわいらしい名前だなぁ」
「…………」
 あれ。
「よく、言われます」
 何で。

 私はどんな事よりも自分の名前を他人に呼ばれることが大嫌いだった。
「でも良い名前じゃない」
「はぁ」
 こんな自分には不釣合いな名前だと、ずっとずっと忌み嫌ってきた。

「花枝ちゃん」
「……」
 それなのに


 どうしてこの人が私の名前を呼ぶと、こんなにも心地よく胸に響くのだろう。

 けれどその時の私は、ただ彼が自分の描いた絵を認めてくれたことが嬉しくて、その奥で芽を出した気持ちには気付かずにいた。



 『先生』は教室で講師をやっているがまだ大学生で、彼もまた勉強中なわけだけれど、私は末松博巳を『先生』と呼び続けた。かれにはその『先生』という呼び名がすごく相応しい。
 そう書くとまるで夏目漱石の「こころ」のようで嫌だけれど、当時の私はその作品をまともに読んだ事がなかったし、あまつさえ先生と教え子の危うい関係を描いた純愛小説だと思っていたのだから その事を気に留める余地などないのだった。

 彼は私の描く絵を褒め続けた。
 色遣いだとか、力強さだとか、そんな自分にとっては身に覚えの無い事ばかりを褒められたので、あまり実感は湧かなかったけれど彼は私の絵を好きだといってくれた。
「才能あるよ、キミ」
「はぁ」
 慣れない。
 褒められることに慣れていない私は、彼の称賛に対してどう返事をすればよいのかわからず、眉をひそめる事ぐらいしかできずにいた。
 けれど、そこまで嫌ではない。
 最初は彼の距離の詰め方がすごく苦手だった。純朴そうな雰囲気で無遠慮にぐんと近づいてくる。けれど作品を見る瞳だけは身震いを起こしそうに冷たくて。
 そんな先生の描く絵はまさしく彼そのものを表していた。
 先生の作品は風景画が多くて、全体的な印象として緑と青が目立つ。だから先生を連想させる色は常に草の緑と空の青だった。
 当時風景画などほとんど描いた事が無い私はその絵にぐいぐいと惹かれていった。

「いいな。あたしもこんな絵を描きたい」
 先生が絵を描く様子を眺めながら思わずそう洩らした事がある。
 私は先生にずいぶん気に入られたらしく、他の生徒よりも直接指導してもらうことが多かったし、彼自身の制作を見学させてもらうこともあった。
 特別だと思っていた。

「君はこんな絵を描いちゃだめだよ」

 だって彼のこんな表情、二人きりの時以外、見た事が無いもの。




 私が先生の事を好きだと気付いてから、世界は一転した。
 彼の事を想うだけで大概の嫌な事は払拭されたし、家も学校も大嫌いなのは変わり無かったけれど、美術教室に行けば先生が温かく迎え入れてくれる。
 それだけが、当時の私の支えだった。

 だけれど、心の奥ではいつも震えていた。

 幸せとは、いつまで続いてくれるのだろう。

 私にとっての幸せは彼がそばに居てくれること、つまり自分の絵を褒め続けてもらうこと。
 もしもそれが続かなかったらば


 その言葉の続きに何が来るのか、自分でも考えられず、ただひたすらに彼に好かれようと努めた。
 楽しいかどうかなんて問題じゃない。ストレスがどうのなんて言っていられない。
 ただ彼に褒めて欲しくて褒めて欲しくて褒めて欲しくて……。
 怯えながら絵筆を取っていた。


 今なら分かるよ。私は自分で破滅への道を選んでいたんだって。


「田宮聞いてる?」
 田宮はひたすらにプリントを折っていた。
「聞いてるよ。それで?」







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