ハナミチ 11




「先生、あたし高校は美術コースがあるところに行こうと思ってるんだ」
 今までは漠然とさえ考えた事の無かった進路だったが、進路希望調査票をもらってから帰る頃には既に決まっていた。
 美術の事を勉強したかったっていうのもあるけれど、そういう道に進めば先生と居られる時間はもっと長くなると思っての事だ。
「だから先生、色々教えてよ」
「いや、別にそれは構わないんだけど」
 喜んでくれると思ったのに、どうやら先生はあんまり嬉しくは思ってないように見えた。
「だけど?」
「それはちょっと早いんじゃないかな。美術の勉強をするんだったら大学に入ってからでも十分だし、逆に君の可能性を狭める事になるよ。 今は広く教養を身に付けた方がいい」
「……先生はこの教室の先生でしょ? 教えて欲しいっていう生徒を教えるために居るんじゃないの?」
「講師だけどね」
「ほとんど先生よ」
「まぁ」
「だったらあたしが決めた事に口出さないで。それともあたしに教えるのは嫌?」
 少し卑怯な言い方だったかもしれない。けど、それしか方法は無いのだ。
「わかった。俺に出来る範囲で付き合うよ」
 渋々。

 私の中の不安は確実に根を伸ばしていく。


 それと同じ頃だ。彼が私の絵をあまり褒めてくれなくなった。
「どう、かな」
「うーん」
 絵を見せた瞬間の表情の曇りはほんの刹那ではあったけれど、それを見落とすほど間は抜けていない。
「悪くは無いと思うよ。でも、ちょっと勢いが足りないかな」
「勢い」
「そ。んー、君はもっとこう、情熱的な絵を描くと良いんじゃないかな」
「情熱的」
 頭の中で反芻する。勢いがあって情熱的で。そんな絵を先生は求めている?
 なら描いてやろうと思った。貴方が望むならどんな絵でも描いてみせよう。すぐさま制作に取り掛かった。

 私に出来る事と言ったらそんな事しかなかったのだ。

 制作は素描の練習の合間に取り組んだ。学校の勉強もそこそこに、来る日も来る日も狂ったように絵を描き続けた。
 頭の中にあるのは彼の事だけ。

 何枚も描いた。手が千切れてしまうほど絵筆を握り続けた。

「うーん」
 それでも彼は唸る。むしろ描く度その顔は霞むほどに曇っていく。
「うん。悪くはない」
「……」
「でもなんていうのかな。うん」
「わかったよ」
 すっと絵を取り返したのは私ではなく他の人の手だった。
「へぇ。これがセンパイのお弟子さんが描いた作品かー」
「こら」
 この人は確か教室の生徒だったか。あまりに唐突に現れたので私は口をあんぐり開けているだけだった。
「別に弟子ってわけじゃない」
「綺麗な絵じゃん。センパイはこれの何が気に食わないんで?」
 あんたに褒められたってちっとも嬉しくない。
「気に入らないってわけじゃないよ。つか、お前は早く自分の作品でも描いてろ」
「へぇへぇ。わかりました。 えーと花枝ちゃんだっけ。まぁ頑張ってくれ」
「どうも」
 やはり先生以外に下の名前を呼ばれるのはどうにも心地の良いものではなかった。
 奪い取るように絵を掴んだ。




「あの人、誰ですか? なんか妙に馴れ馴れしかったですけど」
「うん?ああ。牧田。一応ここの生徒なんだけど、大学の後輩なんだ」
「ふーん」
「口は悪いけど、気にしないでよ」
「でも先生が気に入ってないのは事実でしょ」
「おいおい」
 気に入らないなら気に入るといってくれるまで描けばいい。好きだと聞くまで諦めるもんか。



 そこまで言うと田宮が口を挟んだ。
「熱血漢なオトメなわけだ」
「なんか矛盾してない?それ」
 まあいいじゃん、と花枝に大きな折鶴を放り投げた。



 次第に気付き始めた。私は絵を描いているのではない。これはある種の恋文なのだ。
 貴方の事が好きですというメッセージを込めた、この気持ちに気付いてくださいと描かれている大きな大きなラブレター。

 しかしながら何枚あげても彼は答えてくれない。受け入れないというのが答えなのかもしれないけど、そんな事は考えたくなかった。
 茶を濁し、曖昧にごまかす。


 ラブレターだと言うのならば実際に自分の気持ちを込めてみたらどうか。
 モチーフは何にしよう。どんなメッセージを込めよう。顔に似合わないオトメな事を実際やっていたものだ。
 中学二年だもの。誰しも恋という媚薬を注ぎ込まれたらとたんに変わってしまう。それはもはや自分の意思では止められないほど強く体を支配する。

 全身全霊を込めて、恋文を描く。
 貴方の事が大好きです。貴方のお陰で私の毎日は変わりました。貴方が居るから私は苦しみから解き放たれました。
 貴方の事が大好きです。



 自分の家で制作していたから教室には一週間ほど行かなかった。
 一週間も会っていないのに、今までよりもリアルにあの人の事を思い出すことが出来ていた。
 笑顔も声も呼吸する音も真剣なまなざしも。

 気付いて欲しい。受け止めて欲しい。
 告白なんてしたらもしかして今の関係は崩れてしまうかもしれない、そんな事は考えなかった。
 自分の思いの全てを打ち明ければ、きっと





 完成したのは窓の外に橙色の気配を感じ始めた時間帯だった。
 今までのどの作品よりも良い出来栄えだ。あの人に出会う前に描いた絵からは自分でも想像がつかない。
 行こう。
 明日になったら、なんて悠長な事は言っていられない。クリスマスプレゼントを見つけてしまった子供がプレゼントを開けずにクリスマスを待てようものか?
 急いで支度して家を飛び出した。心臓と同じリズムで駆け出して行く。

 あの日の喜びに満ちた夕空を、私は一生忘れる事は無いだろう。



 先生がいつも自分の作品を描いている部屋は主に生徒が使っている教室から少し離れていて、普段から人の気配が少ない所だった。

 驚かせようと思ってなるべく足音を立てないよう、そろりと教室に向かった。
 ドアが少し開いており、そこから橙色の帯が伸びていた。
 先生がそこに居る。


 「   」
 「    」
 「   」
 声?


 誰かと一緒にいるのか。そうだとしたらその人物が去るのを待ってから渡したい。

 光に満ちているであろうその部屋をそっと覗いた。


 ずきん



 心臓が潰れた。


 逆光の中に浮かぶ影は一つだけに見えた。一人分の影が殺風景な教室の中にじっと立っている。

 けれどすぐに分かった。その影は二つ分。
「おいおい、今日はずいぶん甘えただなあ」
「たまにはいいじゃん」
「俺は別にいつでもいいんだけどさ」

 先生はこの前の『後輩』と抱きあっていた。
 体を密着させ、その体に腕を巻きつけ。そして、音が聞こえそうなほどに激しく唇を重ねていた。

 頭の中がぼんやりとしてきて、それはまるで映画でも観ているような感覚だった。
「ふふふ」
 あの人が、艶っぽく微笑みをこぼした。
 彼女の中の女性を、先生の中の男性を、なんのフィルターも通すことなく目撃してしまった私は目を覆うこともできない。
 男の人と女の人のそんな情事など初めて見た事自体ショッキングだったのに、それが自分の一番愛した人だったなんて。

 けれど橙色のスポットライトを浴びた二人は、夕陽に負けないほど輝いて見えた。
 何故自分はこんな薄暗い場所に立っているのだろう。
 何故カンバスなんて持ってぼんやり立っているのだろう。
 何て惨めな姿だ。

 先生は私に背を向けていたので、彼女が先生に抱き付くと必然的に彼女はドアの方に顔が向く。
 目が、合った。
 彼女は驚いて目を見張る仕草も見せない。
「ねぇ、私のこと好き?」
 先生から体を少しだけ離した。
「なんだよ。いきなりだな」
「たまにはいいじゃない。言ってよ」
「二人っきりになると急にしおらしくなるんだからなぁ」
 そこには幸せが潜んでいる。私がずっと望んでいた幸せの形が、一番大好きな人の隣が私ではないという一点を除けば完璧な幸せの形が在った。
「好きだよ。大好きだ」
 何故その言葉が私に向けられる事は無かったんだろう。先生は私を背にして、彼女に愛を囁いた。
「ふふふ」
 再び先生に抱き付く。彼女の瞳には勝利の色に染まっていった。女特有の、どろろとした感情が伝播する。
「君の描く絵はすごく深くて素敵なんだ」
「ん?絵だけ?」
「もちろん君も」
「そんな事言ってるけど、あの娘の絵がお気に入りだったみたいじゃない」
「あのこ?」
「花枝ちゃん」
 質問は私を意識しての事だろう。先生の口から言わせたいのだ。
「あの娘のこと口説いたんでしょ?『君の絵は美しい! 素晴らしい!』ってさ」
「口説いてなんかいないよ。それにあの子、中二だろ? 俺にそんな趣味は無いよ」
「でも花枝ちゃんは博巳のこと、好きよ」
「おいおいやめろよ」
 彼女は博巳、と呼んだ。博巳、末松博巳。私は末松博巳の事を何と呼んでいたか。
 所詮私は彼と先生と生徒という関係しか築き上げる事は出来なかった。ずっとずっと最初からあの女に負けていたのだ。
「あの子の絵は好きだったけど。別に彼女の事を好きだったわけじゃない」

「君が一番だよ」
「嬉しい」

 その後のやり取りもしばらく聞こえた。
 嫉妬してたの?とか君だけだよ、とか多分そんな内容の言葉で。

 けれどもう私は影よりも暗い闇のどん底まで落ちきって、一切を拒絶していた。
 覚えているのは見慣れているはずの先生の背中と、勝ち誇った女の笑み。

 あの日の絶望に染め上げた夕陽を、私は一生忘れる事はできないだろう。

 駆け下りた。
 気付けば長い階段を必死に駆け下りていた。
 その手に何も持たず、駆け下りる。

 無意識に流れる涙は苦い。
 涙をこぼした。そして手に持っていた恋文も、大切にしていた何かもがぽろぽろと落ちていく。
 頭の中に木霊する声は止まず、喧騒の中にいるようだった。
 先生の事で一杯だったはずの私の心には次々と薄ら寒い罵りの言葉と嘆きがなだれ込んできていた。
 悲しみなどという言葉で表す事の出来ない感情。

 走ってるうちにぐにゃりと視界が歪み、天が逆さまになった。

「あ」


 思わず手をつこうとして。



 べき。











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