ハナミチ 12




 田宮の紙を折る手は止まっていた。語り手の花枝としてはいっそ嬉しいほど、悲劇に衝撃を覚えたらしい。いたたまれないような瞳でじっと花枝を見つめる。

「階段から落ちて、この左手を折った」
 左手は花枝の利き手。彼女の命と直結している手だ。
「あれは痛いなんてもんじゃなかった。けれど何としてもそこから離れなきゃならなかったから」
 田宮は今にも泣きそうだ。
「そのまま家に帰った」

 焼けるような痛みを持つ左手と朦朧とする頭を抱えながら家に戻れたことは奇跡に近いと思う。
 痛みは尋常ではなかったが、花枝にとっては唯一の救いでもあった。
「部屋の中でじっと痛みに耐えたんだ。もう痛くて痛くて変な汗は出たし、吐きそうになった。でも痛みのお陰で他の事は全く考えることが出来なかった。 それが、すごく嬉しかった」
「…………」
「結局母親に見つかって、すぐ病院に連れて行かれた。そしたら腱を傷つけたみたいでさ。それって絵描きとしては絶望的なわけよ」

「病院でのあたしは、本当に、悲惨だった」
 息をするのが苦しくなってきた。一番辛い時期の記憶を掘り起こすのは、想像以上の苦痛を伴う。出来る事なら忘れてしまいたかったのに。
「無理に話さなくても良いよ。ゆっくり、話してくれれば」
「大丈夫」
 全てを話すと決めていた。ちゃんと田宮には話そう、と。どれだけ辛くても、それは田宮に対しての償いでもあるのだから。
「痛みが消されたあたしを襲ったのは押さえ切れ無い程の自己嫌悪とそれに伴う自殺衝動だった」



 私を壊した決定打は先生が面会に来てくれた事。
 消毒液の匂いがする個室の中で、私と先生はどうにも重苦しい空気をじっと生産し続けた。
「怪我、残念だったね」
「元々右も使えるから、別に不自由なことはありません」
 心配なんてして無いくせに。あたしのことなんてどうでも良いくせに。本当はあの人の事が好きなくせに。あたしのことなんか眼中にないくせに。
「あの、やっぱり、あの日。教室に来てたのかな」
「はい」
「それで、僕らの」
「先生。あたし、高校は普通のところに進む事にしましたから」
 窓の外の明るい空を見ながら言う。先生の顔を見る事は出来ない。
「それを、言いに行こうと思ってたんです」

「そうなんだ……」
 意外。そういう意味合いを込めた台詞だ。けれどもしかしたらほっと胸を撫で下ろしているのかもしれない。邪魔者はいなくなる。煩わしい子守りもしなくていい。きっとそう思っているに違いない。
「そうか。でも趣味として続けていけばいい。美大に進むつもりがあるなら教室を続けて」
「いえ、絵はもうやめるつもりです。あの絵が最後です」

「見てくれましたか?」
「あぁ、うん。良かったと思うよ。技術的なレベルでは相当良くなってる」
 自分の中に空洞が広がっていく。
「別に本当の事言って大丈夫ですよ」
 技術だとかそんな事を聞いているんじゃないのに。
「才能無いのは分かってますから」
「才能が無いっていうわけじゃない。君はもっと頑張ればきっともっと上手くなる」
 ねぇ先生、上手くなったからってどうだって言うんですか。好きな人から褒められる事が私の絵を描く理由だったのに、続けて行く事に何の意味があるのですか。
 他の誰に褒められたって嬉しくない。ただ、貴方だけに認めて欲しかったのに。
 この想いを受け止めて欲しかったのに。
 私の想いはおろか、私の存在すら否定した貴方だというのに、どうしてこんな残酷な事を言うのですか。


「もういいです」
「花枝ちゃん」
「具合悪いので、もう出て行ってもらえませんか」
「………………」
 貴方が求めたのは自分が大嫌いだった頃の私。この世界に存在する全てを否定し続けた私。醜い顔をした私を、いや、私の絵を求めた。

 本当は薄々気付いていた。私と先生は結局教える者と教わる者という関係から先に進む事は決してないのだということは。
 それでも私の心を映した絵を好きだと言ってくれるのなら満足できたのに。

 あの人の求める絵はもう描けない。恋を知ってしまった私にはもう扱うことが出来ない魔法なのだ。
 なら、私が絵を描く意味なんて、もうどこにもない。
 なら、私が生きていく理由なんて、もうどこにも無い。


「摂るものも摂らず、壊れたように暴れた。頭を壁にぶつけてみたり、喉を掻き切ろうとしたり、物を壊したり。一刻も早く死ななきゃっていう衝動は自分でもどうしようもなかった」

「わかるか?誰もが沢山の誰かと強くて太い関係線で結ばれているのに、自分は脆弱な線すら無いってことの心細さ」
 それはつまり、死んでいる事と同義だ。
「今までは誰とも繋がってなくたって平気だと思ってたけど、一度誰かとの繋がり知ってしまったら、孤独には耐えられない」

「馬鹿だって思うだろ。たかだか失恋ぐらいで死のうとするなんて」
「そんなこと……ないよ」
「初めてあたしの事を受け入れてくれた、って思ってたんだ。あたしの事褒めてくれた人なんて今まで一人も居ないかったから。 あたしの居場所をようやく見つけた。こんなあたしでも」



「生きてて良いんだって」







「死の衝動を超えると、そこには死じゃなくて虚無があった。変な話だよな。死ぬことも面倒だなんてさ」

「左手も日常生活に支障をきたすほどの事は無かった。けど絵筆だけはどうしても握れなかった」
「それが、左手の呪い?」
「ああ」

「その穴を埋めるみたいに勉強しまくって、近くで一番難しい高校に入学した。そして、今に至るわけだよ」







 全てを語り終えた花枝は力なくうな垂れた。
「花枝ちゃん……」
「その名前も、あの人だけが呼んでた名前だから。思い出して嫌なんだ」
「花枝ちゃん」
 断固たる意思を込めて田宮は花枝の忌まわしき名を呼ぶ。
「だから」
「そんなんだからダメなんだよ。そんな中途半端な逃げ方していじけて」
「田宮?」
「私は花枝ちゃんの事花枝ちゃんって呼ぶから。ずっと呼び続ける」

 彼女は太陽だ。

「そしたら、その人よりも私のこと思い出すでしょ」
「……田宮」
「絵だって沢山描きなよ。そんな誰かのためとか考えないで、自分の描きたい物描けば良いんだよ」
 彼女が愛した人々全てを温かく照らす。
「嫌な思い出は塗りつぶせばいいじゃない。ほとんど見えなくなるくらい塗りつぶしたら苦笑いすればいい」

「ほら、これあげる」
 田宮は大きな紙飛行機を花枝に差し出した。
 見た目よりも案外しっかりとした作りの飛行機だ。
「私さ、紙飛行機飛んでくとこ見るの好きなんだよ。上手く飛ぶと嬉しくない?」
「……」
 田宮は立ち上がって窓の桟に左手をつき、振りかぶって紙飛行機を外へと投げた。
 真っ白な紙飛行機がまっすぐに、一直線に青い空に吸い込まれていった。
 そして風に乗り、どこかへと消えていく。それが、なんとも言えぬ美しさを持っていた。
「ほら、花枝ちゃんも」
「……うん」

 まっすぐ飛ぶだろうか。田宮が飛ばしたように迷いも何も無く、飛ばせる事が出来るのだろうか。
「大丈夫だよ」

「花枝ちゃんならきっと、うまくやれる」

 腕を引き、目線はまっすぐ向けて、頭の中でイメージする。白い紙飛行機がしゅ、っとまっすぐに飛んでいくのだ。
 力は入れない。優しく、押すように

 飛ばす。

「おー」
「飛んだ」
 田宮のようには気持ちよく飛ばなかった。なんとも不恰好に、蛇行しながら飛んでいく。
「花枝ちゃん、飛んだね!」
「うん。飛んだ」
 それでも、花枝の飛行機は飛んだ。格好悪くても、情けなくても、ちゃんと飛ぶ事が出来たのだ。
「もっと飛ばそう。きれいに真っ直ぐ飛ぶまでたくさん飛ばそう」
「うん、まだあの紙あるかな?」
 教卓の下にもぐりこんで紙を探す田宮を見ながら大きく洟をすすった。

「田宮」
「うん?」

「ありがとう」

「どういたしまして」







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*おまけ*
本編とは関係ありません。

「部屋の中でじっと痛みに耐えたんだ。もう痛くて痛くて変な汗は出たし、吐きそうになった。でも痛みのお陰で他の事は全く考えることが出来なかった。 それが、すごく嬉しかった」
「…………」

「花枝ちゃん」
「ん?」
「それって、マゾ?」


「結局母親に見つかって、すぐ病院に連れて行かれた。そしたら腱を傷つけたみたいでさ。それって絵描きとしては絶望的なわけよ」
「ねぇ花枝ちゃん、それマゾ?ねぇ。花枝ちゃんマゾだったの?」
「病院でのあたしは」
「痛いの好きなの?ムチとか?熱いのは?」
「本当に」
「すごいね。ろうそくとか使っちゃうの?」
「悲惨だった」
「花枝ちゃんってサディストっぽいけど実はマゾヒストだったんだね」



「田宮」
「うん」




「すごく、違う」
「……違うの?」