ハナミチ 13





 今私は何をするべきか。
 今私に出来る事は何か。
 いや、
 今私がしたい事は何か。

 もう迷う事なんて無い。
 私がすべき事はただ一つ。




「先生」
 賑わいをみせる昼休みの廊下で、彼女の声が暮凪の首を後ろに回す。
「先生、今日も花枝ちゃん休みなんですか」
 花枝は始業式の次の日から三日間ずっと休んでいた。
 暮凪はあの落ち込みようからして学校に来たくないのだろう、と察していたが、その後の事情を知っている田宮としては理由が見えないのだ。
「一応連絡では病欠っていうことになっているんだけど」
「病気ならそれはそれでいいんですけど。何やってるのかな。帰りは元気だったのに」
「……もしかして、田宮君がうまくやってくれたのかい」
 暮凪も彼女がそこまで早く事を進ませてくれるとは思いもしなかった。田宮は照れ笑いのように首をすくめ、努めて自慢げに聞こえないように「どうかな」と言った。
「私は少し話を聞いてあげて、ちょっと言いたい事言って、それで紙飛行機を飛ばしただけです」
「紙飛行機?」
「紙飛行機」

 せわしない学期の始まりに反して、二人の間にゆるやかな時間が流れてゆく。
「先生、今日も先生の所でお弁当食べても良いですか?」
 臙脂色の包みに包まったお弁当を胸に、愛想を振りまく。二人は教師と生徒というよりも親子のような雰囲気だ。暮凪はどうあしらって良いのか分からずアンバランスな笑顔でちょっとだけ身を引いた。
「僕はいいんだけど。やっぱり、クラスだと食べづらい?」
 ろうそくの炎を消したように笑顔が引き、
「私は別にいいんです。でも、なんか一人で食べてるとかわいそーみたいな雰囲気ってあるじゃないですか」
「そうだね」
「私は寂しくないのに、寂しいんだって思われるのが嫌だから」
「そうか。じゃあおいで。お茶くらい淹れてあげるよ」
 満足げに笑う田宮の表情を見て、職員棟へ向かった。








 昼休みは僕にとって安息の時間だ。特に金曜日というのは午前中ずっと授業が入っているのでどっと疲れがやってくる。
 コーヒーを淹れて、準備室のソファに沈む。
 あまりに疲れていたので、テーブルの上のコーヒーから湯気が立ち上る様を見ながらうつらうつらとしてしまった。
 放送の音楽も良いBGMだ。

 と、そんな安らかなひと時を無粋な呼び出しのチャイムが流れ始めた。僕の事を呼んでいる。客? 僕なんかになんだろう。

 眠い目をこすりながら立ち上がり、事務室の方に向かう。


 客人を見て、僕の目は完全に覚めた。
 意志の強い瞳に、いまどき珍しい膝丈のスカート。
 三年と言う歳月が彼女をずっと大人に近づけていたらしい。
「お久しぶりです」
 一礼するとうなじ程までの長さのポニーテールが揺れた。

「花枝ちゃん?」
 汐見花枝がそこに立っていた。



 花枝は美術準備室に通された。見知らぬ学校の見知らぬ教室はとてもよそよそしく、末松と花枝の距離を遠く感じさせる。しかし一つだけ見知ったものがあった。
 あの日廊下に残してきたあの絵が壁にかけてあった。
「久しぶり、だね」
「はい」
 椅子につくなり様子を伺うように花枝に語りかけてきた。
「暮凪先生に聞いたのかい?」
 静かに頷く。
 ふと、花枝は彼の左手にシルバーのリングがはめられていることに気付いた。
「ご結婚、なされたんですね」
「あ。あぁ。うん」
 あまり触れない方が良いかもしれない、と花枝は察した。
 相手は容易に想像できるが、彼としても答えにくい質問だろう。
「元気だった?」
「肉体的には万全です」
「そう」

「今日は、どうしたの? 学校は?」
 制服を着ている事が気になった。試験がある時期ではないし、この時間帯に来るとは、若干不自然な感じが否めなかった。
「先生に会いに来ました」
 花枝の背筋はしゃんと伸び、まるで結婚でも申し込みに来たように厳粛だった。
 こんなにまっすぐ人と向かい合うような子だったろうか?と末松は少しだけ戸惑う。
「どうして?」
 そっと懐かしの絵に視線を向けながら
「あの絵、取っておいてくれてたんですね」
「うん。将来有望な作家の卵、最後の作品だっていうから、ね」
 半分冗談のつもりでそう言ったがくすりとも笑ってくれなかった。

「先生。私わかったんです」
「うん」
「先生がどうして、私の絵を好きだと言ってくれなくなったのかって」
 末松にとっては遠い昔の事のように思えた。忙しい毎日に溺れ、そんな小さな事は思い出す隙間もなかったのだ。
 連絡を取れなくなった彼女の事に関して心配していたのは事実だが、もし暮凪と会う事がなければ彼女を積極的に追求する事も無く、釈然としない気持ちを片隅に捨て置いて生活を送っていた事だろう。
 静かに相槌を打つ。
「先生」


「先生、私は先生の事が好きでした」
「…………」
 一瞬心臓が大きく跳ねたが、すぐ落ち着きを取り戻す。

 しかしはっと気付いた。
 『でも、花枝ちゃんは博巳のこと、好きよ』
 もしあのやり取りを彼女が聞いていたのだとしたら
 今まで釈然としなかった何かが三年の歳月を経て繋がった。
 同時に自分のうかつさと鈍感さが呪わしくなった。
「先生に好きだって言って欲しくて、先生に好かれようってことだけを考えて絵を描いていました。自分らしさとか絵を描く楽しみとか、描きたいって思って描いてなかった」
 顔を上げる。しっかりと彼を見据えていた。
「他人に媚びるような絵なんて気に入ってもらえるわけないんです。上っ面だけじゃ、だめだって、あの時は気付けなかった」
 花枝は思わず視線を落とす。真っ直ぐに向きあって話そうと努めていたが、どうしても辛くなって俯いてしまった。
 
「自分の気持ちを一方的に押し付けてたんです。独りよがりで突っ走って。それで受け取ってくれなかったからって拗ねて」
 子供だったんですよ。
 俯きながらも声を振り絞る。
 そんな花枝の様子は見るに耐えられず、思わず声をかけた。
「花枝ちゃん。もういいよ。それに悪いのは俺だろ」
「違う。違うんです。先生は全然、悪くない」

「私は、先生の事が好きでした」
「…………」
「ちゃんと言っておきたかったんです。あんな形での失恋じゃなくて、ちゃんと私の気持ちを伝えたかった」
 俯いてはいられない。俯いていたら結局また逃げる事になってしまう。
 花枝は顔を上げた。
「先生、私本当に嬉しかったんです。例え先生が大した意味も無く言った言葉でも、先生が私の絵を見て『好きだ』って言ってくれて」

 先生、と優しく語り掛ける。苦しみから解き放たれた声色は、なんとも言えぬ甘い響きを持っていた。
「私はまだ先生の事が好きです」

 末松は何と答えるべきなのか迷ってしまった。当然彼自身に付き合おうなどという感情はひとかけらも無かったが、この真摯な想いに対してどう返せば良いのか分からない。
 三年間引き伸ばしてきた答えを、どう言えばいいのか。
「そんな顔しないで下さい」
 見かねた花枝が笑いかけた。
「付き合いたいとかは思っていません。先生には奥さんも居るし、もし居なかったとしてもそんな気はありませんでした」
「じゃあ」
 じゃあ、何なのだろう。
 彼女は何を求めてここにやってきた?

「今日はこの絵を渡しに来たんです」
 花枝は一枚の絵を取り出した。
 学校を休んで、全身全霊を込めて描いた絵だ。
 どうしても描かずにはいられなくなった絵だ。
「これ」
 一人の少女が青い海の中に立っている絵だった。それだけ言うと死を決して海の中へ入ろうとしているように取れるが、この絵からはそんな陰鬱な雰囲気は微塵も無い。
 少女の濡れた姿からも海から上がったのだということは分かる。しかしそれだけではなく、この絵からは生命力が満ち溢れている。
 海や空の青み、少女のノースリーブから出る腕の線、黒髪から滴る水、そして強い陽射し。全てが生命力に充ち溢れている。

 その少女の姿はどこかで見覚えがある。
「あの絵の女の子と同じだ」


「その絵が今の私の気持ち、最後のラブレターです」
「ラブレター?」
 きょとんとした末松の顔を見て、瞳の奥に悲しみを宿したまま屈託無い風に笑う。
 やはりこの人はあの絵に込められたメッセージなどさっぱり気付いていないのだった。
 それが彼らしくもあるのだが。
「先生、あの絵返してもらっても良いですか?」
「構わないけど。どうして?」
「それを持っていて欲しいのはもう先生じゃないから」

 少々もったいないと思いながらも席を立って絵を外し、花枝に手渡した。
「これでいいの?」
「はい」

 花枝はその絵を小脇に抱え、左手を差し出した。握手を求めているのだろうか。
「お礼を言うのが遅くなっちゃいましたけど、今まで有難うございました」
「礼には及ばないよ」
 そっと左手を出し、柔らかな手を握る。
 花枝は微笑んだ。
「博巳さん」
「ん?」

「さよなら」


「あぁ」

 瞬間、暮凪は理解した。その言葉が何を意味するのか。彼女が何故ここに来たのか。

「お元気で」



 もう会う事は無いだろうけど。きっと彼女はそう言いたかったのだ。










番外編「後輩」


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*おまけ*
 本編とはあんまり関係ありません。

「それにしてもなんで花枝ちゃん来ないんでしょうかね」
「さぁ。やっぱり恥ずかしいのかな。あれだけ騒いだわけだし」
「あぁなるほど。泣いたりわめいたりかなり恥ずかしかった」
「そりゃ学校に来づらくもなるでしょう」
「でもそれにしてはちょっと休みすぎですね」
「うーん何ででしょう」



「あ」
「はい」

「やっぱあれかな。紙飛行機飛ばしに夢中になっちゃったのかな」
「え。すごいはまりようですね」
「すごく、楽しそうでしたから」
「そうですか」