ハナミチ 14





 始業式の日、家に帰ってからすぐさま絵の制作に取り掛かった。
 きちんと自分にけじめをつけなければならない。
 この左手の呪いを自分自身で解かなければならないのだ。

 クローゼットの奥をひっかきまわして出てきたセットをまじまじと見ながら、未練がましく残しておいて良かった、と心の底から思う。
 構想はもう頭の中に浮かんでいる。『あの絵』と関連させること。自分なりの思いを込める事。

 木炭によるデッサンを終えれば色塗りだ。


 デッサンの間も左手は警笛のように痛みを鳴り響かせていたが、いよいよ絵筆を握るとそれは一層に強くなった。
 手が震えた。
 それでも描きたいと思った。
 先生の顔が浮かんだ。
 あの日の夕焼けを思い出した。
 自分が絵を描く理由を思い出した。

 それでも絵を描きたいと思った。


 呪いなど存在しない。そんなもので自分の弱さを誤魔化すのはもうやめよう。

 怖い、という気持ちが無いと言えば嘘になるだろう。これ以上嫌われてしまうと考えてしまえば、また自分の立ち位置が崩れてしまうような気がする。

 でも。

「大丈夫だよ」

「花枝ちゃんならきっと、うまくやれる


 太陽の残滓を思い出せば、本当に上手くできるような気がした。
 大丈夫。私はまだ強くなんてなれないけれど、ほんの一歩なら進める気がする。
 その一歩を積み重ねて行けば、きっと彼女のように強くなれる。

 今はすがるような気持ちで自分に言い聞かせた。

 
 色を置いていく。
 そこから世界は広がっていくのだ。

 更に色を重ねれば光と影ができ、奥行きが生まれ、そこに小さな世界が形成されていく。先生のためだけに絵を描いていた頃には感じた事もなかった高揚感が迫り上がってきた。
 たったひとつぶの涙をこぼして。




 先生が居た中学からの帰り、花枝は昼過ぎの電車に揺られていた。
 平日のこの時間帯は本当に人が少ない。まばらに座る人々を眺め、せわしく行き交う窓の外に目を向けた。
 その心はひどく穏やかだった。

 先生の事は忘れられそうも無い。彼の手の感触もまだ残っている。

 先生に会えたからという意味での平穏ではなく、自分の手で全てを終わらせたという充実感が春風のように心地良く花枝の心の中に流れ込んでいたのだった。
 電車の振動に逆らうことなく体を揺らしながら、太ももの上に乗っているこぶしを強く握り締めた。

 その左手に痛みはもう、ない。


 駅の改札を抜けると見知った風景が眼前に広がる。
 風が気持ちいい。
 木々の緑が美しい。
 空がまぶしい。
 陽射しがあつい。

 目の前を覆っていた霧がすべて晴れてしまったように、何もかもが新鮮で素晴らしいものに見えた。
 いつも通っていた道がこんなにも明るいものだったとは。
 いや、見えたというよりも気付いただけなのかもしれない。

 花枝の恋は終わった。

 けれどこんなにも足取りが軽いとは。


 弾むように歩るきはじめる。太陽の下へ。




 ドアを開けた。休み時間の教室は賑やか過ぎてドアの外からの来訪者に目を向けるものなど居なかった。
 彼女は一番前の席で堂々と静かに文庫本を広げていた。
「田宮」
 花枝の呼びかけに小動物のそれのように素早く反応すると、信じられない物を見たように眉をひそめ口を開け
「花枝ちゃん?」
 と呼び返した。
 花枝ははにかむように僅かに顎を引き田宮の元へ近づく。
「花枝ちゃんどうしたの? 今まで休んで。っていうか、何でこんなすごい遅刻? え?」
「これ、お前に渡したくて」
「私に?」
 理解不能という文字の浮かんだ田宮を見ながら紙袋から絵を取り出した。
 先生に対する気持ちを込めた絵。

 暗い水の底でうずくまる少女の背に光が差し込む絵。
 それは苦しみと悲しみに喘いでいた私に、やさしくて温かな陽射しを注いでくれたあの人への感謝をあらわしていた。
「お前に持っててほしい」
「これ、もしかして花枝ちゃんの絵?」
 花枝はゆっくりと頷いた。

 今この絵を持っていてほしいのは他の誰でもない、田宮だ。
 恋文としてではなく、『感謝状』として。

 片思いとの訣別を果たした花枝にとってこれもまたけじめのひとつだった。

 渡された絵をまじまじと見つめ、吐息と共に
「きれい」
 呟いた。

「文化祭の看板、もう一回作ろう」
「え?」
「今度はあたしも手伝う。二人で作ろう」


「うん」

 ここでようやくクラスの何人かが花枝の方に視線を向けていることに気付いた。
 思えば確かに不思議な光景に見えるかもしれない。
 始業式の日に田宮に怒号を散らしてから欠席を続けていた花枝が妙なタイミングで現れた上、田宮と親しげに話しているのだから。
 ここに居る人間はこの短い間で二人に何が起こったのか、さっぱり知らないのだ。
 花枝は急に胸と声を張って宣言したくなった。

 ようようお前ら、知ってるか。あたしは田宮が夏休みに作った看板をぶっ壊し、「お前なんか嫌いだ」宣言したんだよ。
 そしたらお前らがだい嫌いな暮凪がしゃしゃり出てきやがってよ。うだうだ聞いてもらって、「勇気の話」して、田宮に昔の話して紙飛行機飛ばして仲良しになっちまいましたよこりゃ。
 暮凪も田宮も案外いい人ですよ。こんな愚かなあたしを

 許してくれました。

 でもあたしのことも暮凪のことも田宮のことも好きになってくれなくたっていいです。
 はみ出しもんははみ出しもん同志で固まってますから。
 はみ出さなかったもんははみ出さなかったもん同士で好きにしてください。馴れ合ってください。あたしらも存分に馴れ合います。

 心の中でそう言った。

 チャイムの音と共に席へ戻った。










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*おまけ*
 本編とはすっかり関係ありません。


「でも花枝ちゃん、どうして今日遅刻したの?」
「あぁ、先生のところにこの絵を取りに行ってたから」
「え……絵を盗りにっ?」

「うん」
「いや、それはかなりまずくない?」

「何で。この絵はあんたにやりたいと思ったんだ」
「だからってそんなことまでしなくたって」
「……いらなかった? こんなもん」
「いや、すごく嬉しいよ。花枝ちゃんの気持ちも嬉しいんだけど、やって良い事と悪い事があるでしょ」

「そんなに悪いことだったか? あたしはあたしなりに精一杯考えてやったんだ」
「うん。だからわかるよ。花枝ちゃんの気持ちはわかる。でもさ、やっぱりどんな理由があっても犯罪はまずいよ犯罪は」


「犯罪?」
「え?」

「え?」
「え?」


「……え?」
「えっ?」