ハナミチ 番外編1「後輩」





 最初に博巳と話をしているのを見た時から直感的に分かっていた。あぁ、あの娘は博巳のことが好きなのだ、と。

 むしろなぜあんな瞳で見つめられながら彼女の気持ちに気付くことができないのかということの方がよっぽど分からなかった。

 私の彼、末松博巳とはそんな男なのだ。
 私の一方的な片思いだったころも、その色恋沙汰の鈍さには山ほど泣かされたものだ。
 だからもし私が博巳と付き合っていなかったら、懐かしさと同情心から彼女にそっとアドバイスでも与えていただろう。
 けれど今私は博巳の彼女。彼のことが好きだというならどんな女でも私の敵となる。わずかでも手を出そうとするなら容赦はしない。 博巳のことを信じていないわけではないが、私の性分でどんな小さな芽でも摘み取っておかねば気が済まないのである。



「へぇ。これがセンパイのお弟子さんが描いた作品かー」
 まずは先手として二人が話し込んでいるところに割り込んでみた。花枝ちゃんとやらはぽかんと、博巳はぎくりとした。
 でも彼は自分の彼女がふいに現れたことに対して驚いているだけで(教室では私たちが恋人同士であると明言していなかったし。隠しているわけではないけれど) 私が現れたことが示す意味や危機など気付く節もない。


 ほう。見てみれば花枝ちゃんとやらは随分良い眼をしている。他人には尖った態度をとる娘という印象だったけれど、とても純な瞳をしているではないか。
 絵の方もまぁまぁだ。


 うん、なるほど。

 気付いた。彼女の描く絵はある種のラブレターなわけだ。
 私を見て欲しい、私のことを好きになってほしい、という思いが絵に暗喩とも直喩とも取れる形で描かれている。
 

「綺麗な絵じゃん。センパイはこれの何が気に食わないんで?」
 ここでいつも通り「博巳」と読んだり、博巳の彼女であることを含めた自己紹介でもしてやろうかと思ったが、その切り札はまだ出すべきではないと踏んだ。
 私は末松先輩のかわいいかわいい後輩です。先輩を慕ってます。だけど敵視なんてしないでね。私は非力なうさぎさん。

 では彼女に決定打を与えるにはどうすれば良いか。にこやかに振舞いながらもちくちくと非力なウサギは策を巡らす。
 微笑みながらも冷徹に。




 次の回から彼の後について回る事にした。今ひとつ良い撃退策が浮かばなかったため、接近して機会を伺おうとすることにしたわけだ。
 彼に怪しまれる事くらいは覚悟していたのだが、訝しむ事さえもなく照れくさいだなんだ言って終わってしまった。ほんとにニブチン。

 彼女は来なかった。私が居ないときに来ているのかもしれないと重い、彼にそれとなく聞いてみても本当にぱったり来ていないらしい。


 敵前逃亡? いや、彼女の性格からは考えられない。もしや向こうからも何らかの手を打とうとしているのだろうか。

 ならば正々堂々真正面から受けて立ってやろう。


 そう思っていた矢先、勝負は思いもよらぬ形で決着した。




 夕暮れ迫る教室の中、ふとした気まぐれで博巳に抱きつき唇を重ね、甘えていた。
 背中に当たる秋の陽射しと彼のぬくもりを感じながら鼻を首筋に近づけていると、ドアのそばに何者かの存在を感じた。彼女だ。


 衝撃に打ちひしがれるように呆然と目を見開き、その場に立ち尽くしている。
 これは、チャンスではないだろうか。

 自分の好きな男が女と抱き合っている様を目撃するというだけでも十分なダメージかもしれないが、まだとどめの一撃を喰らわせればより効果的だ。

 博巳自身の気持ちを、彼の口から言わせたら



「ねぇ、私のこと好き?」
 彼から体を少しだけ離した。
「なんだよ。いきなりだな」
「たまにはいいじゃない。言ってよ」
 さぁ。 「二人っきりになると急にしおらしくなるんだからなぁ」
 言って。あの娘に聞こえるように、はっきりと。
「好きだよ。大好きだ」
 胸の中がすっとした。
 これで私の勝ちだ。
「ふふふ」
 再び彼に抱き付く。
 ほら、もうあなたが入り込む隙間なんてないの。もうわかったでしょう。

「君の描く絵はすごく深くて素敵なんだ」
「ん?絵だけ?」
「もちろん君も」
「そんな事言ってるけど、あの娘の絵がお気に入りだったみたいじゃない」
「あのこ?」
「花枝ちゃん」
 勝利に酔いしれていた私は少し羽目をはずしすぎた。
「あの娘のこと口説いたんでしょ?『君の絵は美しい! 素晴らしい!』ってさ」
「口説いてなんかいないよ。それにあの子、中二だろ? 俺にそんな趣味は無いよ」
「でも花枝ちゃんは博巳のこと、好きよ」
「おいおいやめろよ」
 夕陽に光る彼の瞳を覗き込んだ。
 そこには私だけが映っている。
「あの子の絵は好きだったけど。別に彼女の事を好きだったわけじゃない」

「君が一番だよ」
「嬉しい」

「もしかして嫉妬してた?」
「ううん、そんなんじゃないの」
「大丈夫だよ。俺が好きなのは君だけだ」

「早く君と一緒になりたいな」
「それ、結婚って事?」
「うん。いやかい?」

「そうね、そうしましょう。あなたが就職したらね」


 ごとっと音がし、すぐに足音が響いた。
 流石の彼もそれに気付き、廊下に駆け寄った。


 廊下にはもう誰も居らず、ただ静寂だけがひしめき合っていた。

「これ」
 彼は一枚の絵を手に取り見つめていた。先ほどの音はこれが落ちた時に生まれたのだろう。

 暗い海の底、一人の少女が膝を抱えてうなだれている。しかしその背後からはまばゆい程の陽の光が注ぎ込まれていた。
 そんな絵が。


 あぁ、これは……。


「花枝ちゃん……?」

 私はぎょっとした。彼は気付いたのか? この絵に込められたなんともやさしい感情に。
 そして同時になんとも悲しい現実の底に彼女を突き落としてしまったのだと言うことを。


「花枝ちゃんが、どうかしたの?」
「ほら、ここ。サインが入ってる」


「……そう」
「見られちゃった、かな」


 胸がぎりぎりとした。彼女はどこまでも真剣だった。
 今日までずっとこの絵を描き続けていたのだろう。
 真剣に、真剣に告白しようとしていたのだろう。

 私は自分の行いをひどく恥じた。
 策略だ何だとそれらしい事を言って馬鹿らしい。
 そんな姑息な手段を考えず、あの時普通に自分が博巳の彼女であると告げれば良かった。
 それが一番簡単で一番効果的で一番衝撃が少なかったのに。
 彼女が何の変哲もない少女であることを忘れてしまっていた。
 ああ、私はなんて事をしてしまったのか。

 廊下の隅の闇に嘆きを投げた。


 結局謝る事はおろかあって話をすることもできないまま、それきり彼女は教室を辞めてしまった。







「今日学校に花枝ちゃんが来たんだ」
 彼の口から彼女の名前が出たのは、あれから約二年後の事だった。
「憶えてる? 汐見花枝ちゃん。美術教室の生徒だった子」
「うん。憶えてる。あのポニーテールの子でしょ?」
 そうそう。と言い、ビールのプルタブをあけた。
「……どうして今頃。あの後全く音沙汰なかったんでしょ? それにあなたの勤め先だって」
「うん。この前花枝ちゃんの担任の先生に偶然会ったから。勤め先はその先生から聞いたんじゃないかな」

 博巳に会ったということは、もう傷は癒えたということだろうか。あれだけの体験をしておいて、にわかには信じがたいが。
 まさか今更告白に?

 私はそっと左手をなでた。

「それでさ、絵をもらったんだ」
「……絵を?」
 彼はビールを持ちながら席を立ち、隣の自室からその絵を持ってきた。
「これなんだけどね」



「ああ」

 『あの絵』と同じと思われる少女が、海から上がっていた。実に生命力に満ちた絵だ。


「その代わり、彼女が中学の時に描いた絵を持ってかれちゃったんだけどね。これと似たようなやつ」

「そう、良かった」
 彼女は苦しみから解き放たれたのだ。

 前の絵で、海は世の中が彼女に投げた孤独を表し、陽の光が博巳への恋心を表していた。
 けれどこの絵は末松博巳という海から上がり、他の誰かの温かな陽射しを浴びているのだろう。

 彼女の恋はようやく終わりを迎えたわけだ。


 私はようやく心から安堵した。
 彼女が彼をあきらめた事に対する安堵ではない。
 私は卑怯で愚劣で、彼女を傷つけた。そのことが彼女の人生に多大なる影響を与えてしまったら。私はその負い目を忘れることができずに居た。
 けれども彼女は彼女なりの出口を見つけ出し、見事訣別を果たした。

 私の事は許してくれないだろう。でも彼女が幸せへの一歩を踏み出したのなら、私は何の含みもなく喜べる。

「何が良かったの?」
 このニブチンにはそのメッセージが届かなかったらしいが。


 結局のところ彼女も私も自己満足でしかないのだ。

 それでも、これはこれでいい。

 彼女の章が一つ終わった。その大波を超えた彼女に対して祝福を贈りたい。













目次へ戻る

作品一覧へ戻る

茶室トップ












*おまけ*
 本編とはあんまり関係ありません。

「お疲れ様ー」
「お疲れ様」
「君もとうとう主役になっちゃったね」
「えぇ、番外編だけどね」
「……はは」


「でも番外編でも……さ」

「ねぇ、私達もう出番ないって知ってた?」
「……そうなんだ」
「うん」


「まぁ可能性あるとしてもあなただけでしょうね」
「何で?」

「私、名前ないもの」
「…………」
「どうせチョイ役なのよ。話の裏側を演出するだけの道具。名前も愛着も無い私だもの。今後出番があるとは考えられないわ」
「そんなに卑屈にならなくたって……」
「そりゃあなたはいいじゃない。『博巳』さん。今後出番が無かったとしても今まで十分物語の核として貢献したわけだし」
「大した活躍はしてないよ」
「名前があるだけましでしょ」


「……うん」
「うんじゃなくてさ! 少しくらいフォローしてよ!」
「わかったよ、わかったから泣くなって!」


「ごめんなさい。少し大人気なかったね」
「……いや、別にいいんだ。俺もごめん」
「私の方こそあなたに八つ当たりなんてして……みっともない」
「気にしなくていいよ」


「……それにしても何が『彼女の章が一つ終わった。』よね」

「え?」

「私なんて物語そのものが終わっちゃってるし。拍手贈ってる場合じゃないっつの」
「そんなこと」
「とんだ笑い種でしょ?」
「…………」

「…………」
「…………」

「だからフォローしろって!!」
「え?! あ。ごめん」