「先生!」 見慣れた後姿を見つけると、大きな声で彼の名を叫んだ。 「先生、辞めるってどういうこと?」 校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていた先生に駆け寄り、肩を引っ張るようにして掴んだ。 先生は持っていたノートと教科書とチョーク箱を落としてしまい、二人以外誰も居ない渡り廊下に甲高い音が響いた。 しかし先生は花枝の気迫に目を逸らす事は出来ず、チョークの安否を心配をする余地は無かった。 先生は目を丸く見開いていた。口は半分開いたままだが、そこからは何の言葉も洩れ聞こえてこない。 表情も徐々に驚きから悲しみへと色を変えた。 「辞めるって、辞めるってどういうことですか」 「……」 「何とか言えよ!」 先生は確か五十六で、定年にはまだ数年余裕がある。しかも田宮の話では他の学校へ移るのではなく、完全に教職を辞めるというのだ。 「何だよそれ、ふざけんなよ、ふざけんな」 そんな冗談は笑えない。先生が居なくなるなんて、そんな嫌な冗談ちっとも面白くない。早く否定すればいいのに、いつものへらへらした笑顔で「ごめん」って言えばいいのに。 花枝はそんな風に思いながら先生の肩を揺さぶった。 「だからあんな約束したのか? あの時、あの時の」 「それは」 「先生言ったよな。『一人よりも二人、二人よりも三人』って。なのに」 「……もう決めたことです」 先生は面を被ったまま笑った。 「大丈夫。君には彼女が居る。彼女には君が居る」 「うそだ。あんたはそんな事思ってない!」 「本当は」 「汐見くん」 先生は腹の底が疼くのを堪えるような顔をしながら花枝の肩を掴んで自分の体から引き離した。 花枝は怒っているのではない。悲しんでいるのではない。 ただ彼の事が心配だった。ただ彼女の事が心配だった 花枝も暮凪も田宮も、タイプとしては全くばらばらで類似点などは他者から見れば浮かびもしないだろう。 けれど三人は思っていたはずだ。 花枝も暮凪も田宮もどこか何かなんとなく似ている。 寂しがりやの癖に強がって、自分を求めて欲しいけれど突き放し、壁を作り、その壁を誰かが乗り越えてきてくれる事を祈る、弱虫で夢見がちな小心者なのだ。 「僕の事はいいんです」 「僕はもう十分だから。一生分の幸せをもらいましたから」 花枝は何も言えなかった。叫んでもどうしようもないという事を知っている。泣き喚いても変わらないと言う事を知っている。 悩んだに違いない。田宮や花枝と話をしている時もずっとずっと穏やかに笑う顔の裏で考えていただろう。 自分の役割を。自分がどう在るべきかを。自分が本当にすべき事を。 そして、もう答えは出来てしまったのだ。賽はとっくに投げられていて、目もとっくに出ていた。 結局本人以外は後の祭りでしかないわけだ。 「田宮くんの事、よろしくお願いしますね」 床に落ちたチョークと教科書類を拾い、先生は足早に去って行った。 「ばかやろう」 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ *おまけ* 本編とは全く関係ない事を念頭に置いてください。 *** 床に落ちたチョークと教科書類を拾い、先生は足早に去って行った。 「ばかやろう」 「ばかっていったひとがばかなんですぅー」 「お前は小学生か! 早く去れ!!」 「ばーか ばーか ばーか ばーか お前の母ちゃんでーべーそー.........」 「母ちゃんのこと言うなばーか!」 「……花枝ちゃ…ん?」 「!!」 |