ハナミチ 19




 何かが絡まりついている。花枝と田宮と先生のそれぞれに何かが絡みついて、それにずるずると引きずられているような、そんな感じだった。
「田宮」
「ん?」

 四限目終了のチャイムが鳴った。
「昼、食おう」
 田宮は花枝が声をかけるまでずっと眠っていたらしく、瞼をほとんど閉じながらこくりと頷いた。

 三学期になってからは先生の所で昼食を食べなくなった。先生も職員室かどこかで昼食をとっているらしく、国語科準備室からは人のぬくもりがすっかり消えていることだろう。
 花枝は先生の辞職に対して納得こそしていないが、そこまで距離を置こうとは思っていなかった。けれど暮凪は積極的に距離を置こうとしているようで、あの頃のように三人で仲良く、といった事はすっかりなくなってしまった。
 あの頃。あの頃というのはなんだかとんでもない過去のような含みを持つ表現だ。ほんの少し前のことなのに。ほんの少ししかない時間だったのに。

「行こ」
 田宮がバッグを肩にかけて席を立つ。
「うん」


「先生にさ、花かなんか贈ろうか」
 重苦しい空気に耐えられずにそんな事を田宮に言ってみた。あれから田宮の口数は日に日に少なくなっている。原因はどう考えても先生であることは間違いないのだが、ここまで落ち込むのはちょっとおかしい。
 父親のように慕っていた存在が居なくなるのだから落ち込むのは仕方がないのかもしれない。
 田宮の箸が止まった。
「何で?」
「ほら、色々お世話になったじゃん。あたしもさ、迷惑とかかけたし。円満退職ってわけじゃないけど一応定年だろ。だから」
「やめようよ」
 空気が凍りついた。
「…………どうして?」
「やめようよ、そんな」

「もう二度と会えなくなるみたいな事、するの、やめようよ」
 田宮は箸で肉団子を刺し、一口で食べた。花枝にはその発想の意味がわからず、ただ胸騒ぎを感じながら、肉団子を咀嚼する田宮を凝視することしか出来なかった。
「そうかもな。うん、また会えばいいんだよな。先生が住んでる所とか電車で行ける距離だし。うん。遊びに行けばいいじゃん」
「………………」
 田宮は何かを考えているに違いない。彼女は、何かに気付いているのだろうか?

「花枝ちゃん」
「ん?」
「花枝ちゃんは今、何を支えにして生きているの?」
「何、って?」
「花枝ちゃんはどうして生きているの?」
 それは花枝に対する生の否定かと瞬間思ったが、その質問はそういうことでないのは田宮の横顔から読み取れた。
 人生の支え? 人がひとの形を保つための。頭の中の糸は解ける気配も無く、時を重ねるほど段々複雑さを増していく。
「あたしは」

 先生の――末松博巳の笑顔が脳裏を過ぎった。

「あたしはそういうの作るのはやめにした、から」
 支えというのはただ単に寄りかかっているだけに過ぎないということを分かってしまったから。体重を預けていれば預けているほどその寄りかかっているものが無くなったときのダメージは大きい。
 その痛みを知っているからこそ花枝はそう言った。
「生きていく支えとか生きてる理由なんて作らない方が良いんじゃないかな。そういうの、いつかは絶対に無くなるだろ」
「でも、そういうのが何もなくて花枝ちゃんは生きていける?」

「――――知らない」
 わかるはずがない。花枝自身「生きる」と言う事がどういう事なのか、明確な答えが分からないままなのだから。
 生命としての活動を繰り返しているだけでは生きているとは呼ばないのだろうか。
 もっと別の何か重大な意味を含ませないと「生きている」と呼べないのなら、花枝は自分の生を再び否定しなければならないかもしれない。

「じゃあお前はどうなの? どうして生きてるの?」


「わかんない」
 昼休み終了のチャイムが鳴り響く。半分以上残した弁当の蓋を閉じて田宮は小さな吐息を漏らした。


 先生の事を少し恨めしく思った。もしあの人が学校を辞めるだなんて言い出さなければこんなことにはならなかったのに。
 生ぬるくて楽しい関係がずっと――――


 続いていただろうか。
 花枝ははっとした。高校生活が三年間しかないという、当たり前すぎてかすんでいた答えが唐突に目の前に立っている事に気付いたのだ。
 この世にずっと続くものなどどこにも無い。
 田宮も花枝もこの学校を卒業する。先生もいつかは居なくなる。この学校もいつかはきっと無くなる。ここに在るものはいつか消えてなくなって、そこに在ったという事実すら消えてなくなる。
 そんな途方も無い現実を噛み締める。何故だろう、喉の奥が少しつんとした。

 卒業、か。
 これでいいのだろうか、という考えはいつでも頭の隅を過ぎる。
 それは花枝に限った話ではなくてこの年代ならば誰でも思っている。いや、花枝よりも他の生徒の方が考えているに違いない。
 自分が本当に何をしたいのか、自分がどうなっていくのか、良い大学に入ってその後は?
 誰もが疑問に思いながらも、それはまた後で考えようと答えを捻出する事を先延ばしにし続けている。目を逸らしている。

 花枝は美大に行こうと決めた。
 美大に行こうと思ったのはただ単に絵を描く理由が欲しかったからだ。絵を描くことそのものが好きだから、絵を描くいいわけを作りたかったに過ぎない。
 けれど美大に行って将来何になるというのだろう。芸術家? そんなものにはなれない。

 結局、花枝も答えを出すことは出来なかった。



 修了式の日に離任式は執り行われる。今年離任する先生は二人。一人はまだ若い女の先生で、もう一人は暮凪先生。
 その女の先生は結婚と妊娠を機に退職するらしい。幸せに満ちた笑顔で壇上に立っていた。
 一人だけ春を先取りと言った風な桜色の装いで、幸せオーラを惜しみなく振りまく様子が花枝の気に障った。
 先生は、といえば。いつもと変わらず、よれよれの頼りない猫背だ。
 その女と先生が並ぶと、「片や人生の絶頂期、片や人生のどん底」という見えないテロップが映っているように思えてしまう。
 この差は何だろう。学校を去るという点では同じはずなのに、どうしてこんなにも違うのか。

 しかし誰のせいでもないのが現実。どこに怒りの矛先を向ければいいのかわからず悶々としていると式が始まった。

 離任の挨拶で女の先生はとてもありきたりな台詞を次々とはきはきとした声色に乗せて繰り出した。赴任当初のこと。生徒はとても真面目で礼儀正しい事に驚いた事。
 大変だったことや、悩んだ事もあった。けれどそれはとても大事な経験と思い出になった。と。
 実にくだらない。
 そんな事を言いながらもあんたは男を選んだ。生徒よりも男とその子供の方が大切に思っている。
 本当は生徒の事なんて仕事の道具としか考えていないんだろう。
 それならそうと、はっきり言えば良いのに。良い子ぶりやがって。
 よっぽど野次でも飛ばしてやろうかと思った。

 最後に元気な赤ちゃんを産むという、わけのわからない宣言をして、毅然とした歩調でパイプ椅子まで戻った。

 それと入れ替わりで暮凪先生が立ち上がった。少し、顔色が悪いように見えた。緊張しているのだろうか。
 先生は頼りなさげに歩く。ほんの少し俯き加減のその姿は実年齢よりもずっと老いて見える。

 心のこもってない一礼をした。
 ほんの少し生徒の頭の上に視線を
「僕は今年で教職を離れる事になりました」
 マイクの前に立つといつもと変わらぬ静かな口調で語り始めた。


「こうして教員生活の最後をこの学校で迎えることができたことは大変嬉しいことだと思います。この学校が緑も多くてのびのびとしていて、そんなところがとても気に入っていました」
 花枝はその顔が再び能面に見えた。彼の言葉には心がこもっておらず、ただ体裁だけを気にして作った原稿を読んでいるに違いない。
 その能面の悲しそうな微笑み。

「僕はこの学校の周りが好きで、お昼休みには良く散歩をしていたりもしたんですよ」

「……僕は教員と言う立場でありながら、皆さんから沢山の事を教えてもらいました。それはここでは言い表せないほど沢山の――――」

「うそです」

 その小さな一言が生徒達の沈黙は破られ、波紋のようにざわめきが広がっていった。
(先生……?)
「僕はこの学校で良い思い出なんてありません。大学に進むことしか考えないで、他の事には目もくれない生徒が嫌いでした」

「何を、何を得られたと言うんでしょう。こんな所で。こんなロボットみたいに同じような事をやらされて、それを何とも思わないような生徒ばかりの学校で」

「でも、それはきっと誰のせいでも無いんです。僕も生徒にとやかく言えるような先生ではありませんでした。一人の大人としても何も言えない…………」
 ざわめきはいつしか沈黙に変わっていた。教室ではたった二人にしか注がれなかったというのに生徒全員の視線が先生に注がれている。
 けれどきっと先生はそれを嬉しいとは思えなかったろう。あれはもはや独白で、懺悔で、嗚咽だ。
「僕は誰かに物事を教えることができるような立派な人間じゃなかった。今まではその事に目をそむけ続けていた。自分は、立派では無くてもそれなりに教師らしく振舞えていると、思いたかった。生徒のためになることが、できると!」


「向かい合おうとしなかったんだ。自分を見られるのが怖いから。あまりに小さな自分の姿を見られることが。怖かった」

「だから、私は今まで出会った全ての生徒達に多大な迷惑をかけてしまった。定年間近になってようやくその事に気付いた、そんな愚かな自分をどうか許してください。いや、許さなくたっていい。ただ僕は謝りたい。君達の一番大事な時期に何も出来なかった。非力な自分が恥ずかしい。一人の人間として……」
 花枝はもう先生を直視できず、顎を引き、体育館の床を見ることでしか自分の感情の昂ぶりを抑える事は出来なかった。
 花枝は先生の心の弱さを知っていた。けれど彼に救われたことも事実で、出来ることなら今すぐにでも彼をあの舞台と言う名の処刑台から降ろしてやりたい。救ってやりたいとは思う。
 けれどそれだけは出来ない。先生はそんな事を望んでいるんじゃない。今は耐えなければならない。花枝も先生自身も。

 田宮はどういう顔をしているかが気になったが、花枝の位置からでは田宮は見えなかった。

「一つだけお願いがあります」


「どうか、悩み続ける人間で在ってください。考える人であってください。現実は、目を背けたくなるほど厳しい」


「解答集はどこにもありません。誰も採点してくれません。だから、あなたが見つけた答えはあなたが信じてあげてください」


「それからさいごに」


「こんな非力な僕でしたが、この一年は今までの人生の中で一番楽しかったと思います。ありがとう」

 先生はさっきと同じように頼りない歩調で席に戻った。呆気にとられていた司会の先生が離任する二人の退場と生徒の拍手を促した。
 「ありがとう」。その言葉は花枝と田宮に向けられた言葉だ。
 先生はこの一年が幸せだったと言った。けれどその言葉は花枝にとって嬉しいものだろうか。今の自分の気持ちは、何とも表現しがたいものだった。


 ただ一つだけ言えるのは、何とも後味の悪い離任式だった、ということ。
 支離滅裂で自己満足な演説は何故か花枝の胸に深く突き刺さっていた。










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*おまけ*
本編とは全く関係ない事を念頭に置いてください。
「解答集はどこにもありません。誰も採点してくれません。だから、あなたが見つけた答えはあなたが信じてあげてください」


 ……先生……


「……と、言いたいところですが、ここにあります本こそ「人生の解答集」でござい。めったにお目にかかる代物じゃあありませんよお客さん。しかしながら今回は特別に三百部用意いたしました。 式終了後、国語科準備室にて販売を行います」
(ざわ……ざわ……)

「お値段はぽっきり三万円。これを高いか安いかを決めるのはお客様次第でございます。さぁ!」


 ……先生……!!