ハナミチ 20



「先生ー。お昼食べにきましたー」
「いらっしゃい」
 机に向かって作業をしていた先生は振り向きながら言った。窓の外には黄葉が鮮やかに広がり、時折その葉をゆらりと散らしていた。花枝は秋が好きだった。暑さから寒さに移り変わるその心地よさが、色々なものに慣れてきてほんの少し余裕ができるこの時季が。
 二人は準備室のちょうど真ん中にある向かい合わせて六つ並べた(小学校の時の給食を食べる班みたいな)机に荷物を置き、椅子に座った。
「看板、もう出来上がったんですね」
「はい、もうばっちりです」
「よく考えたらあんなに急ぐことはなかったよな。文化祭十一月の頭じゃねぇか」
「早いに越したことはないでしょー」
「何ならもうひとつ作るか?」
「どこに飾るの?」
 暮凪の笑い声が静かに響いた。
「面白いですね」
「何が」
「あ」
 田宮は弾むように歩いて先生のもとへ駆け寄った。
「コスモス」
 机の上に置いてあった花瓶に二輪の赤い色をしたコスモスが活けてある。
「きれいですね」
「きれいでしょう」

「先生コスモス好きなんですか?」
 花枝は弁当箱のふたを開けながら横目で尋ねる。先生がコスモスを好きだというのはなんとなく可笑しい。単なる性差別的固定概念にしかすぎないのであまり尋ねるべきことではなかったかもしれない。それとも男だからこそコスモスを好むのだろうか。
「ええ。花は全般的に好きですけど、コスモスは特に好きです」
 そもそも花言葉など人の主観的なイメージで勝手につけられただけなのだからその花の美しさと花言葉の意味というのは完全に別次元の話だ。彼の趣味にとやかく言う気はない。
「ここって結構さびしいところでしょう。だから花でも置いて賑やかにした方がいいかなと思ったんですよ」
「そうかなあ。私はこの雑然とした感じが好きだけど」
「田宮の部屋みたいで?」
「失礼だなあ。ちゃんときれいにしてますー! まず花枝ちゃん私の部屋見たことないでしょ?」
 そういえば確かに田宮家に訪問したことは一度もなかった。無論、汐見家に田宮を招いたこともないが。
「今度泊まりにおいでよ」
「却下」
「言うと思った」
 また暮凪が笑って、咳き込んだ。
「ほらほら、早くお昼食べないとお昼休み終わっちゃいますよ」
 それは幕間劇のように密やかでつつましく、薄くてチープな幸せのふとんにくるまっているようなひとときだった。
 ひとつの山を乗り越えた三人は頂上から今まで登ってきた道を振り返り、その先の山がどれほど険しいものかも知らずに笑いあう。
 あの場所ははみだしものだった三人の唯一心が休まる居場所だった。
 プリント類や教材が詰まれていてまさしく物置ではあったけれども、冷たく重苦しい学校の中でも人の温もりがある優しい空間だった。
 
 『そこ』はすでに花枝の見知った場所とは思えないほど変貌していた。雑多な教材がところどころ申し訳なさそうにダンボールに詰められて置いてあるだけで、他は机や椅子が置いてあるだけだった。
 すっかり温もりを失ったその部屋はまるで何かの抜け殻のようで、もう春も近いというのに命の息吹はどこにも感じられなかった。
「来てくれたんですね」
 振り向いた先生の声と笑顔に花枝は言葉を詰まらせた。不安に駆り立てられるようにしてここまで走ってきたが実際先生に会って何を話したいのかは考えていなかった。
「君たちには会わないつもりでいたんですよ」
 君たちとは言いながらも花枝の後ろに田宮はいない。「会いたくないから」。田宮はそう言って他の下校する生徒たちの波に飲まれていった。
 薄情だとは思わない。先生と田宮の間で何らかの変化があったことは間違いないし、先生も『会わないつもり』だったということは今はきっと会うべきときではなかったのだろう。だから花枝は単身乗り込むことにした。
 けれど今更彼に何を言えるというのだろう。「今までありがとう」? 「これからも元気で頑張ってください」?
 何を言ったってこの空っぽの部屋に吸い込まれてむなしく消えてしまうのだ。
 そんな意味のない言葉は必要ない。では、今この場で何を言えばいいのだろう。


「先生」

「君には沢山迷惑をかけましたね。でも」
「先生、あたしも楽しかった」
 先生の細い目がわずかに開かれた。
「学校は今でも好きじゃないけれど、前よりも少しだけ楽になった気がする。田宮と仲良くなって、先生と一緒にお昼とか食べたりして、自分がここに居ても良いんだって思えるようになって」
 前髪が目にかかった。
「あたしこの部屋が好きだったんだ。変なものが沢山あって、お世辞にもきれいとは言えない部屋だけどそれがかえって心地よかったっていうか、さ。なんかすごい楽しくて……」
 終わりが来るなんて思いもしなかった。自分はいつまでも田宮と先生と一緒に居られるのだときっと本気で考えていた。とても小さな世界だったけれど不思議と窮屈な感じはしない。そんな世界は永遠にループしていくのだと信じていた。

「また、会いましょうよ。三人で。きっとまた田宮はサンドウィッチとか作ってくるんだろうな。今度は、あたしも何か」
 こんなことが言いたいんじゃないのに。もっと気が利いたことを言えたらどれだけ良かっただろう。
 彼を救ってあげたいと心の底から思った。どうにかして彼の心の中にある巨大な黒い塊を取り除いてもう二度と能面なんて使わなくていいようにしてあげられたらどれだけ良かっただろう。自分の非力さに涙がこぼれそうになった。

「ごめん」

 温もりがそっと花枝の頭をなでた。


「僕はきっと、もう君たちに会うことが出来ない」



「先生……?」



「さよなら」

 さよならとはどうしてこんなにも寂しい響きを持つのだろう。『さ』は細雪の『さ』で、『よ』は宵の口の『よ』で、『な』は夏みかんの『な』で、『ら』は落日の『ら』なのに、細雪と宵の口と夏みかんと落日をあわせたら関係を断ち切るとても冷たくて涙の味がする言葉に変わってしまう。とても不思議だ。そしてその言葉は花枝を縛り、部屋を出る先生を止めることはできなかった。


 高校二年生という肩書きが先生の背中とともに消えていった。







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*おまけ*
 本編とは一切合財関係ありません。

「僕はきっと、もう君たちに会うことが出来ない」



「先生……?」



「さよなら」



 静かな国語科準備室に乾いた発砲音が響き渡る。
 色褪せていた部屋の中には鮮やかな赤い色が咲き乱れていた。

 花枝の十七年間の人生が先生の背中とともに消えていった。

「ハナミチ」 完