ハナミチ 21



 新学期が始まった。高校三年生になった。
 けれどクラス替えがあるわけでもなく、花枝たちのクラス以外は担任替えもなく、ほぼ百パーセントの生徒が三年に持ち上がった。
 二年から三年に進級するときは持ち上がりというのが昔からの伝統で、よほどのことがない限り担任が替わるということはない。

 本当なら何も変わらない新学年になるはずだったのに。


「新しくこのクラスを受け持つことになりました。村沢です。大変な時期に担任交代となってしまいましたが皆さんの力になれるよう精一杯努力しますのでどうぞよろしく」
 村沢という熟年の女教師は急くようにきびきびとした口調でよどみなく言い終えた。暮凪の練り飴のようなまったりしたしゃべり方とは対極的で聞き取りやすいが心休まらないしゃべり方だった。
 歳はおそらく先生と大して変わらないだろう。服の趣味は地味だったが彼女の眼鏡の奥には他人を見下すような光が、こぼれたガソリンのようにてらてらと揺らいでいて、あまり良い印象はもてなかった。しかし本来ならこちらの方が教師としては適していると思うし、ありがたいはずだ。

 暮凪イビリに積極的に加担しなかった連中も、生徒をしかれない先生のことを良くは思っていなかったようだし、ほっと胸をなでおろしている。
 担任が誰であろうが大学進学に響くわけではないだろう。しかしある種のジンクスのようなもので、この担任だと難関大学に受かりやすいとかこの担任だとだめだとかそういうくだらない噂が生徒たちの間で語り継がれている。
 聞こえた話によれば村沢の場合は「あたり」で、先生は「はずれ」だったそうだ。

 たとえ村沢の奇跡によって難関大に何人も受かろうが、この教師から教わるものなんてあるのだろうか。

 もし始業式の日、担任が暮凪ではなくこの村沢だとしたら、絶望の淵にへたり込んでいた花枝に対し、いったい何の施しをしてくれていただろう。はみ出しものだった花枝をどう救い出してくれたか。花枝と田宮をありのままに受け入れ、そのままの二人に居場所を与えてくれただろうか。

 先生は教師として決して誉れ高い存在ではなかった。しかし脆く弱い彼だからこそ脆く弱い人々のことをよく理解していた、理解してくれようとしてくれていた。彼は教師と生徒という関係ではなく人間と人間として接してくれていた。あれは教師としての義務などではない。そこには何の損得勘定もなく、純粋な気持ちが確かに存在していた。この教師はそのような心構えを持っているのだろうか?
 考えるまでもない。やつらの頭の中には生徒を良い大学に進学させることしかないのだ。それも学校の評判を上げ、自分の評価を上げるために、だ。

 彼らはまだ成長途中にある子供と接していることを分かっているのだろうか。人を育てることの神聖さを理解しているようには思えない。自分のなんでもない一言や行動が生徒に多大な影響をもたらすかもしれないということがなぜわからないのだろう。
 花枝は教師という存在に苛立った。

 田宮と花枝の中で「先生」は暮凪だけでしかなく、それ以外はもはや学校に従事するだけの存在としか認識されていなかった。

「須藤さん」
「はい」

「高島さん」
「はい」

「田宮さん」


「田宮さん?」
 他の席がきちんと収まっている中で田宮の席だけがぽつんと主を欠いていた。
「お休みね」
 先生のみならず田宮まで欠いた教室は花枝に対してよそよそしく、席はあれども居場所はどこにもなかった。
 まるで一年前のよう。頬杖をつきながら過去に思いをめぐらせ、あのときの自分に苦笑する。

 いや、苦笑したのは自分に対してかもしれない。今までは一人で居ることが当たり前すぎて、たとえ自分がクラスで浮いていたとしてもそんなことはちっとも気にならず、むしろ自分には一人のほうが似合っているとさえ思っていた。今でも自分は一人のほうが性にあっていると思うし、浮いているということに対しても気に留めはしない。席だって花枝は後ろの方で田宮は前の方なのだから居ても居なくても関係ないはずだ。


 では、この心細さは何だろう。

 一人だからではない。彼女が欠けているという事実が花枝の心に揺さぶりをかけている。

 窓の外は青と白と桜色が伸びやかに輝いているというのに、花枝の心は一向に晴れる気配がない。
 田宮は、先生は、今何をしているんだろう。




 翌日、教室に入ると田宮が何事もなかったかのように自分の席に座っていた。

「始業式なんて何もすることないでしょ。なら出る必要なんてないじゃない」
 というのが彼女の言い分らしい。的を射ているような気がするけれどかなり無茶だ。
 彼女の陰りは日に日に強まっていくようだ。どれだけ四月の柔らかな日差しを頬に照らしても、どこか血の色を失って見える。
「もしかして、まだ逆ボイコットとか?」
「ちがう」

 人にはメンタル面において欠いてはならないパーツがある。これがなければ生きていけないとかそういうレベルではないが、「それがあればより良く生きていける」そして「それを欠いたらしばらくはまともに動けない」という小さくても大きなウェイトを占めるパーツだ。
 田宮にとって先生はそういう存在だったのだろう。小さなパーツが外れて動くに動けない。
 けれど失ったものは大抵取り戻すことは出来ない。
 いつまでむくれていても先生が学校に戻ってきてくれることはないだろうし、彼には彼の事情と理由があり、非力な二人にはどうすることもできない。

 だから我々は常に代替品を探していかなければいけないのかもしれない。過去にさよならをいい、昨日と今日を勝てにしてまた明日を生きていく。

「田宮」
「なに?」

「サボるか」
 口を開きかけた田宮の手を引っ張って立ち上がらせ、机の脇にかけてあったかばんを掴み取る。
「花枝ちゃん?」
「定期と財布はかばんの中?」
「う……うん」
「じゃあ行こう」
「え」

 手を引きながら花枝の席に向かい、花枝のかばんもつかんで肩にかけ、教室を飛び出した。
 ようやく登校してきた生徒たちの波に逆らい、縫うようにして抜けていく。
「花枝ちゃん!」
「いいじゃん。どうせ今日だって大した事しやしねぇよ」
 今の自分に出来ることはきっとこれだけだ。先生のことで何を言ってもただ田宮を余計に落ち込ませるだけだろう。それならばその事には触れないで、少しでも気を紛らわせてあげられればそのうちに前の彼女のように明るく笑うことが出来るようになるかもしれない。
 田宮は花枝の背を見ながらわずかに微笑んだ。繋がれた手をぎゅっと握った。





 ずっと遠くで始業を告げるチャイムの音が鳴り響いていた。
 いつも間近で聞いている聞きなれたその音なのに、桜色の城壁に囲まれた公園ではそれが何か特別な意味を持つ音のようだった。

 息を切らした二人は崩れ落ちるようにして木製のベンチに座り込んだ。

「こんなに走ったの、久しぶり」
 田宮は額の汗を拭いながら言う。花枝はブラウスの襟をつかんで中に風を送り込んだ。
 熱い。そして疲れた。
 これだけの距離を走ったのだから当たり前だけれど、不快な感覚はなかった。むしろ離任式の後から溜まっていた薄暗い煙が全て抜けてしまったような爽快感で満ち満ちていた。
 しばらく二人は息を整え、空を静かに眺めていた。桜の花びらが雲ひとつない空を舞っていくように、疲れが全て青色の向こうに吸い込まれていくようだった。

「花枝ちゃん」
「なに?」

「これからどうする?」

「どうしよっか」
 また考えていなかった。

「この格好じゃあ街の方にもいけないしね」
「そういえばそうだ」
 今はただ何も考えないでいようと思った。いずれはきっと考えなければならない時が来るだろう。
「海でも見に行きたいね」
「海かぁ、海はちょっと遠いよ」
「うん。海じゃなくてもいい。どこか遠くに行きたい。すっごい遠く」


「じゃあ、行ける所まで行きますか」

「行きましょう」
 その時までは、気楽にいこう。この一年を乗り切るために。








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*おまけ*
 本編とも前回のおまけとも全く関係ありません。


 窓の外は青と白と桜色が伸びやかに輝いているというのに、花枝の心は一向に晴れる気配がない。
 田宮は、先生は、今何をしているんだろう。




 翌日、教室に入ると先生が何事もなかったかのように田宮の席に座っていた。

「何で居んの!?」
「え?」
「台無し! 今までの展開台無し!!!」