ハナミチ 2


 花枝はいつもクラスの中のどの輪にも交わっていなかったので、
そう言う情報にはとんと疎かったが、 それは目で見えるほどの輪郭を浮かび上がらせていた。

 授業の空気がさっきと違う。

 花枝の学校はこの周辺では有名な進学校だ。
他の学校がどのような授業かは知らないけれど、このような授業態度は
非常に珍しい。
一体どういう風の吹き回しか
などと考えながら教室の隅にある自分の机の上に顎を乗せ、目線でクラスを見渡す。
現代文の授業なのに堂々と数学の問題集を取り出し、せっせと取り組む秋山。
つまらなさそうに携帯電話をいじる佐藤。
十代向けのファッション誌を読む三浦。
橋井とだべる柳瀬川。
イヤフォンをつけて、机の上に突っ伏す山田。
マスカラと必死に格闘する間宮。

……。


 関わりは皆無だというのに、何故だか全員の顔と名前が一致するのだから我ながら阿呆臭い。

あとそれから

一番前の席で熱心に現代文教師、ちなみにうちのクラス担任を見つめる
田宮。
 あいつだけは前と変わらないようだ。
(前の田宮をそんなに知っているとは思えなかったが)
けれど他の全員は明らかに授業を怠惰している。それなのに先生は注意する気配も見せない。

 まぁ知った事では無いな、と自前の腕枕で再び安らかな眠りの中へと急速に落ちた。
窓の外では静かな梅雨の雨が降り注ぎ、グラウンドの水溜りにゆっくりと波紋を広がらせていた。






「あんたどういうつもりなわけ?」

久々に雨が止み、強い陽射しが強引に大地を温めていた。
そんな気持ちの良い放課後にあまり気持ちの良くはない声が久々の晴れ間に響いた。

 花枝は部活もやっていないし、家に帰ってもろくな事がないので、学校にある図書館で下校時刻までを潰していた。
図書館は本来本を読んだり勉強をしたりする場所だが、花枝はそれ以外にも『瞑想』したりもする。
一見眠っているように見えるが、それはあくまで自己を高めるための瞑想であり、
いくら寝息を立てようとも、こくりこくりという睡眠中の人間特有の行動を見せたとしても
それは『瞑想』なのである。
あまりに瞑想に集中するあまり、たまによだれをたらすこともあるが、
決して眠っているわけではない。

 ただ、瞑想中は司書の人にものすごい目で見られるために、最近はちゃんと本も読むようにしている。
手にするジャンルは古典文学からライトノベルまで幅広くカヴァーしているが、
特別面白いとも思わなかった。
元々読書は大して好きではないのだ。
 読んだとしても、本来の絵の色の十パーセントも出ていない画集や、
くだらない能書きをたれる美術書程度だった。

 いつもの通り、タイトルにインパクトがあったものを適当に数点選び、机の上で瞑想にふけっていると、
先ほどの怒号と言うほどではないにせよ負に固められた声が窓越しに聞こえてきた。
迷惑極まりない。
 花枝は目をこすり、口元をぬぐってからその窓の方にぼやける視線をうつした。
そこに人の姿はなかったので、面倒だったが窓に近づき、そこからわずかに身を乗り出した。
「なんとか言ったら?」
「そんな事する意味無いからやらないだけ」
「あぁん?!」
 田宮が柳瀬川ご一行(柳瀬川、橋井、赤木、平林という、少し派手な面子だ)にからまれている。
見事にぐるりと半円を描いたフォーメーションで、田宮の背には校舎の壁が高々聳え立つ。
なんという連係プレイ。まるでヴェロキラプトル。
しかしヴェロキラプトルよ、その獲物はどうやら随分肝が座っているぞ。
命の危機が迫り来るなか、平然とした表情でヴェロキラプトルに立ち向かうとは、
あのように華奢な体をしていながらもティラノサウルスか。
ってあれは本当は足が遅かったんだっけ。


とまぁそんな生半可な恐竜知識はどうでもいいとして、
やはり放置してはまずい状況ではなかろうか。
それにヴェロキラプトルがティラノサウルスを噛み殺すことだってあったはずだ。
そんな事に少しだけ迷っている間も、むこうのやりとりは進む。

「そんな馬鹿らしいことをして何になるって言うの。小学生じゃああるまいに。それに理由もよくわからない」
「アイツがウザいから。理由なんてそれだけあれば十分じゃないの?」
平然とした顔で柳瀬川が言う。綺麗な顔して性格はきつい。
「ウザい?? 随分と便利な言葉だわね。たった一言で全部の行動の理由でなるんだもの」
「何だよテメエ、わけわかんねーこと言ってんじゃねぇよ」
「あんたの足りない脳みそをそいつのせーにするんじゃねぇ」

五人が一斉にこちらを向く。口を出すのはやめようと決めたところだったのだけれど、
こんな天気の日にはあまりにも不釣合いで不愉快だ。
その気分を少しぐらい晴らさせてもらうのもまた良いでは無いか。
 花枝は窓から飛び降りて(無論であるが、図書館は一階に位置している)近くに寄った。
一行は突然の異物の登場に驚き、少し後ずさりしながらも毅然とした態度で花枝を迎えた。
「何?汐見さんには関係ないでしょ?」
柳瀬川が早速突っ返してきた。
「うるせえな。図書館ではお静かにって教わんなかったか?
 あたしは眠いんだ。静かにしてくれないか。それにここの司書さん怖いぞ」
「あなたが眠かろうとなんだろうと関係ないでしょ。それにあなたも十分うるさいよ」
 って、擁護したはずの田宮に批難されるとはどういうこった。
確かにごもっともではあるけれど。

「とりあえず弱いものいじめっていう歳でもないだろ。その辺にして――」
「失礼ね。これは弱いものいじめなんかじゃないんですけど」
「田宮サン、あたしはあんたを庇ってやっているんだ。少しは黙っていてくれないか」
 いつのまにか対立構造が食い違うという素早い展開に柳瀬川一行は少し戸惑っていた。
「私が弱いだなんて聞き捨てならない。撤回してくれない?」
「実際はどうあれ、あれはそう見えるだろ」
「私はこの子達のチャチな先生いじめについてたしなめていただけよ」
「あぁん?!」
先生いじめと聞いてようやく最近の授業放棄について納得できた。
なるほど。たしかにチャチだ。

「お前のそう言うところがうぜーんだよ!なんなわけ?
 人を馬鹿にするようにさ!」
「まぁまぁ、馬鹿じゃないなら落ち着きなさいって」
 芝居がかった声はわざと彼女らを煽っているのだろうか。
「自分一人はいい子チャン?ハッ。随分エラいのね。
 だからみんなからハブられてんじゃん」
「悪い事だって言うのは分かっているんだ。ハブられる?上等。
 んなもん痛くも痒くもないってば」
「てめっ」
「あ゛ーーーー少し黙っとけ」
 この場に割り込んだ事を激しく後悔した。田宮は多分他の誰の助けも必要としていないのだろう。
「とりあえずよくわからんが、あんまりこういうのはよくない。
 四対一っていうのも卑怯くさい。だからほら、サシでやれ。
 後の事は好きにしてくれ。あたしは知らん。寝る」
 とりあえずこの場を去るためにまくし立て上げる。すると平林がぼそっと呟く
「そうよね。
 だってあなただってうちのクラスの人間じゃあないもの」
 他の三人がほとんど同時に吹き出す。
 気に障る笑い声だったが、花枝には否定する事はできないし、そんな気も今更起きなかった。
それも滑稽なまでに事実。このクラスになってしばらく経つが、花枝は他の誰かと必要以上に関わろうとしていない。
それは一年の時もそうで、いわゆる昔からのスタイルだ。
触れる者に対する鋭利な態度ゆえ、勘違いして誰も近寄らないのが原因だと自覚していても、
今更過ぎて直すつもりもない。

「んな事ぁどうでもいい。あたしも田宮サンも協調性がないのは悪いんだと思う。
 クラスの一員じゃなくてもいいから、これ以上そういう人間に関わるのはよせ」
「そうするつもりよ。そうするつもりだった」
「そうそう。せめて汐見さんみたくおとなしくしてくれてりゃ、
あたしたちだってこんなことしたりしないっつーの」
 一行が口々に反論する。
柳瀬川が最後に
「少し目障りなのよ、田宮さん。なんだかわざわざアイツに話しかけているみたいで」
「そんなこと関係ないでしょ」
「前は大して話もしてなかったじゃない。私らが無視し始めたとたんに仲良くなって」
「あー、だからもうここらにしとけって言ってんだろ」
あたしはもう帰りたいんだよ。







「意外と熱血漢なのね。汐見さんって」
 まだ言い足りなさそうな一行の背中を見送りながら田宮は呟く。
「『漢』じゃねぇし、あたしの目の前でうろつかれるのが嫌なだけだ」
 興味なさげにふぅん、と言うと、田宮はさっさと一行が去ったほうと反対側へ向かった。
「おいコラ。礼の一つも無しかい」
「助けてもらう必要なんてなかった。
 あなたのおせっかいなんじゃないの?」
 腹の中が熱く急沸し、その後姿に思い切り蹴りを食らわせたいと思った。
確かに感謝されたくて行動を起こしたわけでは無いけれど、
そこまで言われて黙っている筋合いは無い。
「田宮サン。確かにあいつ等のやり方は陰険だし、褒められたもんじゃない。
 だけど、あんたにも問題があるのも事実なんじゃないか?
 今回は口実を見つけられたから行動に移しただけに見えるんだけど」

 花枝を上から下まで眺めてから
「ご心配どうも」
その前後に色々な言葉を端折り、それだけ言い残して帰っていった。




「鼻持ちならない女だと思ったよ」
「ん?」
「田宮と初めて話した時」
 ああ、と誤魔化すような笑みを作り、平日の昼間だと言うのに交通量の多い通りの歩道を歩く。
田宮は胸元に付けていた「卒業おめでとう」の造花を手の中で転がし、
冷たい空気の中に浮かぶ太陽にかざす。

「あのころは荒れてたしね。周りの人間はみんな警戒してたなァ」
くるりと半回転し、「先生以外はね」と付け加える。



 先生は「暮凪(くれなぎ)」という苗字だった。
苗字のインパクトに負けて、下の名前は覚えていない。
けれど他の先生がいる時にしか「暮凪先生」と呼ばないし、
一件があってから、二人にとっては彼のみが「先生」なのだった。

 彼は現代文を教えており、柔らかな物腰でいつも静かに笑っているような人間だ。
そう言えば聞こえは良いが、優柔不断で自己表現が苦手で、
他人に嫌われないように曖昧に笑っているだけのような気がして、
当初花枝はあまり好きではなかった。

だからと言って先生イビリなんて幼稚な行為を肯定する事はしたくなかった。
しかしどうにも注意一つしない暮凪の態度が気に食わなかったので、どちらも放っておくことにした。
ただ一人、田宮だけが真面目な授業を。






「失礼します」
「あぁ、汐見君。まあこちらに座ってください」

「用件てなんですか。つか、早く帰りたいんですケドも」

田宮が柳瀬川一行にからまれてから約半月。
期末テストも終わり、あとは夏休みを指折り数えるだけと言うある日。
暮凪に呼び出しを喰らった。
「そんなに構えないでくれないか。
 本当に悪いのだけれどね、ちょっと君に頼みがあるんです」
「お断りします」
教師の頼みなど、どうせろくでもなくて面倒くさいに決まっている。

「君は夏休み、アルバイトの予定はありますか?」
「あの。お断りしますと言ったんですけど。
 それにうちの学校はバイト禁止ですよね」
「いや、君ならそのくらいの事はなんとも思っていないんじゃないかなあと思いまして」
「これでも結構真面目なんです」
 冗談じゃない。本当だ。冗談じゃないぞ、このボケジジイ。
心の中で悪態をつくが、きっと表情にも出ていただろう。
「ということは夏休みは暇と言う事だ」
「勝手に決め付けないでくれませんか」
「汐見君は確か部活も入ってなかったと思うんですけど」
「部活とバイトが高校二年生の夏休みの全てじゃないでしょう」
「じゃあ何か予定が?」




花枝はスケジュール帳などというものは所持していないが、もしあったのなら、
彼女の高校二年生の夏休みは白紙だった。



「じ…………受験勉強?とか」
 疑問系を思わず入れてしまった。
そんなもんする気ないんだけど。

「その邪魔にならない程度ですから。
 気晴らしにもなりますよ」




「あ、ほら。両親の田舎に帰ったり」
 まさか小学生じゃあるまいに。
 小学生の頃でも行きたいとは思わなかったけれど。

「四十日間いるんですか?」

「……いえ」

「だったらお願いしてもいいですよね?」

「……最初からやらせるつもりですよね」
暮凪はにっこり笑った。
この積極性をクラスの方に向けていただきたい。

「それで、わたくしめは何をご奉仕すればよろしいのでしょうか」
「なんてことはないよ」

「絵を描いて欲しいんだ」




『絵』という単語が出て、花枝の体の中心から寒気が全身に行き渡るように放射した。
ドミノ倒しのように体の隅々まで伝達していく。


「お断りします」
「いいじゃないですか別に」
「嫌です」
「君は確か中学の時コンクールに入選していましたよね。ですから」
「絶対に、嫌、です――――」
「上手いとか下手とかは気にしなくて」
「嫌だって言っているだろ!!」
 まるで自分の喉から雷鳴が轟いたかのように、張り詰めた大きな声が出た。
全身が拒絶する。
絵というものに。

 職員室にいた他の教員も手を止め、唖然とした表情で二人の方を見ていた。
暮凪もきょとんとしている。


職員室の電話が鳴り、時間が動き始めた。

「ごめんなさい。失礼します」

なるべく誰の顔も見ないように俯きながら走って職員室を出た。

 その間中、ずっと『先生』の顔が頭の中を漂っていた。




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