絵はもう描かないと、心にそう決めていた。 絵を描く喜びというものは中学三年の時にもう二度と溶け出たりする事など無いよう、しっかりと厚い氷を張って封印したのだ。 今でも極希にではあるが絵筆を握りたいという衝動がフラッシュバックするように現れる事がある。けれど、その一線は決して越えられない。 あの日に決めたのだ。 「私が絵を描く意味なんて、もうどこにもない」 息が出来ない。 どれだけ息を吸い込んでも肺が苦しく、酸素を吸えているのかすら分からない。 日頃、ろくに体を動かしていないのだからすぐ息が上がるのは目に見えている事だと言うのに、こんなにもがむしゃらに走ってしまった。 いや 逃げ出してしまった。 自己嫌悪と疲労感が足元からじわじわと押し寄せ、いつしか花枝はその場に座り込んでいた。 今までどうやってここに来たかはわからないが、無意識の内に暮凪の居た職員棟からずいぶん離れた学校の玄関まで走ってきていたようだ。 時が経つにつれ、少しずつ脈拍も正常にもどっていく。 もたれかかったコンクリートの壁の冷たさを感じながら、ゆっくりとばらばらになった自分を組み立てていく。 (絵……か) 左手を顔の前にかざしてゆっくりと握りしめてみた。 ぎこちなく閉じたり開いたりする手を見ていると、ポンプで水をくみ上げているみたいに次々と嫌な思い出が湧き出てくる 息を整えてゆっくり立ち上がった。 めまいがし、両手を壁につけて体勢を整える。一回だけ壁に頭をぶつけたら鈍い音と同時に痛みが頭に響いていった。 大丈夫。大丈夫。大丈夫。 わたしはまだだいじょうぶだ。 絵の虜になったのは、今まで生きてきた人生のなかのほんの瞬くほどの間でしかなかったのだなぁ と、何もすることの無い、暑いだけの夏休みに考えていた。 暮凪に頼まれた日から終業式まで、何度も彼に呼び止められそうになるのを逃げ回り ようやく夏休みまでこぎつけ、ひと安心できると思っていたのに 頭の中はそのことばかり考えていた。 正直自分でも驚いていたのだ。 「絵を描く」という言葉から連想されるのは嫌な思い出だけだというのに それと同時に得体の知れない変な感覚も湧き上がってきている。 いっそ勢いに任せて描いたとしたら…… 考えるだけにしてやめた。どうせ私の左手は動かない。 あの人の呪いが、この左手には刻まれているのだから―――― うかつだった。 夏休み中に取り組むと言うのだからその夏休みを乗り切れば頼まれることももうないと そう甘く見ていた。 夏休みの間に暮凪と関わることなど絶対に無いとうっかり思い込んでいた。 「汐見君の成績なら、ここの大学くらい入れると思いますよ。 これからも気を抜かずに勉強してください」 「はぁ」 どうして二者面談が夏休みにまで食い込むんだ。 ほかの連中は一学期中には終わっていたというのにそんなの理不尽じゃないか。 下唇を噛み締めながらじっと面談が終わるのを耐えていた。一分も経っていないうちに時計を見、秒単位で残り時間を数えていた。 と、同時に、いかにして彼に捕まることなく帰れるかを必死に考えた。 「それで汐見君」 「話はこれで終わりですよね。帰ります」 「まぁまぁ」 暮凪はくっと花枝の袖をつかみ、相変わらず笑顔のままではあるが、さながらすっぽんのごとき『放してたまるか』といった強固な意志が含まれているのを見て取れた。 「わかりましたよ。逃げませんからとりあえずその手を放してください」 その答えに満足したようで、すっぽん魂を持つ暮凪はその手を袖から放した。 「絵を描いてくれなくてもいいんです」 「?」 「ただ、彼女のそばにいてあげてくれませんか」 かのじょ、といった言葉の響きがなんだかすごく異様で 思わず反抗するのも忘れてその場に立ち尽くした。 彼女とは誰か―― いや、考えるまでも無かった。クラス内での暮凪に対する態度を見た後で『彼女』の他に誰がいるだろう。 「田宮君、頑張ってますね」 美術室の片隅に田宮がいた。 暮凪の声に振り向き立ち上がるが、暮凪のすぐ後ろに花枝がいるのを確認するとほんの少し表情がこわばった。あれ以来警戒され続けているようだ。 それでも花枝は首をわずかに前へ傾けて軽い会釈をする。 「汐見君が応援に来てくれたんですよ」 「そうなんですか?」 そんなつもりはない。ただ無理矢理連れてこられてきただけだ。 反論は心の中で消化して床に広がる巨大な縦長のカンバスを見た。 カンバスと言っても油絵で実際に使うようなそれではなく、 とても簡素な、適当に組み立てた木材に白い布切れを付けただけのものだ。カンバスと言うより看板。 「何をやっているんですか?これ」 「ほら、うちのクラスは文化祭の不参加クラスだろう。だからせめて入り口に置く看板ぐらいは作ろうかと、この前のホームルームで言ったんだけどもね」 耳が痛い。そんなことを学校にいる時間の半分を睡眠時間にあてている人間が知るはずもあるまい。 「けれど、田宮君しか名乗り出てくれなかったから」 「それで、どうして私が」 「偶然、君が昔絵を描いていたと言う話を聞いたから」 偶然。腹の底から可笑しさがこみ上げて、おもわず失笑するところだった。しかしかすかに笑みはこぼれただろう。 「偶然?」 花枝は躊躇いもせずに暮凪に詰め寄る。 まるで翁の面みたいな笑顔の氏を眺めていると、心の奥にある何かがじりじり沸騰し始める。 暮凪は嫌いな人にはとことん嫌われるようなタイプだと思う。 「偶然ね。それはすごい偶然だ」 「僕のネットワークをなめちゃいけない。こう見えて顔は広いんだよ。他の学校の先生とのコネクションもあるしね」 「あなたのネットワークも大した物では無いですね。 私はもうずっと絵なんて描いていません。それも自主的に描こうとしていないんです。 あなたのネットワークじゃそのくらいの情報もつかめなかったってわけでしょ」 一通りつらつらと反撃してみても、能面が割れる事はなく、静かに構えたままだ。 それどころか不敵な口調で、 「知っている」 彼は、そう言い放った。 その一言が花枝の中の火力を強め、一気に沸騰は頂点に達した。 一歩強く踏み込み、勢い良く拳を振り上げる。 「せんせ……!」 田宮の悲鳴が、人気のない教室に、廊下に、校舎に響いた。 花枝の拳は本当に触れるか否かのところで静止していた。 田宮が止めたから、というわけでは決してない。ただの理性のブレーキだ。 体温が徐々に下がってくると頭は再び回転をはじめる。 「でたらめですね」 それだけ言うのが精一杯だった。 しかし、教師を殴るというのは問題になる。落ち着かなければ、と自分をなだめ、拳を下ろした。 「いいや、事実だけを知っているだけさ」 こんな状況に陥っても能面は穏やかだ。殴りかかっても全く動じる様子もなく 身構えもしないというのはこっちがひやりとする。 「ただ絵を描かなくなった経緯を知っているだけで、どうして描く気になれないのかは全く知らない。 推測はできるけれど、それが正解かどうかは知らないし、君が教えてくれるとも思えないしね」 「あなたがどこまで私の事を知っているかは知りません。 だけれどもう私に構わないでもらえませんか。だいぶ迷惑です」 「君には才能があるんだよ」 「君は才能があるね」 「それはどんな理由があったって埋もれたまま終わらせるにはもったいない」 「もっと絵を描き続ければきっと君はいい線行くと思うなあ」 「君はとてもきれいな絵を描く」 「君はとてもきれな」 ―――― わたしは ―――― 「私はそんな言葉を信じません」 もう二度と、そんな手にのるものか。背筋をしっかりとのばして高らかに宣誓する。 「先生、私別に一人で平気です」 参謀が忠告するように田宮が暮凪に囁いた。田宮は依然として花枝の事を危険視しているようだったが、 暮凪には全くそんなそぶりも無い。先ほどの事がショッキングで、田宮が花枝の事を警戒するのは理解できるけれど、何故この暮凪と言う男はそういう類の感情がないのだろう。 「汐見さんも嫌がってるみたいですし。無理は良くないと思います」 その言葉は花枝を思いやっている風に聞こえるが、彼女の瞳にそんな色はない。 「田宮さんの言うとおりだと思います。ということで私はもう用無しですよね?」 「いいやだめだ」 柔らかな物腰で、けれど断固たる意志で言い放つ。 どうしてこの強引さをクラスの面々の前で発揮できないのだ。苛立たしさは募る一方で、ここにいればいるほど暮凪の事を嫌いになってしまうかもしれない。 一刻も早くこの場から去りたいけれど、暮凪は頷きながら花枝の肩に手をかける。 「ではこうしましょう」 「は?」 「アイスを買ってきます。だから君達はここで待っていてください」 「いや……あの」 「それじゃあ田宮くん、よろしくおねがいします。」 「はい」 そう言い残して暮凪は美術室を出た。 「帰るなら今なんじゃないの?」 「…………」 美術室に取り残された二人。はなから和気藹々するつもりなど無かったが、この言い方はあんまりだ。しかし確かに正論でもあった。 「まぁ下書きぐらい見てから帰ってもバチはあたらないでしょう」 花枝はなるべく田宮の顔を見ないように、床に置かれていた作品に数歩近づいて行く。 「へぇ」 滑らかな曲線が重ねられその中に女性らしきものが描かれ、 その上から『第53回 一松山高校 文化祭』とレタリングされている。 そのすぐそばに置かれていたスケッチブックを見るに、それが風をモチーフにしているようだった。 花枝の中には即座にその色のイメージが出来上がり、もう少しいじればなかなかの物が出来そうだなどと考えていた。 「まぁいいんじゃない。でもちょっと『祭』っていう文字のレタリングが崩れてる。『校』っていうのもちょっと怪しいな。」 「レタリングって苦手なの。そんなにえらそうに言うなら自分でやれば?」 自分でもお節介だとわかっていながら、そういう細かいところの妥協ができない性質だった。 いつだって完璧を目指さなくちゃいけない。 中途半端じゃダメなんだ。完璧でなければ、あの人は決して褒めてくれない。 花枝はそんな事を思い出すと、喉の奥の方が苦くなった。 「もう一回やりなおせ。中心の線を意識すればもう少しはマシになる」 鉛筆をほうり投げ、無理矢理に押し付けると田宮はむくれながら無言の非難を花枝に送る。 花枝自身と田宮に対して苦笑した。 「一体何を考えているんだかな」 椅子の上から田宮の作業する様子を見ていた花枝だったが、 吐き出した息と共にそんな言葉が漏れた。 「何が?」 「暮凪。」 「……先生がどうしたの?」 「だっておかしいだろ。なんであたしなんかに構うんだ」 『校』のレタリングはそれなりに良くなり、『祭』のレタリングにとりかかっているようだ。 花枝の言っている事が聞こえない振りをしているかのようにもくもくと鉛筆を動かし続けている。 「汐見さんは、案外臆病なのね」 「なんだそれ」 田宮はすっと立ち上がり、夏の日差しを背に受けて影に包まれ、私の方を見た。 その素朴な神秘さはどこか花枝をぎくりとさせるものがある。 「怖い?自分じゃない人が」 「何言ってんのあんた」 「優しくされるのが怖いの?」 田宮が顔を上げると花枝の頭の中を覗きこむかのように鋭い目つきをしていた。 「私はあなたなんかと似ていない」 あまりに突飛で脈絡の無い文章を投げかけられ、花枝はしばし豆鉄砲を食ったかのような状態に陥らざるを得なかった。 「……何の事?」 「いやあ暑い暑い。本当にいやになるね、この暑さ」 ドアを豪快に開けながら妙なタイミングで暮凪が帰ってきた。 「おかえりなさい」 まるで何事も無かったかのように暮凪を迎え入れる。 「ただいま」 暮凪は白いビニール袋を掲げ、にっこりと微笑みかけた。 (それにしてもおかえりなさい、ただいま、なんて父娘みたいだ) ――私と田宮が似てる?―― 「汐見君はガリガリくんでいいですか?」 それはどういう意味なのだろうか。 「ハーゲンダッツじゃないんですか?」 「スーパーカップもありますよ」 「ガリガリくんでいいです」 田宮は早々にカキ氷を開けていた。 花枝は左手でアイスを受け取りながら、必死に思考を巡らせてあんな性悪女と自分との共通点を探していた。 果たして似ているのだろうか。ガリガリくんのカキ氷の部分にたどり着く頃には、『そんなことはない』という結論が出た。 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ |