アイスを食べ終えた二人は早速看板制作に取り組む事になった。花枝も早々に帰ればいいと思っていたのだけれど おごられた分くらいは働こうと、非常に不本意ではあったが流れ的にそういうことになってしまった。 「えんぴつ」 「え?」 「えんぴつよこせって言ってるの」 できるだけ面倒くさそうに、しょうがないからといった口ぶりで左手を差し出した。 田宮の顔を横目で見ると、何かを必死でこらえているようだ。二度頷いて2Bの鉛筆をその手に乗せた。 「おかしいかよ」 「だいぶおかしい」 鉛筆を右手に持ち替え、すっとひざを折った。 『祭』のレタリングにとりかかる。レタリングなのだから絵ではないし、特別ひねる必要も無いのだから本当に字を書いているという感覚が強い。 こんなもの慣れてしまえば線なんて引かなくても中心線が見えてくる。箱の中にきちんと収める、それだけのことなのだ。 「あれ」 「ん?」 「汐見さんは左利きなんじゃないの?」 「どうして?」 「だって、アイスを受け取るときも鉛筆を受け取った時も左手だった」 「……」 花枝は少し、どう説明すればいいのか、説明してもいいものなのか、反応に戸惑った。 絶対誰にもしゃべってはならないと思う一方で誰かにしゃべってしまいたいとも思う。だけれどきっと上手く言葉にする事は出来ないだろう。 「やっぱり右利きに矯正されたりしたの?」 「違うよ」 確かに花枝は元々両利きでどちらとも不自由なく使うことができる。 しかし字を書く時も左手だし、食事の時も本のページをめくるときも左だ。 右手を使う事に意味があるのではない。 「私の左手は、呪われているから」 「?」 左手の呪い。夕焼けが美しかったあの日、記憶に刷りこまれて生涯消える事はないだろう『あの記憶』の呪い―――。 それが花枝の左手には刻まれ、封じ込められているのだ。 「なんでもないよ。本当はそんな格好いいものじゃない」 自嘲しながら再び作業に戻り、うな垂れる。 本当はもっとみっともなくて、みじめったらしくて、どうしようもなく下らないようなものだ。 『呪い』という言葉で飾り立て、自分を正当化しているに過ぎないというのは花枝自身もよくわかっている。 そんな花枝を田宮はものめずらしい物を見るように眺めていた。 「汐見さんは案外乙女なのね」 「はい?」 自分に向けられた『おとめ』という単語。 傷心の淵に立っていたというのに、そんな十数年間生きてきた中で一度も向けられた事もない単語をなげかけられたら、ますますどういう反応を取っていいのかわからなくなってしまっていた。 ――おとめ? 「いや、なんとなく言う事とかやることとかが乙女だなぁって」 おとめ……。よりにもよって乙女。 「お前なぁ」 「そういえば下の名前も『花枝』ってかわいらしい名前だしね。 顔のわりに女の子らしいんだ」 「顔のわりにって言うな」 顔の筋肉が痙攣した。この女は…………。 「花枝ちゃん、ねこ!」 ふっと『現在』の方へ髪を引っ張られた。前を歩いていた田宮は幸せそうな笑顔でブロック塀の上で伸びをする猫を指差している。 茶色と白の丸々太った猫だった。きっと誰かに飼われているのだろう。野良猫にはない伸びやかさをその贅肉と共に蓄えている風に見えた。 猫。 気分屋で気まぐれで自分勝手でひねくれてて けれど懐くと擦り寄ってくる。 そんなわけのわからない女が田宮なのだ。 「猫ぐらいで騒ぐなよ十八歳。」 「ねーこーねーこー」 迷惑そうな顔をして、その猫はひょいとしなやかに筋肉を躍動させて塀の向こうへと消えてしまった。 「ああん、つれないなあ。でもかわいい」 「猫好きの心理ってわからない」 「そう?」 それって都合のいい愛じゃないだろうか。 自分が好きなときにちょうどいい相手を利用して。 それは一時的に自分の中にあいた空白を雨風からしのぐような、いわば応急処置的なものとしか思えないのだ。 「べたべたしているだけじゃ刺激が足りないもの。たまには突き放してみないとね」 田宮はそういうけれど。 花枝は自分の胸の中に何かが根付いていくのを確かに感じ取っていた。 自分でも本当に説明がつかないけれど、その次の日も、その次の日も美術室に通っていた。 それでもやはり絵は描かないし、ただ田宮にアドバイスしたり(野次とも言う)暮凪が淹れてくれるアイスコーヒーをちびちび飲んだり そんな風にして一日を潰したりしている。 今までの非生産的な毎日よりかはだいぶ健全だとは思うけれど、本当にここに居ても良いのか、そう思うこともある。 「汐見さん。やっぱり構図が微妙だと思うんだけれど」 「いいんじゃないか?そんなんわかる奴ぁどうせいないんだから」 「この前はレタリングがちょっとおかしいだけで文句言ったくせに」 「あれはひどすぎ。それにあの程度ならあんたでも直せると思ったからだよ」 「うーん。今、なんかひどいこと言われてるような気がするんだけど」 「被害妄想だ」 田宮の整った顔がくしゃっとゆがむ。ゆがむというのはマイナス的な表現なのにその顔は花枝の中の何かをより成長させたように感じる。 それは太陽の光か。神の救いか。 きりりと左腕が痛んだ。眉を少しだけ寄せ、悟られないように田宮から顔をそらす。 おいおい、一体何やってんだかなぁ。 ゆっくりと左手を握り締め、開く。深い息をして心を落ち着かせる。 痛みそのものは大した物ではない。 ただ、その痛みは花枝の心に語りかける。 独りでいいって言ってなかったっけ? 「………………」 私を理解してくれる人なんてどこにもいないんだよ。 「………………」 私はいつだって孤独だ。 「………………」 心なんて許さないほうが良い。 「………………」 だって私の事なんて誰も好きになっちゃくれないんだから。 「………………」 あのときの事、忘れちゃったとでも言うの?。 「………………」 左手にかけた呪いは忘れちゃいけないんだ。 「………………」 もう、傷つきたくないんだろ。 「そんなことはわかってる」 「ん?何?」 「何が?」 「今なんか言わなかった?」 「いや」 「そっか。なんでもない。聞き間違い」 花枝は当たり障りの無いような、特別印象など与えない微笑を浮かべ、椅子に腰を下ろした。 わかっちゃいないよ いよいよ看板は着色の工程に入った。 全体的に緑を基調とした、落ち着いた感じに仕上げる予定だ。無論、花枝は横で見ているだけにしている。 このころから、ずっと花枝はある事を考えていた。 「汐見さん、色ってこんな感じでいい?」 「いいんじゃないか」 私は彼女が嫌いだ 「もうちょっと黄緑っぽい方がいいかなぁと思うんだけど」 「後で多少は修正できるから。それで塗ってみたら?」 「そうだね。うん、ありがとう」 彼女が悪い人間ではないというのはここ数日で理解できた。 「やっぱ汐見さんに来てもらって良かったよ」 「別に大した事してないじゃんか」 「そうでもないって」 でも、どうしても彼女の事が嫌いだ。暮凪ともども私に構わないで欲しい。そう思った。 そう。だから 終わりにしてしまおうと、思った。 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ |