ハナミチ 5




「頑張っていますねえ」
 クーラーのきいてない廊下の温かな空気を連れて、美術室のドアから能面が顔を覗かせた。
「先生」
 俯いて作業を続けていた田宮はばねのように顔をあげ、口元を緩ます。非常に緩やかな足取りでこちらに近付いてくると、暮凪はその能面の前に白いビニール袋をかざして、「お昼にしましょう」と、優しく微笑んだ。


 何を買ってきたのかと思い、花枝がそのビニール袋を覗きこんでみれば、中には飲み物しか入っていないようだった。何かしっかりしたものを期待していたが 仕方が無いと思い、財布を取り出して近くのコンビニエンスストアまで走ろうとドアの方に向かう。が、田宮の呼び声に足を止められた。
 彼女は保冷用バックから水色と白のストライプの大きなボックスを取り出し、こちらに差し出している。
「何?」
「サンドウィッチ。一緒に食べようよ」
「いいよ。あたしコンビニで買ってくるから」
「人数分作っちゃったし。食べてくれないと困るんだけど」
 むくれながらボックスを開けると、中には色鮮やかなサンドウィッチがきれいに整頓されて収まっていた。
ハムとチーズとレタスをはさんだもの。トマトのスライスときゅうりをはさんだもの。たまご。パンは普通の食パンとライ麦パンがある。
実に美味しそうだったが、それを手に取るのは何故か気が引けていた。

 仲良くなんてしちゃいけない。
 仲良くなんてしちゃいけない。

頭の中でこだまのように反芻される言葉。
「余ったら捨てちゃわなきゃいけないでしょ。食べてよ」

「ほら、田宮君もそう言ってますから。田宮くんのサンドウィッチはおいしいですよ」


「じゃあ」
 諦めて、財布を鞄の中に戻し、ライ麦パンのハムサンドを取るとわずかに躊躇ってから一口かぶりつく。
ライ麦パンのいい香りが鼻に抜け、チーズのこくとハムの塩加減が舌の上に広がり、レタスが水々しくそれらの調和を取っていた。
「うまい」
 思わずそうこぼすと、満足したように田宮は笑った。

 その笑顔を見ていると、

 氷の溶ける音がした。

 心地よい。この奇妙な関係が心地よい、いつしかそう感じるようになっていた。もしかしたら今度は本物かもしれない、と。
『本当に?』

 けれど、もう決めたのだ。何もかも壊してしまおうと。

 田宮のまばゆい微笑を疎ましく思いながら、もう一つサンドウィッチに手を出した。





 痛みが定期的なリズムで脈を打ち、呪いは花枝の耳元で囁き続ける。
『やるなら今日だ』

わかってる。

『ちゃんと躊躇わずにやるんだよ』

わかってる。

『あんたはいつだって独りだ』

わかってる。

『それは自分で望んだ事なんだろう?』

わかってる。



「こんなもんかなぁ?」
 田宮は自分の背よりも高い看板を壁に立てかけ、上から下まで味わうように眺めると満足そうに笑った。
「まぁまぁこんなもんでしょ?」
「ああ、いいんじゃないか?」
 その笑顔を正視する事は出来なかった。今、田宮の嬉しそうな顔を見たら確実に決心は鈍ってしまうだろう。太陽のような笑顔に吸い込まれ、あまりの温かさにこの身を溶かされてしまいそうな気がする。
 蝋の羽を溶かされるだけでは済まないのだ。
だから、決して田宮の瞳を見てはならない。

「じゃあこれでお終い。汐見さん、ありがとね」
「あたしは何もしてない」
「そんなことないよ」
 あたしは、なにもしていない。むしろ

「そろそろ日も暮れるから、帰ろう」
「そうだね」


 西日が美術室に差し込む頃、道具をすべて片付け終え、鍵のしまる音と共に花枝の数少ない夏休みの予定の全てが終了した。
「お疲れ様」
 鍵を引き抜いた花枝に田宮が笑いかけた。花枝はなるべく目を見ないように 「お疲れ」とぶっきらぼうに言い捨てた。
 そして鍵をぶらつかせながら
「鍵はあたしが職員室に戻しておくから。先帰ってていいよ」
「そう。でも一緒に帰ろうよ」
「あんたとは方向逆だろ」
「そういやそうだ」

 玄関で別れ、田宮が見えなくなるまでその場で見送る。
田宮が完全にほとんど地に沈んでいる夕日の向こうに消えるのを見届けてから美術室へと踵をかえして、鍵を開け、再び職員室へと向かった。
 鍵を返せば美術室は鍵が『閉まってる』ことになる。
見回りが来るかもしれないが、それは完全下校の少し前のこと。その後は警備システムが作動するのでうかうかしていられないが、
そこまで時間を取る事ではない。

 学校の隅にある校舎の、一番奥にある美術室は普段から冷たい静けさの漂う場所だったが、この時間帯はそれ以上の寂しさがあり
まるで暗闇が音と熱を吸い取っているようだった。
 私はあいつを『殺』さなければならない。

 教師用の机の上にあった大きなはさみを手に取った。柄ではなく、刃と刃の付け根を、握るようにして持つ。
 頭の中では何度も自分がすべき行動を繰り返しシミュレートしてきた。
しかし、いざ『それ』の前に立つと、次第に膝が震えてくる。自分の息遣いさえも外に漏れ聞こえてしまうのではないかと心配するほどに息は荒く、部屋は静かだ。

 田宮の笑顔が次々と脳裏をよぎる。

 『ためらってはいけない』

 ああ、わかってる。


 それでも花枝の足はすくみ、握ったはさみは床と平行のままだった。
心臓の音も、生唾を飲み込む音も、左手が痛む音さえもリアルに聞こえる。

薄暗い部屋の中だというのに『それ』だけは光り輝いているように見えた。

 田宮が一生懸命に力を込めて作られた世界だ。彼女の光を受け継いでいるのかもしれない。


 花枝は、その世界を今、殺そうとしていた。

 そんな事をやっていいはずがない。
絵を描いていた花枝ならばわかる。あれだけの時間と手間をかけて仕上げた作品なのだ。
上手い下手は問題ではない。そこに込められた物こそが一番重要だ。
 そんな作品を赤の他人に深い意味もなく、しかも故意に壊されたとしたら、
どれだけの絶望と悲劇と憤怒を心に生むかは考えるまでもない。

 『だからこそ、やるんだ』

 呼吸が荒くなる度に、頭の中はどんどん空白に埋め尽くされていく。はさみはゆっくりと上昇し、先ほどよりも高い位置で床と水平になった。
 これを振り下ろせば、そのカンバスを突き破り、もう一振りで更に破れていくのは容易に想像できる。
同時に田宮の世界と、二人の間にあった絆と呼ぶほどでもない関係性が破られるだろう。


 田宮は、どんな顔をするだろうか。
どんな風に罵るだろうか。
 きっと花枝の人格を疑い、姿を見ることさえも忌むようになるかもしれない。


 私は、
 また
 ひとりになる


 怖い?怖くなんてないさ。

 はさみを、勢いに任せて振り下ろした。

 私は、いつだってひとりだった。

 はさみの先がそれを突き破る。








 その、一振りが深々と突き刺さると、感覚が一気に戻った。

 私は、とうとう、やってしまった。

 奥歯が小刻みに鳴りはじめる。もう後戻りは出来ないことを、今更に痛感した。

 次々に湧き出る罪悪感と自己嫌悪に眉をひそめた瞬間、けたたましい音が静寂を切り裂いた。
「!」


 ド ア が 開 い た 。


「―――――っあ」
 声が出なかった。『そいつ』の姿を確認した瞬間体に雷撃が走り、悲鳴に近い声を上げたはずなのに、声の尻尾がわずかにこぼれただけだった。
 足音が響き、その足音が無感情に花枝との距離をどんどん詰めた。
「何で」

 『そいつ』は穴の開いた絵をしばらく眺めたら、無表情のまま花枝からはさみをむしりとった。
花枝はその拍子によろめいて、したたかに机とぶつかった。
「何で」
 『そいつ』は何も言わず、はさみの切っ先を舐めるように見る。
 机についた花枝の掌はびっしりと汗をかき、心臓は早鐘を打って、髪の毛一本たりとも動かすことは出来なかった。
呼吸することも難しいそれはまるで金縛り。
 今この場所に来る事は絶対にないだろうと思っていた人物が、今この時には居て欲しくなかった人物がここにいる。
「なんで」
 もはや問いかけにもなっていないが、その投げかける言葉にも『そいつ』は反応しない。
 そして何をするかと思えば、


はさみを、振り上げた。

 目の前で何が繰り広げられているのか、空白な花枝の脳は受け付けようとはしなかった。
ただなんとも言えぬ不気味な光景が情報として頭に入ってくるが、それを解析して報告するような事はない。
報告などされたところで、正気でいられるはずはないのだが。


 だってそんな事は、絶対にありえない。


 はさみが布を突き破る、先ほどと同じ音。

 それが連なり、一定のリズムで重なっていく。

 絵が次々に壊されていく。

 ざくざく、びり。ざく ざく ばき。ざく。がっ。ざく。


 原型を留めないほどになった元・絵の上にはさみを放り、
その人物は細いため息をついた。
まるで何か面倒な仕事を一つやっつけたとでも言いたいような、つまらない作業を終わらせたとでも言うような、そんなため息。
 腰を抜かす花枝を一瞥もすることなく立ち去ろうとした。
「何で!」
 ドアの前で立ち止まると『そいつ』は振り返り、ようやく花枝と目が合った。
「何で……こんなことしたんだよ。お前が、お前が」
 何度か舌を噛んだというのに、痛みなどはまるで感じなかった。もっと柔らかで繊細な部分が痛みを叫んでいる。
それよりも求めるのは『答え』。
どうして、こいつが。



「何でだよ――――田宮!!

 田宮は静かに目を伏せた。
暗闇の中、うっすらとした月明かりが照らす田宮の顔には怒りも悲しみも驚きも、軽蔑も同情すらもない。
 それがどんな感情を抱かれるよりも花枝の首を絞め、喘がせた。

「やっぱり一緒に帰ろうと思ったんだ。だけど見当たらなかったからここかなって思って」
「そんな事、聞いてるんじゃない」


「何で」

 その声はあまりに頼りなくて、田宮の元まで届いたかどうかさえもわからない。田宮は少し言葉を選ぶように沈黙を作り、眉尻を下げながら「別に」とだけ呟いた。
「私はどうだって良かったんだ。ただ、一緒ににいられれば」


 魂が抜けてしまったような花枝をのこし、花枝と田宮の世界を遮るドアは閉められた。





※注意:ご飯を食べる前には必ず手を洗いましょう。手というのは綺麗に見えて意外とばっちいです。

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