ハナミチ 6




どうして。何で。

花枝の残りの二週間はその二言で塗りつぶされた。
あのあまりにも衝撃的な光景が、何度でも生々しくリピートできるほどまぶたの裏に焼きついていた。

 それは新学期にになってもなお変わることなく、胸焼けがするような二学期の朝を迎えた。

 クラスは夏休み前と何一つ変わっていないように思えた。だが花枝には何もかもが色と現実味を失っているように見える。 自分以外、本当はどこにも存在しないような空虚感、他人の微笑が陶器の仮面のように見える猜疑心。
談笑しあうその裏側の、小さな負の感情の大きなうねりが花枝の心に蔦みたく絡みついて息苦しさを誘発させていた。

 花枝と田宮は、夏休みの間にほんのわずかではあったが心の距離を縮める事が出来ていた。もし花枝があんな事をしなければきっとその後も続いていたのだろう。 花枝があんな過去を持っていなければ、きっと田宮とも仲良く出来ていたはずだ。

 けれど、それはもう壊れてしまった。壊してしまった。
 このクラスの人間がそんな事を知る由も無く、先生に媚を売る田宮と、何事にも無関心な花枝には何の接点もないと認識され続けているのだろう。
 夏休み、二人の間に何が起こったのかを知る者はこのクラスには存在しない。

 これで、良い。
この結末を望んだのは他ならぬ花枝自身なのだから。
これで良いのだ。
 胃がきりりと鋭利な痛みを発し、内臓がもだえるように波打つ感覚に耐える事が出来なくなって教室を出た。


 自分の居場所とはどこにあるのだろう。
 他人に赦され、その心の中にゆったりと腰を下ろすような場所。
 花枝は物心ついてからそのようなものを感じた事は一度もなかった。
家庭環境がほんの少し歪んでいて、無償の愛と呼ばれているものに飢えていた花枝にはそういうものを信じる事が出来なかった。
 過去にたった一つだけ感じる事のできた自分の居場所も、あっけなく他人に奪われた。
 そもそも自分の居場所なんて言うものは本当に存在しているのだろうか。そんな不確かでおぼろげなものを他の人々がどうして信じられるのかわからない。
手に取れば霧散してしまうようなそんなものを。

 窓の開け放たれた廊下昨日と変わらない夏の名残りの尾を引く、湿った風が吹いていた。何もかもが不快で不愉快。胸焼けはひどくなる一方だ


ふと

「おはよう」

 どこか懐かしいあの声が、耳に響く。

 顔を上げる花枝の前に、いつもと変わらぬ田宮が立っていた。

「今日も暑いね」
「あ」
 まるで、何も無かったように微笑む田宮が。
「え」
「えじゃないよ。あぁそうだ。花枝ちゃん」
 鼓動が高鳴る。
 水溜りに小さな石を投げ込んだ時のように、じわじわと沈殿した記憶が浮かび上がりフラッシュバックしていく。


 『 花枝ちゃん 』

「看板なんだけどさ、やっぱり花枝ちゃんにデザインしてもらおうかと思って。やっぱりあたしじゃ」
「なんて言った?」
「だから看板を」
「あたしの事を、なんて呼んだ?」

 かすかに震えながら言う花枝を見て、少し目を大きく見開きながら、その唇をゆっくりと動かした。見慣れた唇の動き。
「花枝ちゃん?」
「あたしのことを、そんな名前で呼ぶんじゃねぇ!」

 長い廊下に怒号が響く。
恥ずかしさなんて怒りともどかしさでどこかへ飛んでしまっていた。
ただ今目の前に居る存在が憎らしくて。
「何でそんな平気な顔していられるんだよ」
「……昨日の事?それなら別に気に」
「迷惑なのがわかんねーのかよ!お前も、あいつも!!」
「花枝ちゃん」
「いつまでも調子乗ってんじゃねぇよ。気持ち悪い。あたしは、お前みたいな人間」

 あたしは

「大っ嫌いなんだ」

 三人ほど突き飛ばしたかもしれない。もう誰かに気を使う余裕も無く花枝は取り乱して廊下を走り抜けた。

 精一杯の所まで踏ん張った。だから、泣いているのはきっと田宮からは見えなかっただろう。
気付いたら校舎の外、非常階段に続く扉の横に座りこんでいた。
 がむしゃらに泣きながら走ったために軽い過呼吸状態になり、ろくに息も出来なくなっていた。
もう、いっそ呼吸なんて止めて死んでしまおうか、ぐちゃぐちゃな頭の片隅でそんな思考だけが冷たく冴えていた。


『花枝ちゃん』

 どうしてその呼び名を知っているのだろう。

『君はすごく奇麗な絵を描くんだね』

 それは確かに花枝の名前であるのだから呼んでもなんら不思議ではない。
しかし驚くべき事に、未だかつて彼女の事を『花枝ちゃん』と呼んだ人間はたった一人しか居ないのだった。


「先生―――――」
 先生、先生、先生、先生、先生。先生、先生、先生、先生、先生、先生……。
どれだけ呼んでも答えてくれるはずが無いのにそれでも頭の中で必死に彼の名を呼び続けていた。
博巳先生―――――。







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