ハナミチ 7




 顔を膝にうずめたまま、ドアの開く音を聞いた。控えめで、突出する事を恐れているかのようにゆっくりとした音。 その音のように躊躇しながら「誰か」は花枝の横に腰を下ろす。
 体温が近づく。
「来るな」
 無常なまでに鋭くとがった牙を向け、そばに寄る者を威嚇する。俯きながら発せられるその声は、荒れ狂う業火のような冷たさを含有していた。
「何も出来ないくせに、あたしの隣なんかに座るな」
「……」
「笑って誤魔化すことぐらいしか出来ないくせに、あたしに近寄るな」
「汐見くん」

 暮凪は頭をかいた。やるせなさからと言うよりかはどうなだめたらいいか分からずにいるように。
 その中途半端な態度がますます花枝の中に煮えたぎるどうしようもなく惨めな怒りを加速させているという事に、彼は気付いていないのだろうか。

「始業式、どうしましょうか」

「……」

 何も答えない間が苦しいのか、どうせ来ないでしょうね。と独り言のように続けた。

「それじゃあ二人でサボっちゃいましょう」
「うるさい消えろ」
 努めて明るく振舞う暮凪を遠慮なく無下に斬り捨てる。
 今は、誰にも構って欲しくない。例え、どんな悩みも杖の一振りで解決してしまうような魔法使いが居たとしても、この傷にだけは触れて欲しくない。 どんな人間にも傍に居て欲しくない。その目にも晒したくは無い。
 そういう心境だった。例え怠惰だ臆病だと言われようと、もうどんな小さな波にもぶつかりたくは無いのだ。だからこうして膝を抱いている。
 だというのに
「つれないなぁ。一人よりも二人、二人よりも三人って言うでしょう」
「あたしは一人で良い。独りでいいんだよ。だからもう構わないでくれ」
 いつだって独りで生きてきたんだ。
 寂しいと感じた事は無い。けれど辛いと感じたことなら山ほどある。
 それでも頑張って我慢して細い一対の脚をしゃんと伸ばして立ってきた。
 強い風にも負けず、冷たい雨にも屈せず、独りきりで、独りきりで。
 罵られることには慣れている。聞かない振りをすればいい。風でも吹いていると思えばやり過ごせる。
 突き飛ばされる事なら慣れている。倒れそうになったら足を少し後ろに退いて踏ん張ればいい。 それで涼しい顔をしていればそのうち飽きて、誰も何もしなくなる。
 そうやって生きてきた。
「怖いんだ」
「違う」
「田宮君が」
「違う」
「彼女の温かさが?」
「違う」

「じゃあ、どうしてここへ逃げてきたの」
「逃げてなんて!」
 逃げてなければ、なんだったのだろう。何故彼女を傷つけまいとして傷つけようとしたんだろう。
「大っ嫌い。あいつもあんたも、先生も、クラスの奴らも父さんも母さんもだいっ嫌い」
 強く強く膝を抱きしめて身を縮める。このままずっと力を入れていたらどんどん小さくなっていってしまうんではないか。
「他の人のことは知らないよ。けれど、君は、彼女の事がすきだ」
「嫌いだ」
「どうして?」
 花枝は結局そこで言葉に詰まってしまった。
 何故なのか、それは花枝自身ですらぼんやりとしか掴めずにいるのだから。いや、自分でその理由を言葉にすることを拒んでいる、と言うほうが適しているだろう。
 言葉で形作ってしまえば必ずやその打開策が生まれる。
 それが壊れてしまえば、きっと心の中の不安定な液体がとめどなく流れ出るだろう。自分の『弱さ』が露呈する。


 受け入れてくれるかもしれない。全て優しく包んでくれるかもしれない。
 だけど、
「本当は、怖いだけだろう。誰かをすきになって、裏切られることが」

 受け入れてくれないかもしれない。

「あんたは、どこまで知ってる?」
 先生
 先生
 先生
 先生
 先生
 先生……。
 博巳先生
「あたしのこと、先生のこと」
 ほんのわずかに顔を上げ、にじんだ目で暮凪を見遣ると、彼は静かに微笑みながら、地を這う虫を優しく見つめていた。
 穏やかに。ほのかに。
「あいつに何を吹き込んだ。あいつに何を言ったんだ。あたしのこと、どこまで知っているんだ?」
「勘違いしてるみたいだけれど、僕は彼女に何も言っていない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「だってあいつは名前の事、知ってた」
「それは僕も初耳だ。知らない事は、教えられない」
 そんなの嘘だと決め付けたかった。
 そんな偶然があっても良いのだろうか。
 自分の急所を次々とつつくような、クリティカル連続などと、そんなふざけた話があるはずない。


 暮凪はゆっくり、風を感じるかのように顔を上に傾け
「五月の頭ぐらいですかね。末松君に会ったのは……」
「…………」
「今は中学校で美術の教師をしてます。出張した時に偶然会ってね。うちの学校の名前を言って、二年の担任を持っていると言ったらら『汐見花枝という生徒をご存知ですか?』って聞かれたんだ」
 先生が、まだ自分の事を憶えてくれていた。気にかけてくれていた。
そう思うだけで体中の力が抜け、胸をぎゅっと引き上げる。どうしようもなく、泣きたくなる。
 それは彼の中でまだ自分が生きていたという事に対する喜びだろうか。それとも叶わないのにちらつかされる希望に対する悲しみだろうか。
 嬉しいのか悲しいのか、そんな単純なことすらも花枝はわからなくなっていた。頭で考えれば対になるような別々の感情だというのに、どうしてだろう。
 考えれば考えるほどにその境界線は曖昧に混ざり合ってどちらの区別も付かなくなってしまった。
「君の事を心配していました。結局美術教室も辞めてしまって、その後連絡も取れなかったから、と」
「……心配?」
「そうだよ。それから、君の絵をまだ持っているそうだ。僕が君の絵を見たのも、それが初めてでした」
 暗い闇の満ちた深海の底で膝を抱える少女の背に光が降り注ぐ絵だったと、暮凪は言った。
 涙が流れないはずがない。なぜならばそれは




 花枝が最後に、『先生』へ告白のつもりで送ろうとした絵だったから。


 結局この感情は
 嬉しいと表現するべきなのか悲しいと表白するべきなのか、わからないままだった。







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