その絵は淡い期待と共に捨ててきた。 橙色のスポットライトを浴びた教室とは痛いほどに対照的な薄暗い廊下に。 今まで舞台の上でワルツを踊っていると思っていたのに、目が覚めればそこは舞台裏。ただ虚しい現実が目の前に漠然と広がっていた。 舞台の上でワルツを踊っているのは私ではない、という現実。 他人はそれを恋の終わりと表現するかもしれない。しかし、本当のところは終わってなどいないのだ。そんな事で終わりはしない。 もし終わっているというのなら この胸の痛みはなんなのだろう。 「君は、多分他人よりも少しだけ辛い事が多かったんだと思う。多感な時期に他人より多く傷を負ったのかもしれない」 ただただ泣き崩れる花枝をなだめることもなく、暮凪は与えられた台詞を喋るように淡々と言葉を紡ぐ。 「だから少しだけ敏感になっているのかもね」 「そんな事、どうだっていい」 「だけど、結局君がやっている事は本末転倒だ」 「知らない」 「それは何も生む事は無い」 「知らない、知らない。……知らない」 声はどんどんとかすれ、その身と同じくして小さく縮こまってくぐもっていく。 普段の何事にも動じない風を装う花枝とはかけ離れた、なんとも惨めな姿だ。 恋は、人を狂わす。 「末松君のことも、かわいそうだとは思うよ。けれど、結局誰が悪いというわけでもない。それはいつまでも引きずっていては」 「絵は、あの人のためだけに描いていた」 その一言でようやく暮凪の台詞は止んだ。自分を取り残して進んでいこうとする舞台のシナリオが、わずかに軌道をそらす。 「あたしの事を必要としてくれたから描いてた。褒めてくれると思ったんだ。一番最初みたいに君の絵は綺麗だねって。褒めて欲しかった。他の事なんてもう、どうでもよかった」 他の人がどれだけ褒めようと気にした事は一度も無かった。他の人の評価はどうだっていいと、一途に信じていた。あの人だけが自分の絵を見てくれれば良い。 たった一つの事だけを支えに生きてきた。 「あの人だけ居てくれれば、それで良かったのに……」 たった一つの事だけを支えに生きてきた人間は、それを失った時、どう生きれば良いのだろう。 生きる意味を失うのと同意義ではないか。この世に価値も無い、理由も無い、希望も無い、展望も無い、絶望すらも存在しない。 すかすかな抜け殻だけが残る。生者の賑わいを遠目から見ることしか出来ない、死に極めて近い席に着くこととなる。 「でも、あの人はあたしの事なんてちっとも必要じゃなかった。あたしなんて要らなかった!」 支えだなんておこがましいにも程がある。支えなどではない。一方的にもたれかかっていただけに過ぎないというのに。 あの人の瞳には自分なんかよりももっと大人でもっと綺麗な女性が映っていた。そのことに気付きもせず、彼が放つ大して意味もない言葉の一つ一つに一喜一憂していただけだ。 なんとも莫迦らしい。 「彼女は裏切らない。君の友として傍にいてくれる。それだけは」 「そんな事どうしてお前が保障できるんだよ」 慰めは虚しく、がらんどうな心の中を木霊する。響きこそするが琴線にまでは至らない。ただ無意味に響くだけだ。 苦しみに喘ぐ様を、暮凪はその名にある凪のごとく静かに見守った。 「どうすりゃいい。だってそんな」 嗚咽が込みあげ、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。 頭を整理するだけの余裕などあるはずもない。感情は激しく波を打つし、息は苦しい。必死にもがいてもがいて、出てくる言葉はばらばらでわかりにくいけれど、それは花枝の人生の中で重ねた言葉の中で限りなく本心に近かった。 「愛だとか友情だとか、そんな形のないもの、どうやって信じればいい?」 暮凪の能面はいつの間にやら消え去り、少し憂うように眉尻を下げていた。 「なぁ、あんた教師なんだろ?教えてくれよ。どうすればそんなわけのわかんないものを信じられるっていうんだよ」 そんなものは偽物だ。本当はありもしないのに、言葉で縛って存在するように見せかけているだけに過ぎない。 信じている振りをすれば楽になる麻薬のようなものだから、みんなこぞって信じたがるんだ。 けれど花枝は気付いてしまった。自分が追いかけていたものなんていうのはただの幻で、掴んだと思ったら消えてしまう。所詮はそんなものなのだ。 だから信じない。誰も好きになんてならない。そうすれば例えどれだけ心が凍てついたって、傷つく事は無い。 「そんなものは偽物なのかもしれない」 「……」 偽りの無い暮凪の言葉を聞き、心の中で、自分は間違ってなんかいなかったという虚しさと、やはりそんなものでしかないのだという悲しみが混ぜ合わさって花枝の正気を奪っていった。 「けれどその答えはどこにもない。あるという証拠もないという確証も誰も持ってないから。」 「……」 「でも、そうだとわかっていても僕たちはそういうものを求めてしまうんだよね。きみも、ぼくも。辛いってわかっていても、その温もりを求めてしまうんだ」 不思議だね。 彼は笑って言った。優しく、穏やかで真摯な笑顔。 それは彼お得意の誤魔化すそれに似ていたが、決定的に違っていた。とても人間らしくて、いとおしいような……。 「君が一番嫌いなのは自分自身だろう」 「……」 田宮も暮凪も両親も大嫌いだ。けれどそれ以上に自分が嫌いだった。 こんなどうしようもなくわがままで素直になれなくて可愛げの破片も無い自分を、一体誰が好きになるだろう。 「だから、君がいとおしいと感じる人々を傷つけたくないんだろう」 「そんなこと」 今まで必死に隠してきた本音が陽の目を浴びた。隠していたし、誰にも発掘されないように深く沈めたものでもあった。それがこんなにも容易く 「だから、彼女を傷つけた。そうすればそれ以上彼女が傷つく事を見る事は無い。自分の傍から遠ざければ傷つける事も無い。 そうすることで君自身も傷つく事は無いと。そういうことを一番よくわかっているから」 「どうしてあんたは」 敵わない。諦めた途端に体の力が夏の残滓を孕んだ空めがけて蒸発して行く。 元々抵抗するだけの余力など皆無だったために観念せざるをえなかったが、例え残っていてもこの弱々しく見える男には敵わなかっただろう。 「ずるい。あいつも、あんたも。あたしの事を理解し過ぎてる」 それは、と暮凪は切り出して、続く言葉を少しのどの奥に戻した。 にこりと笑い 「それは僕もそうだから」 照れるでもなくそう言った。 「あいつは、昔のあたしに似てるんだ」 なんで私はこいつなんかにこんな事を言っているんだろうか。そう思っていたが、胸からあふれる想いを吐露しなければきっとこの涙は止まらないのだろう。 それに彼ならばそのあふれた想いを上手く受け止め、そして浄化してくれるのではないか。そんな気がする雰囲気を暮凪は持っている。 「生まれたての仔牛みたいなさ、澄んだ奇麗な目をして、一生懸命に精一杯に生きている。届きそうで届かないたった一つの事だけを追い求めているんだ」 「だから、嫌い?」 「私に似ているから惹かれる。けど、怖い」 田宮があの目で見ているものは、追い求めているものはいつか必ず遠くない将来に崩れる。それを『また』見る羽目になるのは嫌だった。 田宮の瞳に今映るそれと花枝が追い求めていたそれとは少し違うかもしれない。 けれど、必ず同じ道を辿る事になるだろうということは直感的に花枝は理解していた。 それは理屈などではない。生きるものとしての勘だ。 「それで、君は逃げるのかい」 「……」 「君はもう十分に逃げたじゃないか。絵、友、師。目を閉じ耳をふさいだ。そうすれば傷つかないのは確かだけれど、差し出された手にも気付けないよ」 目を開けたら人々の白い眼を見るだろう。耳を傾けたら君を罵る声が聞こえるだろう。 けれど、他人を怖がってはいけない。この世界には君の敵ばかりだろうけれど、その中に必ずや君の味方になってくれるものが居る。 その微笑みはきっと、君の傷を癒してくれると思う。 「彼女は太陽だ。純粋でまっすぐで、いつも優しく傍らに立つ人を暖めてくれるんだ。だから君も恐れる事などない」 「知ってるか。太陽に近づき過ぎると蝋の羽は溶けてしまうんだって」 その太陽は何も知らないくせに、無垢な笑顔で他人の領域に踏み込む。だから戸惑うのだ。笑って迎え入れて良いのか、突き放すべきなのかわからず、ただ困惑してしまう。 受け入れたいと思う。けれど突き放すべきだと思う。 「多分、あいつには嫌われたくないんだ」 「じゃあ何であんな事をしたんだ?」 時間をかけて作り上げたあの絵を彼女の大切なものを、何故。 暮凪はきっと既にわかっているのだろう。それでも花枝の口からきちんと言葉を、気持ちを吐き出させてあげたかったのだ。 それを承知で、自分の気持ちをひとつひとつ空に放った。 「だって、そうでしょ。あのくらいの事をすれば、私の事を嫌いになる。そしたら、『私を見て嫌われる事はない』。『私は嫌われない』。」 怖かった。自分が嫌われるのが怖かった。自分の事を知られて、自分の考えを知られて、自分の本当の気持ちを知られて、嫌われるのが。 自分の全てをさらけ出して、それで「好きじゃない」と言われたら、死ぬしかないのだと思う。 花枝はそんな衝撃に二度も耐えられるほど頑丈には出来ていない。 いや、あれは言葉にする前に終わってしまったのだけれど。 「だけど、勇気を振り絞って生きなければならないんだよ」 膝を抱えたまま、けれど顔の上半分は外気に触れているという姿勢で静かに暮凪の声に耳を傾けた。 「傷つくかもしれない。傷つけるかもしれない。裏切られるかもしれない。裏切ってしまうかもしれない」 木漏れ日が目に沁みる。 「それでも勇気を振り絞って生きなければならないんだ。朝起きてから、次の朝が来るまで。ずっと勇気を振り絞り続けなくちゃ」 「じゃあ、一生にどれだけの勇気を振り絞ればいい?」 「コップ一杯程度で良いのさ。ボトル何本分も振り絞った気でいても、終わりが近づいて振り返ってみたら本当に微々たる物でしかないよ」 胸の奥からじくじくとした痛みがこみ上げてきた。どうしたらいいのかわからない。田宮に、どんな顔をして会えば良いのだろう。 「あたしは、あいつにどのくらいの勇気を振り絞ればいいのかなぁ」 「ほんの一滴くらいでいいんです」 なんとも、大きな勇気だ。 「どうすればいいんだろう」 「好きなようにすれば良い」 「……優しいんだね」 先生は、頬をわずかに染めて困ったように微笑む。 「優しくなんてない。臆病なだけさ」 そう言って静かに立ち上がった。 「それじゃあ先に行くよ。僕はまだホームルームをやらなきゃならないから。みんなろくに聞いちゃくれないだろうけど」 「…………」 花枝に背を向けると、今までとは少し違う弱々しい声で 「君は彼女にも似ている。しかしある意味では僕とも似ているんだ」 「?」 「だけど君は僕のようになってはいけない。君はまだ若いから大丈夫」 「……、そうだ。約束してくれないか」 花絵は、暮凪とある約束を交わした。 ドアが閉まる。 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ |