ハナミチ 9




 頭は少しずつ冷めてきた。涙はすっかり引いたけれど、全身の倦怠感はまだ抜けきれてはいなかった。
 暮凪が去ってからどのくらい経ったろうか。
 田宮に何か言わなければならないと気が焦るけれども、いざ立とうとすると今更どんな顔をしたらいいのかわからず、足がすくんでしまうのだった。
 自分の愚かさを呪う。
 しかし呪うだけでは何も解決しないのだ。
 ひとさじの勇気、それをなんとかして出さなければ。

「あぁ、」
 扉をはさんだ向こう側の、更に向こうがわずかに賑わいを作り出していた。もしかするともうホームルームは終わったのかもしれない。
 そしたら田宮も既に帰ってしまったという可能性は高い。このままもう少し外で涙を乾かそう。

 これから解決しなければならない問題は山のようにある。
 だけど、今だけは













 そう思ってうとうとしてしまい、気付いたときには腹の虫も唸る頃になっていた。
 辺りは新学期特有の静けさに満ちており、世界から一人取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。
 ポケットに入っていた携帯電話を取り出して時間を確認すると、もう二時を回っていた。普通ならばとっくに家に帰って昼食を取り終わっている頃だろう。
 田宮もきっと。

 とりあえず家に帰ろう。ああそうだ、鞄を教室に置いたままだった。
 重い腰を上げてドアを開ける。その先には長い長い廊下が続いていた。
 まじまじと見ながら、何と長い道のりなのだろうと思う。
 先も見えない、いつどこで転んでしまうかも分からない、長い長いその道はしっかりと前を向いて歩かないと足が震えてしまいそうだった。
 右足から踏み出す。

 田宮には、何と言おう。どう謝ろう。


 廊下の突き当たりを左に曲がり、階段を3階分上がる。
 一段上がる度、考えてもどうしようもない事ばかりが思い浮かび、左手が疼きだす。

 許してくれるわけないだろ

 そんな都合のいい話なんてあるわけない

 自分が許されるなんて、まだ信じているのか?

「………………」
 足が止まった。

 どうしよう。田宮がもし受け入れてくれなかったらどうしよう。

 けど、自業自得じゃないか

 確かにそうだ。
 どれだけ勇気を振り絞ろうとも、叶わないものは叶わない。


 なら


「どうすればいいんだろう」
 結局、また同じところで立ち止まってしまうのだ。

 だけれど、だけれど一つだけ言える事があった。

 花枝は右足を踏み出した。
「……。」
 結局どうしたらいいのかわからないのは叶おうが叶うまいが同じ事で
 それならば振り絞れるだけ振り絞って、やれるだけやってみようと今は思えた。

 本当は怖いくせに。

 怖くないはずなんてない。だけれど

 怖がってばかりもいられない。


 教室のドアを開けると、一陣の風が舞い込んだ。
 夏の風の匂い。
 エアコンで温度調節されている室内では香るはずのない、心地の良い匂いだった。
「………………」


 そこで花枝は目を見張る。
 風に揺れる艶やかな黒髪と純白のブラウスは、蛍光灯を全て消した薄暗い教室の中でも輝いて見える。
 けれど本当に輝いているのは、光を放っているのは、
「何で」


 田宮だった。
 開け放った窓に備え付けられている手すりに体重を預け、首だけをこちら側に向けた田宮がそこに居た。
「何で、お前……」


 田宮は言葉を選ぶように視線を泳がせ、微笑みながら
「一緒に、帰ろうと思ったんだ」
 あの時と同じ言葉を繰り返した。


「田宮……」

 陽射しがゆっくりと氷を溶かす。内なる春は未だ遠くとも、穏やかな陽射しがゆっくり、ゆっくりと。

 力の無い笑いが口元から零れ落ちる。
 きっと、田宮にも暮凪にも敵わない。何度もその手のひらで踊らされ、そっぽを向けばくるりと向きを正される。
 あぁ、なんと。なんと自分は小さな存在なのだろう。
「はははは」
 笑みは、氷柱から雫が零れ落ちるようにして連なって零れる。
 ぽたぽたぽたぽた
「ははは」


 これは決して、涙ではない。



 窓の下の壁に花枝は力なくもたれかかり、田宮は自分の鞄からプリントを取り出しながら背を預けていた。
「昔あたしが中学のころ、家ん中がぎすぎすし始めてさ」
 影に身を潜める二人の姿は敵の弾から身を守るため、塹壕の底に隠れる兵士のように見えないでもない。
「父親が不倫したんだかなんだか、あたしには良く分からないけど、そんなようなことで家が荒れだしたんだ」
 まるで水道の蛇口をわずかにひねって細い水の紐を流すように静かな語り口だ。
 腹筋にはあまり力を入れず、時々かすれて聞こえなくなってしまうように頼りない声で花枝は語り始める。
 あまりに短く輝いて消えた青春の一幕の物語。




 それで、家の中にいるのが嫌になったのと、一年の時に軽く好きだった(軽く、ね。今思ったらあれは暇つぶしの片思いだったと思うよ)先輩に振られたのとで色々いらいらしてたんだ。
 学校とか家の中の物とか壊したりして。
 自分たちの事で精一杯だったあたしの親は、そんなあたしを美術教室に放り込んだ。
 母親の知り合いが教えている教室で、結構人がいた。

 別に好きって訳でもないけど嫌じゃなかった。だって一人で黙々とやってたって誰も変に思わないだろ?だからさ。
 笑えるくらい毒々した絵を描いていたっけ。両腕が無い女の人の裸体とか、あからさまに死体を思わせるのとか、無駄にセクシュアルな絵とかさ。
 みんな引いていた。だからあたしの周りは常に静寂が守っていた。
 うるさいのが好きじゃないから丁度良かったと思ってた。友達なんて作る気、無かったし。


 そしたら
「すごいなぁ」

 そんなあたしの絵を見て、あの人はこう言った。


「君、才能ある」


 彼の名前は、「末松博巳」って言った。
 あたしの、先生。









目次へ戻る

作品一覧へ戻る

茶室トップ