緩やかな傾斜の坂道が真っ直ぐに続いている。道幅はちょうど二人が並んで歩けるほどの舗装されていない道の両脇には針葉樹の林が続いていて、その道に影を落としていた。 ほんのりと薄暗い空気は水分を多く含んでいるような冷たい風が流れており、まだかすかに冬が残っているのが感じられる。 道のりはかなり長く、十五分ほど歩いてもまだ出口が見える気配はない。周りの景色にもそれほどの変化は見られないので、本当に自分達が前に進んでいるのかどうか分からなくなる。その度に花枝は田宮に話しかけるのだった。 「この前、ここに来たのっていつだったっけ」 「冬に入ったころ……だったかな」 ここへの訪問は三度目だった。しかしそこは二人にとって思い出深い場所であり特別な場所だった。 「なんか、長い冬だったねえ」 花枝は肩にかけていたかばんをかけなおした。一歩前を歩いていた田宮の顔は見えない。 この冬は一生続くのではないかと思うほど長かった。これほどまでに長い冬は今までになかったし、これからもきっと訪れることはないだろう。 「もう春なんだな」 「うん。でも、まだ寒いね」 澄んだ青空の向こう側に半透明の月が見えた。おぼろげで今にも消えてしまいそうなあの月は何故この青い空に浮かんでいるのだろう。 夜に出てくればもっと美しく輝くことが出来たはずなのに、場違いな舞台に立たされてしまっている。 それが自身の意思なのかそうでないのかは分からない。 だが、おぼろげだからこそ美しい、ということもある。 「そろそろ着くね」 長い長い坂道が今終わろうとしていた。息切れをぐっとこらえて背筋を伸ばす。 私たちは、もう、きっと、だいじょうぶ。 視界が開けるとそこは一面緑の世界だった。 丈の短い草花が地面を覆い、木々がその周りを城壁のように取り囲んでいる。そして所々には小ぢんまりとした人々の住まいがひっそりと立っている。 木々がざわめき、二人の到来を噂しているようだ。 二人は顔を見合わせ、笑いながらゆっくりと歩き出す。 一番手前の列の一番左が先生の家だ。 先生の真新しい新居の前に立ち、二人はうつむきながら微笑む。 「お久しぶりです、先生」 二人は静かに先生の前でしゃがみこんだ。 「先生、私たち今日卒業式だったんですよ」 「一時はどうなるかと思ったけど、なんとか卒業できました」 小さな石碑には文字が刻まれていた。 ISAO KURENAGI 1949 -2005 この刻まれた文字を見て先生の名前が『勇雄』だったことをようやく思い出す。 そういえば初めて墓前に立ったときも、なんて似合わない名前だろうと考えていたっけ。 先生の訃報を聞いたのは十月の初旬だった。 田宮も大学からの課題に追われ、花枝も今まで以上に気を引き締めなければならない頃だ。 六限のホームルームの最後、担任の村沢が連絡事項の一つとして伝えるという、なんとも味気のない、何のドラマティックもない報せはリアリティを著しく欠いていた。 「前の担任の暮凪先生が先日お亡くなりになられました。お通夜は明後日に執り行われるそうなので行く気がある人が居たら第一職員室へ来て下さい。それから明々後日は模試があることを忘れないようにー。以上」 クラスの「亡くなった」という単語に対するざわめきも「模試」という単語に飲み込まれた。 他の生徒にとってはもはや何の関連性もない暮凪の死よりも目先の模試のほうがよっぽど大切なのは、決して良くないことだが責められはしないだろう。だが担任の「模試とお通夜のどちらが大切かを秤にかけなさい」という意味の捨て台詞はきっと普段だったら怒りに震えていたかもしれない。 けれど、いったいどういうことなのだろう。あの先生が死んだ? 頭の整理が追いつかない。軽くめまいを起こしながらもなんとか田宮の席までたどり着いた。 「職員室、行こう」 「…………」 「田宮」 きっとひどくショックを受けているだろうという花枝の予想を裏切り、田宮は険しい顔つきさえしていたが非常に冷静なように見えた。 「田宮?」 「うん」 田宮は静かに席を立ち、鞄を肩にかけた。 足が震えた。何も考えられない。職員棟へ続く廊下を田宮の一歩後ろについて歩く。 先生が死んだという報せは本当に事実なのだろうか。先生はまだ五十そこそこで、死に別れるだなんて予想だに出来ないことだった。 「まさか、先生が死ぬなんて……」 田宮はしっかりとした足つきで歩いている。先生が退職した時はあれほど取り乱していた田宮が、何故こんなに冷静で居られるのか。 「やけに落ち着いてるよな。田宮は」 「…………なんとなく、こうなるんじゃないかって思ってたから」 「え?」 答えることなく田宮は職員棟の重いドアを開けた。 通夜は明後日、その翌日に告別式を執り行う。場所と時間は、と男性教師(確かこの男も国語科だった)がメモを見ながら言い、田宮がそれを手帳にメモしていた。 もしかすると、田宮は先生の死を受け入れていないのかもしれない。形の上では理解しているが、本当の意味での理解はしてない。だからきっとこんなにも冷静でいられるのではないか。 いや、田宮は先ほど「こうなるんじゃないかって思ってた」と言った。前々からこうなる日が近いことを予感していたのか? 「ありがとうございました」 「いやあそれにしてもさ、何もかも突然だったよね。あんなのほほんとした性格してたのに」 男性教師がメモを机に置き、何事かをぼやいた。花枝は半分朦朧とした頭でそれを聞いていた。 そういえば先生は何故死んだのだろう。 「あの、先生は何かご病気だったんですか?」 もしかすると病気が原因で学校を辞めたのかもしれない。見た目にはどこかを患っているように見えなかったけれど。 「うん、僕も分からないんだけど何か突然倒れてそのままお亡くなりになられたそうだよ。前から体の弱い人だったらしいけどさ」 「そうですか」 花枝は溜め息をつき、何も言えぬまま踵を返した。 今度は田宮が花枝の後ろについた。 「ねぇ、花枝ちゃん」 曇り空に隠れて日の差し込まない渡り廊下で田宮が立ち止まった。 「先生が死んだのは私のせいかもしれない」 田宮の奥歯が小さく音を鳴らしている様子に気が付いた。 「田宮?」 「私、私ね、花枝ちゃん」 「先生にひどいこと言っちゃった」 冷たい風が吹いてきた。 「全部私のせいなの。全部……」 「お前何言っ」 肩に触れようとした花枝の手を強く振り払い、田宮は走り出した。 「田宮!」 追いかければすぐ追いついたろう。でも田宮の言葉は花枝の足に呪いをかけて硬直させた。その場から一歩たりとも動くことが出来なかった。 田宮の声が耳の奥で響く。 「「全部私のせいなの。全部……」」 ああ、どうして。どうして私達は平穏に生きることが許されないのだろう。やり切れぬ強い風のような運命に挫けそうになりながらも、花枝は必死で立っていた。 けれどそれはもう虚勢にもならないほど弱々しい力でしかない。 花枝は薄暗い教室で目を覚ました。机に突っ伏していたので音が鳴るほどに背中が痛い。田宮を見失った後、鞄を持ってこなかったので教室に戻った花枝だったが、席に着くなりどうしようもない倦怠感に襲われ、そのまま机に倒れこんだのだった。 気だるさはちっとも抜けなかったけれどこうしていたってそう簡単に抜けるようなものではないのは身にしみて分かったので席を立った。 田宮はもう家に着いただろうか。 自分の知らないところで色々な事が起きている。一見普通そうに見えても心穏やかではない人が沢山居る。 少し前までは自分もそちら側の人間だったから重々分かっていた。相談したってしょうがない、理解などしてくれるはずがないと思っていることも分かっている。あくまでも自分の問題で、他の誰にも関係はないと思っているのだろう。しかしそれがいざそれを見守る側になった途端に自分の不甲斐なさに腹が立ってくる。どうにかしてあげたい。何か力になってあげたい。 それはきっと当人にとっては迷惑な話でしかないかもしれない。でも、自分を救ってくれた大切なひとの一人くらいはなんとか助けてあげたい。そう思うことは不自然なのか? 気付くと国語科準備室の前に立っていた。 こんなところに来たって何もないのに。あぁ、そういえば先生は死んでしまったけれどここの鍵は返してもらえるんだろうか。 あの瞬くように過ぎていった日々は、もう二度と戻らない。旅人の欠けた『北風と太陽』は成立しないのだから。 何でこうなってしまったんだ。どこで何を間違えた。何故。何を。 田宮は先生に何と言ったのだろう。 ひどいこと言っちゃった それが先生の心の中に何か大きな波紋を呼んだ? にわかには信じられなかった。大体それが一体先生の死とどういう繋がりがあろう。 何もかも田宮の誇大妄想なのではないか。先生の死が自分のせいであるとある種の責任転嫁をすることで先生の死を受け入れる、あるいは逃避しているのか? いや、そんな事をしても意味がない。 額を準備室のドアに付けてもたれかかる。もう、何も考えたくない。 先生。どうして ぞわわ 体中に電撃が走った。 ――――開いてる? 国語科準備室の鍵が開いていた。固く閉ざされていた南京錠が無い。 誰が開けた? あの南京錠はボルトカッター等では切断できないような仕様だった。普通の工具じゃ開かない。 考えられるのは 合鍵ぐらいあっても良さそうなものだったが国語科準備室は古い校舎にあったので 鍵は先生の持っていた一本だけしか残っていなかったらしい。 鍵を持ってる人間が開けた。 人が死んだらどうなるのか。あの世に行く。星になる。生まれ変わる。 そんなことちっとも信じてはいないけれど、もし魂とか霊とかが存在しているとしたら この中に居るのは →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ *おまけ* 人が死んだらどうなるのか。あの世に行く。星になる。生まれ変わる。 そんなことちっとも信じてはいないけれど、もし魂とか霊とかが存在しているとしたら この中に居るのは って、いうか、散々先生「おまけ」に出てきてたけど……な。 中に先生が居てもあんまりびっくりしないわ。 |