ハナミチ 26



「大切な人を喪ったとき、人は魂とか幽霊とかを信じるんだ。」
 優しい笑顔で語ってくれたのはいつのことだったろう。まるで遠い昔のことのようで、どんな話からそのことに繋がったのかはもう覚えていない。ただ先生は少しだけ悲しそうな顔をしていて、私はそういう根拠も無い精神論を他の誰でもない、先生が肯定したことに対してほんの少し不快に思っていた。
「だって悲しいでしょう。自分の大好きな人間がこの世から影も形もなくなって、ただの灰になってしまうなんて」
「それはそうなんだろうけど……。それとこれは別なんじゃないんですか」
「あの世っていうのは、生きている人間のためにあるんです。本当にあるかどうかなんて死んでみなくちゃ分からないし、それならどうでも良いじゃない。愛する人が死んでも、その魂はどこかにある。そう思えば少しは色々なものが軽くなるでしょう」
「でもあたしはそういうもので商売している奴らは嫌いだな」
「商売が成り立っているってことはそれを求めている人が少なからず居るということでしょう。それによって救われるなら、仕方が無いんじゃないですか」


 今の自分はどうなんだろう、と花枝は考えた。先生に会いたい、話をしたい、と思っていることは事実であるが、果たして霊魂として現れてまで会いたいと思っていただろうか。魂とか神様だとか、そういうあやふやなものを信じるのはとうの昔にやめている。自分の価値観を壊してまで幻想の存在を望むほど今の自分は彼を欲しているか?

 けれどもし、もし万が一自分の知らない未知の世界があったとして、今この扉の向こうに先生が居るとしたら

 それを欲している人間がいる。
 彼の喪失に心を痛めている人間が居る。
 どんな形であっても先生が戻ってきてくれたら、一目でも見ることが出来たら、彼女は元に戻ってくれるかもしれない。
 田宮が以前の田宮に戻ってくれるかもしれない。

 あの太陽の微笑が戻るのであれば、手前の下らない価値観や信念なんて掌を返すがごとく捻じ曲げることも厭わない。自分を暗い海の底から救い上げてくれたあの光、今度は自分がその光を闇の底から救い上げてやりたい。
 すがりつくような気持ちで扉を開けた。







 月明かりが幽かに届その部屋の中では暗闇の音がした。大きなうねりが獲物を狙うようにじっとりとゆっくりと。
 がらんとした教室内はすっかりと体温を吸い尽くされており、たった半年ほど主を失ったに過ぎないはずなのに朽ち果てているようだった。
「先――――」

 その闇の中、わずかに月の光に照らされる人影があった。見慣れた背中がこちらを向いている。
 
 鍵。準備室。先生。ああ、そういうことだったのだ。花枝の中でずっと引っかかっていた何かが全て繋がった。
「田宮……」
 窓に向かう形で小さくうずくまる田宮は普段よりもずっと小さく見える。考えてみれば田宮は花枝と仲良くなる前にも準備室に度々通っていたのだから鍵を田宮に渡していたということも有り得ない話ではない。先生ではなく、元々田宮が鍵を持っていたのだ。先生の家へ鍵を返してもらいに行くことを渋っていたのも、花枝が先生の家に行った次の日の朝にその事を気にしていた理由も頷ける。
 花枝の呼び声に応えるように田宮は顔を上げ、半身をひねって花枝を見つめ返す。
「はなえちゃん」
 震えをこらえて田宮の隣まで歩いていく。その一歩一歩が花枝の思考を奪い、熱が頭を縛るように包む。
「なんだよ。こんなとこにひとりでさ。あたしも呼んでくれりゃ」
 この現状は花枝にとって相当な打撃を与えるものだった。二人の関係が揺らいでしまう程の意味を持つことだった。自分勝手だとは思いながらもそれは深く胸に突き刺さる。
 花枝はこの部屋の鍵を手に入れたら田宮と二人の隠れ家にしようと思っていた。それは三人だけが占有できる特別な空間であり、そこに他の誰かが入ることを良しとしていなかったから。
 そして田宮も大切な人との思い出を他の誰かに踏みにじられたくは無いと思っていたわけだ。花枝が思っていた数よりも一人分少ないけれど。

 先生と田宮の間にどんな絆があるかは分からないが、そこに花枝が入る余地など端からなかったのだろうか。
 浮かれていたのは自分だけで本当はひとりぽっちだったなんて、こんな戯言笑うことも出来ない。

 崩れるように田宮の隣に座った。床はまるで花枝を拒むかのように冷ややかだ。
「……ごめんな田宮」
「……どうして花枝ちゃんが謝るの?」

 花枝はもう何も考えられなかった。無力な自分ではあったけれど、田宮の隣にいてあげることくらいは出来ると思っていたのに。
 花枝が必要としていたのは田宮だったが、その田宮が必要としていたのは暮凪だった。自分なんかはその他大勢にしか含まれず、田宮の舞台には何の影響も及ぼさない人間だった。
 不甲斐ない情けない悔しい悲しい寂しいダサい辛い痛い、憎い。

「嘘ついてたのは私じゃん」
「嘘なんて別にいいよ」
「――――花枝ちゃん」
「……なに?」
「帰ろうか」
 いいのか?
 このまま作り笑いを浮かべる田宮をそのまま帰していいのか?
 救ってやりたい。でも何をすればいいのか分からない。
 自分の存在価値を見失った今、何を言ってやることが出来るんだ。

 雲が月を覆うと部屋の中は殆ど暗闇に染まってしまう。彼女はこんなにも暗い場所で膝を抱えていたのか。田宮は前に手をついてゆっくりと立ち上がる。
「この部屋ね、とっても寒いの」
 がらんとした部屋。先生の「におい」のするものが一切ない準備室。
「先生がいた時はずっと居たいくらいに居心地が良くて、落ち着いた気持ちになれたのに。おかしいね」
 それでもここに来たのはどうして?
 花枝は何も返せなかった。
「大丈夫」
 田宮の言葉に呼応するように雲が流れ、部屋に月明かりを注ぎ始めた。
「心配しないで」
 穏やかな微笑なのに、花枝の胸を深く抉った。周りの全てを突き放して自分一人で何もかもを抱え込もうとしている。これじゃあまるで、まるであの頃の自分じゃないか。
 いつか壊れてしまうと言うことは分かっていた。それが怖くて彼女を拒絶したくせに、少し優しくされただけで「絆」なんて言葉で友達だなんだと思い込んでいた。
 自分の醜さに辟易する。
 結局自分の都合で彼女の優しさに甘えていただけなのか。そのくせ彼女に対して何も出来ず終い。
「――――ん」
 この時田宮に何をしてあげれば良かったのかは、随分経っても分からなかった。ただ、もしこの時何か一言でも言ってやる事が出来ていたら、先生の葬儀の後もずっと平穏なまま全てが片付いたかもしれない。誰も傷付くことが無い代わりに肯定できない、何の救いも無い世界が延々と続いていたかもしれない。
 ありがたいのかありがたくないのかは、分からない。


 先生の通夜はごくごくシンプルであっけなく終わってしまった。無宗教葬という形だったせいもあるが、自分が死者の前に立っているのだという実感は終始湧かなかった。
 本人のかねてからの意向で四十九日を待たず、明日の葬儀の後すぐに火葬・埋葬を行うらしい。
 かねてから、などというくらいだから先生は自分の死期を知っていたのだろうか。退職の理由も関係しているのだろうか。

 田宮は何か知っているだろか。
 田宮も相変わらず塞ぎ込んでいたが、淡々と献花し、先生の写真をおもむろに見つめ少し顔を曇らせたくらいで特に感情の高ぶりも見せなかった。

 人の死とはこんなにもあっけないものなのか。
 会場を見渡しても誰一人涙を流す者は居なかった。流す涙が故人の価値ではないのかもしれないが、もし誰も先生の死を惜しんでいないのだとしたらそれは何よりも嘆かわしい。そして花枝は先生の遺影に自分を重ねた。果たして自分の死を惜しむような人間が居てくれるだろうか。
 死んでしまったら何も分からないのだけれど。
「行こう、田宮」
「うん」
 去ろうと会場を出るとちょうど今入ろうとしていた男性と目が合った。
「花枝ちゃん」
 低いけれどよく響く声。細身の体格。こしのある黒髪。そして大きな目。
 花枝は自分の左手と左の胸がずきんと痛むのを感じた。
「末松先生……」
 かつての自分の想い人。もう二度と会うことはないだろうと思って別れたあの人が立っている。その時も先生がある種仲立ちをしてくれたけれど、皮肉にもまた先生が花枝と末松を引き合わせた。
「久しぶり」
「ご無沙汰してます」
 再会の喜びも人の死の前では風前の灯火だ。二人ともすぐに俯いた。
「本当に急なことで、残念だったね。退職したとは聞いていたんだけど……」
「本当に」
 語る言葉ももはやない。喪失が二人の中から言葉を奪う。
 一言二言会話して、二人は別れた。

 もう二度と会えないならば生きていようが死んでいようが変わらないと思っていた。当たり前だけれどそんなことはない。生きていればこうしてまた巡り合う奇跡だってある。死んでしまったら二度と会えないのだ。何一つ確かなものなんてないこの世界で氷のように冷たい絶対的な事実。
 死にたいと何度も考えてきた。行動に移したことだってある。けれどその本当の意味すら考えず、単なる現実逃避の手段として用いていたに過ぎない。
 最後にこんな当然のことを教えられる事になるなんて。

――何で死んじゃったんだよ。先生。


 その後、田宮が先生の葬儀で暴力沙汰を起こしたという噂がめまぐるしい速さでクラスを流れた。








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*おまけ*


 今の自分はどうなんだろう、と花枝は考えた。先生に会いたい、話をしたい、と思っていることは事実であるが、果たして霊魂として現れてまで会いたいと思っていただろうか。魂とか神様だとか、そういうあやふやなものを信じるのはとうの昔にやめている。自分の価値観を壊してまで幻想の存在を望むほど今の自分は彼を欲しているか?

 けれどもし、もし万が一自分の知らない未知の世界があったとして、今この扉の向こうに先生が居るとしたら

 それを欲している人間がいる。
 彼の喪失に心を痛めている人間が居る。
 どんな形であっても先生が戻ってきてくれたら、一目でも見ることが出来たら、彼女は元に戻ってくれるかもしれない。
 田宮が以前の田宮に戻ってくれるかもしれない。

 あの太陽の微笑が戻るのであれば、手前の下らない価値観や信念なんて掌を返すがごとく捻じ曲げることも厭わない。自分を暗い海の底から救い上げてくれたあの光、今度は自分がその光を闇の底から救い上げてやりたい。
 すがりつくような気持ちで扉を開けた。


 (でも、正直今までの「おまけ」の流れがあるから先生が居ても驚けないな……。)





『はずれ by暮凪』



「ジジイ!!!!!!!!」