ハナミチ 27



 田宮が葬儀に参加する事は聞いていた。花枝も参加する意思だけはあったが、美大とはいえ受験生の身である。一応模試には参加しなければならない。
「大丈夫だよ。私一人で行けるから」
 力ない微笑みは花枝の心の奥にできた小さな傷に沁みる。自分は必要とされていない。彼女の孤独は頑なな壁に守られて何人たりとも寄せ付けようとしない。
 そう、昔からそういう女だった。柳瀬川に絡まれていた時からそうだった。誰にも迎合しない。誰にもすり寄らない。真意を打ち明けない。先生と自分だけが例外なのだと、そう思っていた。
 実際はそうではなかった。先生以外の誰一人例外などいなかった。

 噂の内容はこうだった。
「葬儀に出た田宮は暮凪の娘と口論になり、顔を殴りつけた。騒ぎを聞きつけた葬儀の参加者に取り押さえられた」
 噂なので全治三か月の重傷を負わせたとか、刃物を持ち出したとか、そういう尾鰭も付いていたがそういう物を取り払うとだいたいこういうような経緯が浮かび上がる。
 確かに暮凪の娘は嫌悪の対象となるような印象だったが、だからと言って何故そんなことになったのだろう。その噂自体が真っ赤な嘘ということも考えられなくはない。が、現状田宮とは一切連絡も取れず登校もしていない辺りそれなりの信憑性はあるだろう。
「田宮さんの事何か知らないの?」
 普段は挨拶もしないようなクラスの人間が憂慮という仮面を被って話しかけてきたが、口からは絶えず悪臭のする好奇心が漏れていた。
 とはいえ何も知らないことを明らかにすることはできない。獲物がないと分かればハイエナはすぐに去っていく。
「それでも本当に友達なのかしら」などという捨て台詞も吐かれたが、もっともすぎて反論の余地もなかった。
 まったくもってその通り。一体自分は何をしているんだろう。
 自分は田宮に助けられたのに田宮が苦しんでいる時には何もする事ができないなんて、何とも愚かなことだった。

 そして、もっと愚かなことに花枝は自分がひどく傷ついている事に気付いてた。かつて美術教室の先生を心の拠り所にしていたように、田宮にすがって生きようとしていた。彼女の隣が自分の居場所なんだと思い上がっていた。
 教室も、準備室も、もうどこにも居場所はない。
 誰かにすがる生き方はもうやめると決めていたはずだったのに。人はやはり他人の中でしか生きられない。孤高に逞しく生きていく事はなんと難しいのだろう。

 結局田宮の事については担任からは「体調不良と連絡が入っています。それ以上の事はわかりません」とだけ報告された。それが却って生徒たちの良い娯楽になったのだろう。休み時間のたびに教室のどこかで田宮の名前が聞こえてきた。
 下唇を噛み、不甲斐ない気分を三日ほど味わった。

 教室のドアから入ってきた田宮は不機嫌そうであるもののいつもと変わらず、堂々とした態度だった。
 一瞬のざわめきはあったが、直接何があったかを問い質そうとする蛮勇にあふれた者はいないようで、お互いがお互いを目くばせしたりひそひそと何事かをささやいたり、まさに腫物に対する扱い方そのものだ。
 花枝は真っ先に立ち上がり、教卓のすぐ前にある田宮の席へ向かった。
「田宮」
「おはよう、花枝ちゃん」
「……体調、悪かったんだって?」
「メール返せなくてごめんね」
「それはいいけど……」
 質問はするな、ということなのかもしれない。何にせよ衆目の前で事情を説明させる気はない。
「授業、ボイスレコーダーで録ってあるから後でやるよ」
「普通ノートのコピーなんじゃないの?」
「あたしのノート汚いから」
 田宮は少しだけ笑った。少しずつ取り戻せていけたらいい。こんな繕ったような笑顔ではなく、心の底から笑えるように。たとえすぐに叶わなかったとしても、いつか笑って話せるような日が。

「汐見さんってほんッと使えないのね」
 柳瀬川。平穏を壊すのはいつもこの女だ。
「おはよう田宮さん。お久しぶり。体調はもう回復したようね」
 芝居がかった気に障る声で田宮の顔を覗き込む。田宮は何も見えていないように虚ろな目で正面を向いていた。
「ねぇ田宮さん。この前あいつの葬式に行ったんですって? 随分と律儀なのね。私たちの恩師の葬式にまで出るなんて。クラス委員として私もお礼を言わなきゃいけないくらいだわ。面倒な仕事を自ら引き受けてくれてどうもありがとう」
 道化の大仰な身振りに周囲の生徒はくすくすと笑い始めた。面白いショーが始まったとでも思っているんだろう。冗談じゃない。舞台に無理やり上げられ、箱の中に閉じ込められ、鋭い剣を刺されて無事で済むわけがない。
「柳瀬川、やめろ。冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろうが」
「冗談じゃない。私はクラスの代表として聞いているの」
「興味本位の間違いだろ。いい加減にしろ」
「ねぇ田宮さん。学校中であなたの事噂になっているの。あいつの娘さんを殴ったって本当? 公じゃないけど自宅謹慎だっていうのは本当の事なの? 進学先の大学はこの事を知っているの? 推薦で合格したんでしょう? 暴力沙汰なんてことが公になったら推薦はどうなるの? ねぇ、私推薦とか考えたこともなかったからわからないの。教えてよ」
 小さな笑い声が教室中からあふれ出る。大きな地震が来る前触れのように静かに静かに震えが伝わってきた。
「お前いい加減にしろ」
 花枝は柳瀬川の肩を掴む。しかしその手はぱっと払われた。お前は口出しするなと言わんばかりに鋭く眼光を光らせた。
「汐見さんだって本当は気になるくせに」
「だからってこんなやり方があるか」
 頭に血が上る花枝とは対照的に柳瀬川はあくまでも冷静だった。狡猾に田宮の事を陥れようとしている。獲物を狙う蛇のようにじりじりとにじり寄る。
「勘違いしないで。私はこんな隠れてこそこそ噂話をされるような状況は田宮さんにとっても好ましくないと思っているの。それなら今ここで、みんなの前で本当の事を言えばいいじゃない。中途半端が一番噂を加速させるの。事実が明らかになればあなたの事なんてみんな興味なくすわ」
 田宮を守ろうとしているのかそうでないのか、いや、考えるまでもなかった。柳瀬川が田宮を擁護するわけがない。こいつはただ自分の鬱憤を晴らすためだけに吊し上げているに過ぎない。何故? どうしてここまでするんだ。先生はもういない。それでお前は十分だろう。大切な人を失った私達が滑稽で嘲笑いたいなら嘲笑えばいい。だけど、こんな状態の田宮を痛めつけて何が楽しいんだ。

 花枝は怒りに震える自分を抑えるため、奥歯を噛み拳を握りしめた。
「ねぇ、教えてよ。どうして殴ったの? 何か言われたの?」
 田宮は表情一つ崩さなかった。まるで人形のように一点だけを見つめ、大人しく着座している。
 それが気に食わなかったのだろう。柳瀬川は少し攻撃の方向を変えた。
「あいつのため? あいつのお嬢さんだから殴ったの? どうしてそこまであいつに入れ込むの?」
 田宮は答えない。
「私ずっと気になってたの。どうして田宮さんってあいつの肩を持つのかなって。だって私たちが無視を決め込んだ途端仲良くしたみたいじゃない? だから私は当てつけでやってるんだって思ったの。反抗心っていうの? 私たちがやる逆の事をやりたいんだって。あるいは正義感? 道徳に反することはしたくない? でもなんかしっくりこなくて」
 毛先をくるくるといじりながら、致命傷を探る。
「――もしかして田宮さんってさ、暮凪とデキてたんじゃない?」
 どっとクラスから笑いが沸き上がった。
「何か怪しい雰囲気だなって思ってたんだよね。いやぁ、でもそういう関係だったら仕方ないよね。もしかして浮気相手が本妻の所に乗り込んで修羅場ってやつ? で、つい娘さんを殴っちゃったんだ? あぁ、なるほどねぇ。そういうことかぁ。納得納得」
 話している途中も耳障りな笑い声や「ありえない」などといった否定的な悲鳴が聞こえてきた。
「本当にあんたもあいつもどこまでクズなんだよ。気持ち悪い。こんなに年の離れた生徒に手を出すとか最低。ロリコン。犯罪。学校辞めたのもこれが原因? 教え子に手を出してクビ? やっぱりあいつが死んだのも天罰が下ったんじゃないの? そりゃ死んで当然だよね、あんな奴」
 笑い声はどんどん下卑た物に変わっていく。何ていう冒涜だ。死んだ人間にこんなことを言うなんて、全くの濡れ衣であんな優しい人の人格を貶めるだなんてあっていいことではない。
「やっぱり私のしていた事は正しかったよね。最初から気持ち悪い男だなって思ってたもん。だからあんな奴の授業とか絶対受けたくないし。聞いたって役に立たないよね。あんな社会のゴミクズの話なんてさ。ゴミクズ同士愛し合っちゃったのかな? でもあいつ不能っぽいよね? それともプラトニックなのかな?」
 怒りを我慢する必要なんてない。恩人の名誉を、正当性を、私が主張しなくて誰が主張する。
 柳瀬川は田宮の後ろに回り込み、慰めるように肩を抱く。
「田宮さんも元気出してね? あんな奴と縁が切れて良かったんだよ」
 花枝は大きく息を吸って怒りを爆発させる準備を整えた。
 同時に田宮が立ち上がると、教室から溢れていた音はぴたりと止んだ。まるで真空のような静寂が訪れる。
 田宮の後ろにいた柳瀬川と向き合ったので花枝からはその様子を見ることができなかった。
 そして、何が起こったのかしばらくわからなかった。
 突然教室の中央にあった机が四方に飛び散ったのだ。そこに座っていた生徒は悲鳴を上げて壁側へと逃げた。
 爆発の中心は柳瀬川だった。柳瀬川は顔を抑えながら苦悶の声を漏らし蠢いていた。誰もその状況を理解する事ができない。その目でしっかりと状況を見ていたとしても、そんなはずはないと頭が理解を拒否する。
 田宮が柳瀬川の顔面を殴打したのだ。
 それだけではない。柳瀬川のキューティクルの輝く髪をゴミ袋でも持つように掴み上げ、腹を思い切り蹴り飛ばした。教室の後方まで転げていった。けらけらと傍観していた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて壁に張り付く。田宮は静かに歩いていった。むせながら幼虫のように丸くなる柳瀬川へ更に蹴りを入れ仰向けにひっくり返した。馬乗りになり、強く握った拳を打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。
「た、田宮」
 怒りは純粋な恐怖に変わっていた。張り上げるつもりだった声は弱々しく、足が震えてうまく歩けない。
 このままでは柳瀬川が死んでしまう――直感的にそう思った。
「田宮!」
 振り上げた田宮の腕を掴んだことで、ようやく花枝にもその表情を見ることができた。
 怒っているんだと思った。悲しんでいるんだと思った。
 そうではなかった。

 田宮の顔は無表情だった。柳瀬川の話を聞いている時から一切表情を変えず、何の感情も意識も意図もないまま、柳瀬川に暴力を振るっていたのだ。
 だからきっと誰も動けなかったんだ。怒り狂っていたならばそれは正常だった。誰かが止めたり、せめて人を呼びに行ったりすることもできただろう。けれどこんな異常な光景が目の前で繰り広げたら、誰も正常ではいられなかった。
「もういい。もういいよ、田宮」
 もうだめだ。もうだめだった。田宮はもう壊れてしまっていた。

 ぐっと手を引くと田宮は弱々しく立ち上がり、ぐらりと姿勢を崩しながらも歩くことができていた。
 花枝は自分でも何をしているか分からなかった。田宮をそのまま引っ張り、二人の鞄を手に取り教室を走って出て行った。
 血のぬるりとした感触が残る田宮の手を握りしめ、二人は学校を出た。
 花枝の目からはぽろぽろと涙がこぼれる。それは二人分の涙だった。








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*おまけ*


「田宮さんが暮凪先生のお葬式で娘さんを殴ったんだって」
「らしいね。相手は全治三か月の重傷らしいよ」
「私は刃物を振り回したって聞いた」
「それで会場にいた人全滅したんでしょ?」
「秘められた力が覚醒して会場を火の海にしたって」
「今FBIに拘束されてるって友達の友達に聞いた」
「それがいま銀河系全土を巻き込む戦いに駆り出されているって」

(どんな尾鰭の付き方なんだよ……)