ハナミチ 28



 あの始業式の日、花枝は先生とある約束をしていた。

***

「……、そうだ。約束してくれないか」
「何ですか」
「彼女はきっと君を救ってくれるよ。だけどその彼女はいつかきっと壊れてしまう。彼女は君と同じ高校生の女の子で、支えがなければ生きていくことの出来ない脆くて弱い存在だ」
 それは花枝も理解していた。彼女の純粋な光の宿った瞳はいつか曇り、淀み、潰れるだろう。自分自身がそうだったように。
「だからもし、あの子が壊れてしまったら君が支えてあげてやって欲しい。どんなことがあっても彼女の味方でいて欲しい。それは君にしかできないんだよ」
「買かぶり過ぎだよ。むしろそれは先生の役目だろ?」
 そう言うと先生はゆっくりと小さく首を横に振った。
「僕ではダメなんだ」
「どうして? あいつ、ずいぶん先生に懐いてるじゃないか」
 だからさ。と言った声は小さく、そして嗄れている。
「君は彼女と同い年だから分かってあげられることも多いよ」
「年なんて関係ないだろ」
「関係ある」

 せみの鳴き声が止んだ。

「頼む」
 か細く低く真剣な声色に花枝は思わず息を飲む。
「……先生?」
「あの子を守ってあげて欲しい。君になら出来る」

 勢いに押される形で花枝は頷いた。ありがとう、と言っていつもどおりの笑顔に戻ると先生はそれ以上何も言うことはなく、その場を去った。


***
 先生はもしかすると自分の先が短いことを薄々気付いていたのかもしれない。その時のため、その言葉と役割を花枝に託した。それなのに。
――先生、約束守れなかった。やっぱりあたしじゃ田宮を守れなかった。

 何も考えずに学校を飛び出してしまった。大騒ぎになっているだろう。何ていったって流血騒動だ。本当はあの場所にいて田宮の正当性を主張するべきだった。きっと今頃は柳瀬川の取り巻きが彼女にだけ非があるよう状況を説明しているだろう。何ともありがたい。
 それでも田宮をあのままにしておきたくなかった。間違いだったとしてもこんな悲惨な状態の彼女をそのまま引き渡すわけにはいかない。
 学校から離れてからはかえって目立つので走るのをやめていた。それでも手だけは離さない。
「花枝ちゃん」
 唐突な田宮の声に花枝の心臓が跳ね上がった。
「どこ行くの」
「……何も考えてない」
 その瞳は相変わらず澱んだ水たまりのように生気を失った色だった。息をしていることすら不思議なくらいだ。
「私、先生のお墓に行きたい」
「お墓――」
 火葬が終わってすぐ埋葬するのだと聞いた。しかし花枝には場所が分からない。
「私、場所知ってるから。だから」
 恐らく先日の葬儀のすぐ後埋葬したのだろう。そこまでついて行ったのか場所だけ教えてもらったのか。先生の娘との一件がいつだったのか次第ではあるのだけれど、知っているのならば深く追及するのはやめよう。
「……わかった。私も挨拶したいしね」
 俯くその顔はいつ崩れてしまうか分からない危うさがあった。人の形を失って風に流されていってしまうような、この世界の理から剥がれ落ちていくような。
 花枝はもう一度強く手を握った。言葉はきっと何も響かないだろう。せめてこの手が命綱になってくれたらいい。たとえ藁より頼りないとしても。
 田宮の手は冷たかった。どんどん自分の熱が奪われていくみたいだ。

 学校から離れた私鉄の駅を使って行く必要がある。顔見知りに会う危険性を少しでも減らしたい二人にとっては好都合だった。
 本数は少なかったがタイミング良くホームに電車がやってきた。それは希望の船なのか、絶望の棺なのか。行く末は誰にもわからない。
――たとえどこに行き着くことになったとしても私たちは乗らなければならない。花枝は自暴自棄にも似た使命感だけを胸に乗り込んだ。





 緩やかな傾斜の坂道が真っ直ぐに続いている。道幅はちょうど二人が並んで歩けるほどの舗装されていない道の両脇には針葉樹の林が続いていて、その道に影を落としていた。
 ほんのりと薄暗い空気は乾いた冷たい風が流れており、冬の気配が近づいていた。
 道のりはかなり長く、十五分ほど歩いてもまだ出口が見える気配はない。周りの景色にもそれほどの変化は見られないので、本当に自分達が前に進んでいるのかどうか分からなくなる。二人は黙ったまま歩き続けた。黙り続けていれば空気に溶け込んで、誰にも気付かれず透明になれれば、もう何も悩まなくて済むんじゃないだろうか。誰からも咎められず脅かされず穏やかにいられる。正当化をするつもりはない。けれどもう放っておいてほしいというのが素直な気持ちだった。先生の事はすぐに立ち直れなくても、きっと時間が解決するはずだと信じていたのに。こんなことになってはもう学校にいること自体危ういじゃないか。彼女の今後の人生全てが台無しになる可能性だってある。
 自業自得と言われるのだろうか。あれほど侮辱されても黙っていれば良かったのか?
 それは加害者側の意見でしかない。どれだけ侮辱をされても暴力に訴えてしまっては正当性も何もない。そう。もっと早く自分が何とかすれば良かったんだと花枝は自分を責める。自分ならあそこまで酷いことにはならなかった。精々一発横っ面を殴るくらいで終わっていただろう。
 暴力としては何も変わらないが、精々停学を喰らうだけで済む。推薦で合格をもらっている田宮より、合格するかどうかも怪しい自分の方がまだダメージは少なかった。
 それに、もしも田宮が今回学校を休んでいた理由が停学だったら。先生の娘に対する暴力に関する事だったとしたら。
――恐らく二度目はない。
 自分の不甲斐なさには苛々させられる。どこまで自分は愚かなのだ。
 花枝はあの時、柳瀬川の発する先生や田宮への侮辱に心の底から憤っていた。一方でその心の底を更に探れば、田宮がどのように返答するのかを聞いてみたかったのだ。自分では怖くて聞けないことを柳瀬川が聞いてくれていた。
 否定でも肯定でもいい。田宮が何を答え、あるいはどう反応するのかを知りたいと思っていた。
「先生にひどいこと言っちゃった」
「全部私のせいなの。全部……」
 先生が死んだという話を聞いたとき、田宮はそう言った。
 その答えを聞けていない。だからその答えがそこにあるんじゃないかと、うっすらと期待していた。
――結局あたしも、くすくすと笑って傍観していた教室の生徒たちと同じだったのだ。

 何が友達だ。何が味方だ。何が居場所だ。聞いて呆れる。

 沈黙は続き、呼吸の音と足音だけが騒がしい。

 視界が開けると、そこに墓所はあった。墓だと聞いていなければすぐにはそうだと分からなかったかもしれない。統一感のない墓石がそれぞれ並んでいる。花があるものもあれば朽ちかけているものもある。
 木々がざわめき、二人の到来を噂しているようだ。
 ふらふらと歩く田宮の足が止まり、そこに名前が彫られていることに気付く。

 ISAO KURENAGI


 クレナギ イサオ。暮凪 勇雄。それが先生の名前だった。勇ましく雄々しい。何て似つかわしくない名前なんだろう。しかし名は体を表さないということは花枝が身を以て知っていた。
 先生の事だ。きっと背負わなくてもいいような負い目も背負っていたんだろう。
 涙は出てこなかった。あの人がこの下にいるとはとても思えない。実は全部手の込んだ嘘で、あの木の陰からひょいと現れてくるのではないか、とすら思う。
 死んだと聞いた時から実感なんて一つもなかった。
 これから一生実感がわくことなんてないだろう。心の中で生きているとか、天国で見守ってくれているとか、そういう陳腐な意味でなく、弱っている姿を見たり目の前で死んだりしない限り、訃報が真実かどうかなんてわからない。
 そうやって実感のない真実を突き付けられながら理不尽を飲み込んでいくのが人生だというのか。これから何十年もずっと、何回も何回もこんな思いをしなければならないなんて。
 二人は墓前にしゃがみこんだままずっと動かなかった。語りかける言葉もなく、ただぼんやりと墓石に彫られた先生の名前を見つめているのだった。
 この先の事を考えると体がどんどん重くなる。それでも時間は待ってくれなかった。日暮れと現実はいつもすぐ後ろから這い寄ってくる。
「帰ろう、田宮」
 声にはまだ涙の痕が残っているようで、木の葉のささやきのように掠れた音を出して漏れた。
 田宮は頷き、ゆっくりと立ち上がる。田宮の中で少しでも整理はできただろうか。取り乱した様子はないが、その胸中を察することは難しい。
 いずれ、その傷が癒された時に彼女の口から語られる事になるだろう。それがいつになるのかは分からない。けれど自分には待つことしかできないのだ。雨はいつか止む。夜はいつか明ける。そして人はいつか死ぬ。
 だが今の花枝はそれが詭弁だということをよく理解していた。人はいつか死ぬ。けれど先生みたいにあっけなく死ぬ人もいればいつまでも生きている人もいる。長雨が続く人もいれば一降りして上がる人もいる。夜が白夜の人だっている。
 他人の不幸も知らず、自分の恵まれた人生も分からない人間が「平等」などと宣う。
 まるで世界中の不幸を背負わされているみたいな気分だ。それすらも傲慢なのだろうけれど。

 語るべき言葉もなく、帰りの電車に揺られていた。傾きかけた橙色の日差しが眩しく、花枝はずっと目を閉じていた。
 守らねばならない。彼女を。先生との約束を。
 その為に一体何ができるだろう。こんな矮小な自分に何ができるだろう。

 地元のターミナル駅に着くと、花枝は田宮を駅まで送ろうとした。
「大丈夫。ちゃんと帰れるから」
 目に生気はなくとも、あの暴力を振るっていた時のぞっとする表情ではなくなっていた。提案そのものは田宮のものだったが、二人で墓参りができたことは少しでも役立ったのかもしれない。
「分かった。気を付けてな。また、連絡するから」
 それじゃあ、と手を振って田宮は踵を返し交差点へと向かった。花枝もそれを見送り帰路につく。

 明日からのことは無策だった。武器もなく防具もなく、無防備で戦場に飛び込まなければならない。気分が軽いといえば嘘になるけれど、それでも戦う覚悟はできていた。できていたのだ。


 ブレーキの音と轟音と、悲鳴が花枝の背後から聞こえた。








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*おまけ*


「田宮さんが暮凪先生のお葬式で娘さんを殴ったんだって」
「らしいね。相手は全治三か月の重傷らしいよ」
「私は刃物を振り回したって聞いた」
「それで会場にいた人全滅したんでしょ?」
「秘められた力が覚醒して会場を火の海にしたって」
「今FBIに拘束されてるって友達の友達に聞いた」
「それがいま銀河系全土を巻き込む戦いに駆り出されているって」

(どんな尾鰭の付き方なんだ……)