ハナミチ 29



 すごい音が。女の子が。トラックとぶつかって。信号無視。急に飛び出して。自殺。救急車。誰か。どうして。信号は赤。血が。赤い血がどうした。怖い。早く。救急車。警察。事故。トラック。女の子。ブレーキ。死んだ。制服の。何。高校生くらいの。倒れている。血を流して。誰か。お願い。行こう。かわいそう。自殺。赤信号で。ぶつかって。ぐったりと。死。どうしてこんな。ひどい。惨い。気持ち悪い。

 人込みの中を泳ぐように花枝は走った。人々の声がうるさいはずなのに、花枝には何も聞こえなかった。自分の鼓動の音も聞こえない。呼吸音も聞こえない。夢を見ているみたいだ。
 人の壁の向こうに、道路に横たわる鯨幕の上に、田宮は仰向けに寝ころんでいた。
「        」
 花枝は叫んだ。田宮を呼んだ。出せるだけの声で。今まで出したこともないくらい大きな声で。
 けれどそれはもしかしたら声になっていなかったかもしれない。今の花枝には何も聞こえない。
 無音の世界で叫んだ。たった一人の名を。
「田宮……」
 花枝はそのか細い手を取る。温もりは今朝と同じだ。血の感触までも同じだった。
「花枝ちゃん」
 震える声は花枝の神経が昂っていなければ聞こえもしなかっただろう。弱々しく、けれど振り絞るようにつづけた。
「サンドウィッチを、作ってきたの」
「お前、こんな時に」
「先生と、一緒に、食べようと思って」
「田宮」
「先生、準備室にいるかな……」
「田宮」
 唇が動いた。その声は重力に負けるように彼女の喉の奥へと落ちていった。瞼が閉じ行く様はまるで舞台の幕引きのようだ。

 それからの事は随分と曖昧だった。きっと救急車が来て、花枝はそれに乗って病院に行ったのだろう。けれど絶望に染め上げられた意識は高熱に浮かされた夜に見る夢のようにちぐはぐで混沌としていた。



 卒業式を終えた今でも、こうして隣にいる田宮は大切な人を失った自分が見ている幻覚なのではないかと思うことがある。あれから自分は精神を壊して、現実を受け入れることもできず、大学受験は試験すら受けず、ありえない想像をなぞって生きているのではないかと。
 風が吹けばふとその姿が消えてしまうかもしれない。そんな妄想を振り払うように田宮の頭を撫でた。
「急にどうしたの? 花枝ちゃん」
「ううん。何でもない」
 感触すらも脳の作る幻なのだとしたら、それはきっとこの世界そのものがまやかしだということになる。誰も現実なんかを生きていない。虚構の世界だ。だからきっと、あれからの毎日は確かに存在していたのだと思う。









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*おまけ*


「田宮……」
 花枝はそのか細い手を取る。温もりは今朝と同じだ。血の感触までも同じだった。
「花枝ちゃん」
 震える声は花枝の神経が昂っていなければ聞こえもしなかっただろう。弱々しく、けれど振り絞るようにつづけた。
「そろそろ、このおまけ、あんまり意味がないんじゃないかな……。この話を再開するにあたって、昔とかなりテンションが違って辛いよ……」
「それは言わないお約束」