ハナミチ 30



 ぼんやりとした意識の中で花枝は、自分が病院のソファに座っていることに気付いた。外来は終わっているのだろう。院内は不安になるような静けさで満ちていて、世界から誰もいなくなってしまったみたいだ。
 多くの話を聞いた気がするが、はっきりとは覚えていない。一命は取りとめたとか、頭を強く打っているのでいつ急変するか分からない、とか、意識が戻らないこともあるとか。
 多くの説明を求められた気がするが、答えられたとは思わない。学校でのこととか、今日の事とか、事故の事とか。自分でも整理できていないことを錯乱した状態で説明しろという方が無理というものだ。それを察してくれた人もいたようだが、一体誰だったのかは分からない。
 ともかく田宮の様子を見たい。もう処置も終わっているだろう。立ち上がらなければならない。けれど体に力が入らない。
 死んだことに実感がわかない、と思った。それは死ぬところを見たわけでも死に向かっていく様子を見たわけでもないから、と。だからきっと神様は実感のある死を見せようとしてくれたのかもしれない。ありがとう神様。とても良く分かりました。死とはこんなにも恐ろしく、冷たい。喪失とはこんなにも空虚で重たい。身に染みて分かりました。だからもう良いでしょう? 本当に奪う必要はないはずです。お願いです。自分の愚かさに酔うこともやめます。無力さに打ちひしがれる振りをして現実から逃げるのもやめます。だから返してください。私の大切な人をこれ以上奪わないでください。
 願いは誰にも届かない。世界には数十億人という人たちがいる。それぞれがそれぞれに願って生きている。なのに、こんな時にしか祈らない自分なんかの祈りを誰かが聞いてくれるはずがないのだ。
 それでも祈らずにはいられない。


「花枝ちゃんよね?」
 聞きなれない声に自分の、しかも下の名前を呼ばれたことにはっとした。顔を上げるとそこにいたのはほっそりとした女性が立っていたのだった。年は四十代後半から五十代にかかるくらいだろう。優しい雰囲気のある人だったが、着ているものはあまり頓着していない地味なもので、顔色も優れない。病院にいる人間なんて誰しもそうだろうけれど。
 花枝ちゃん、と呼ぶ見知らぬ人間など、一人しかいない。
「田宮の……お母さん?」
 女性は静かに頭を下げて挨拶する。
「娘がいつもお世話になっています」
 花枝は唇を噛み締めるのが精一杯で、何も返答することができなかった。いいや。しなかったと言ってもいい。田宮がこんなことになった遠因を作った自分に口をきく権利など、きっとない。
 隣いいかしら――と尋ねる田宮の母のために少しだけ横にずれ場所を開けた。
「花枝ちゃん、なんて馴れ馴れしく呼んでごめんなさいね。あの子がいつもそうやって呼ぶものだから」
 それから田宮の母は田宮の事を話し始めた。昔からあまり集団生活が得意ではなかったこと。協調性がなく、周りと衝突しがちだったこと。正義感が強かったこと。友達は少なかったこと。それでも気丈で学校にはずっと通い続けたこと。高校二年になってから先生に出会い、花枝に出会い、楽しそうだったこと。
 そして、先生の死をきっかけに塞ぎ込みがちになってしまったこと。
「今日の事は、もう聞いているんですか……?」
「ちょうど、学校に行って話を聞いた所だったの」
「ごめんなさい」
 自分が浅はかだった。墓参りをしたくらいで少し気持ちが落ち着いたとか、大丈夫だというからそのまま送るなんて何て間抜けな人間なのだろう。あんな精神状態にあった人間がすぐに立ち直れるわけがない。
 田宮の事は自分にとっての太陽だと思っていた。優しい光で温かく照らして包み込んでくれるそういう存在だった。だからといって完全無欠ではない。自らの炎で焼き尽くされている事に気付きながらその熱を恩恵として受け取っていた。
 自分がしたのは赤ん坊を獣の群れに投げ込むことと同じだ。
「田宮は悪くない。悪いのは柳瀬川だ。あいつが先生の事を侮辱したから田宮は怒ったんです。本当なら、あたしがやるべきだった。あたしが怒っていれば、こんなことには」
 寒気がするように震える身体を、田宮の母はそっと抱いてくれた。
「ありがとう、花枝ちゃん。あの子のそばにいてくれてありがとう」
「違います。そばにいるだけじゃ駄目なんです」
 ただそこに居るだけでは意味がない。力になってやれなければ、助けてあげられなければそれはいてもいなくても同じだ。花枝は自分を責め続けた。それこそが単なる自己満足だとしても、他の誰かから責められるのを逃れるための防衛手段だとしても責めずにはいられない。
「どうしてこんなことになっちゃったのかしらね。それは私にも分からない。母親にだってあの子が何を考えているのかは分からない。何を悩んで何を苦しんでいるのか理解してあげられない。けれど花枝ちゃん、そういうものなのよ。友達だからとか母親だからとか、そんな事はないの。痛みって全部自分だけのものよ」
 拒もうと思えばいくらでも拒めた。けれどその温もりに花枝は抗うことができない。
「分かってあげる事だけが大事じゃない。力になることだけが友達じゃない。全てを許す必要もない。間違ったことしたら叱ってあげて。けれど、それでもあの子の味方でいてくれたら私は嬉しいわ」
「私は、友達でいていいんでしょうか」
「二人はきっと大丈夫。私はそう思う。――根拠なんてないんだけれどね」
 子が親を映す鏡と世間は言う。先生の娘の件から懐疑的だったが、なるほど確かに田宮はこの人の娘なのだろう。温かくて優しくて、自分の不安や悲しみを内に隠している。微笑みの奥には冷たく悲しい嘆きが蠢いていることに今の花枝は気付くことができた。

 もしもやり直せるなら、などという不毛なことは考えない。今から、これからを良くする事を考えよう。暗闇の中にも細い道はきっとある。それを見つけるのは自分しかいない。
「おばさん、ありがとうございます。今度こそ、私は田宮の事を守ります」
 自分に確認するように花枝は強くまっすぐに決意した。
 お願いね、と田宮の母は笑う。
 入院の準備などもあるようなので田宮の母は一度戻るのだという。もう帰るように言われたが今晩だけでも田宮の傍に居たいと強く申し出て、それを認めてもらえた。

 薄暗い病室。酸素吸入器の音と心電計の音が静かに鳴り響いている。深い眠りの中にいる田宮の顔は安らかだった。このままずっと目覚めなければ穏やかな世界で生きられるだろう。けれどそれが幸せだとは思わない。辛い事があったときはそれが全てだと思ってしまう。しかし自分が見ている世界の外にも別の世界があって、そこで救済が待っていることもある。
 どんな悲惨な現実でも、醜悪な未来に辿り着くとは限らないんだ。
 それを教えてくれた田宮のために、今度は自分が教えてみせる。

 胸ポケットにしまっていたボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。



→番外編「したたる静けさ」
※この回を公開以前に載せていた短編です。30と31の間に花枝が見た幻の話です。
 細かい描写などは異なっていますがそれも含めて幻ということで解釈頂けるとありがたいです。





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*おまけ*


「花枝ちゃん、娘の事をどうかよろしくね」
「あの、おばさん。一つだけいいですか?」
「何かしら」
「おばさんは、田宮の事を何て呼んでいるんですか?」



「それじゃあこの辺で」
「待て」
「何でも良いじゃない。そんな細かいことはどうでも良いことだわ」
「細かいことだな。でも一言で終わる。それで、あんたは娘の事を何て呼んでいるんだ?」


「た、田宮ちゃん」
「ふざけるな」
「いいじゃない。今回田宮の名前を出さないよう細心の注意を払ったんだからもうスルーしてよ」
「何であいつの下の名前今まで一度も出てきてないんだよ」
「執筆当初は本当に設定されていなかったのよ。ピンとくる名前が思いつかなくてそのまま進めてたら出す機会がなかったのよ」
「今は設定しているのか?」
「あるけどこんなおまけで公表なんてしたくないでしょう」
「確かに……」