春が終わり、雨の季節が訪れると、花枝もいよいよ受験に本腰を入れなければならないと受験生らしい生活を送るようになった。もっとも周囲と比べればだいぶ出遅れたスタートだ。 (それまでもデッサンや油彩などを中心に実技試験の勉強はしていたわけで、それも立派な受験勉強だったわけだが) 一方、田宮の方も小論文や面接などが忙しくなり、休み時間に何かの書類とにらみ合っていたり、小論文の手直しをしたりすることが多くなっていた。 もちろんそんな忙しい中でも昼休みや放課後などほとんどの時間を二人で過ごした。だが一緒に居て話す内容は他愛のないものが多く、どちらも終始本題に入ることが出来ないような雰囲気だった。 二人の眺める世界はもうかみ合うことも叶わないほどずれてしまっているようだ。田宮の世界は一方的に閉じられ、どれだけ花枝が手を伸ばそうとしてもそれを拒む。それならばということで一歩引いて様子を見ているけれど、その世界が開く気配はない。 花枝もそのことは良く分かっていた。きっと、あの世界を開く事が出来るのは先生だけなのだろう。 ただ、どうしてそこまで先生に固執するのかは理解できない。 花枝にとっても先生は特別な存在であるし、感謝もしている。けれど先生という存在の欠如だけでここまで塞込むものだろうか? 花枝と向かい合っているときに見せる穏やかな笑顔すら作り物のようで痛々しい。 けれど結局花枝に何が出来るというわけでもないし、花枝は花枝で自分自身の問題にも向かい合わなければならない。 「C判定、ね」 夕陽は山の向こうに沈み、蛍光灯が安っぽく輝く放課後の図書室には花枝の他に誰の影も見あたらなかった。同級生達はきっと予備校か何かにでも行っているのだろう。そういえば学校主催の特別講習があったのは今日だっけ? なんにせよ花枝の独り言が耳に入る相手が居ないのはありがたい。 「これじゃ何の役にも立ちゃしないよなあ」 合格率五十パーセントなんて「合格」か「不合格」ってことだろうに。わざわざ模試を受けたのだから背中を押すか諦めさせるかどちらかにして欲しいのに。もう幾度となく模試を受けているというのに、Bという文字が輝いたことは一度もない。これなら模試を受けないで靴でも飛ばした方が経済的なんじゃないだろうか。せっかく遠い街の美術系予備校にまで出向いたというのに。 「ま、中途半端であたしにはぴったりか」 なるべく小さく折りたたんで、鞄の中へ放り込んだ。 「中途半端じゃだめでしょ」 花枝は細く速く息を吸い込んで、少しむせた。 「田宮…………?」 「いくら実技試験のほうが比重高いからって、ちゃんと勉強しないと受からないんじゃないの?」 「何でお前こんなところに」 質問には答えることなく、田宮は自分の鞄の中から書類が入る大きさの封筒を取り出した。 「何?」 「合格通知」 「何の?」 「大学」 「もう?」 「もう」 恐る恐る封筒を受け取るとずっしりと重い。中を覗いてみると小冊子が数点と書類がいくつか。まさしく『入学手続き』といった空気を漂わせている。 呆気に取られている間に田宮は花枝の隣の席に着いた。 「仰々しいでしょ。そのうち課題も届くってさ」 「ああ。あ、おめでとう……?」 「ちっともおめでたくないけどね」 「いや、合格のこと」 「――――それも」 チャイムが遠くで鳴り響く。 「どういうこと?」 田宮は頬杖をつきながら口の中で二の句をもてあそんでいるように苦笑を浮かべている。 言うべきか、言わざるべきか。言う必要があるのか、言ってどうにかなるのか、言えば変わるのか。 照れているみたいな苦笑いに乗せて田宮は口を解く。 「今更で、何かちょっと言いづらいんだけど」 「うん」 「本当にいいのかなーって思って さ」 「推薦で入ったこと?」 うなずいた。 「別にそんなに引け目を感じるほどのことでもないだろ。お前はお前なりに頑張ったわけだし」 今度は、頷くことはなく、下唇を噛むようにしてうなった。何かを語るでもなく、ただ細くて白い手を組んだり解いたりするだけ。 彼女が今抱えている不安と言うのは分かる。一般からずれて生きてきた自分達にとって、ずれて生きるということはいつまでも慣れることはなく、過去のことについては「仕方がない」と諦めていても、これから先踏み出す際には迷いが生まれる。 本当にこれで良いのか。もっと普通に生きることも出来るのではないか。他人と同じように生きることが。 そう、まるで飛べないニワトリが羽をばたつかせるみたいに。 「ねぇ、花枝ちゃん。花枝ちゃんは美大に行ってどうするの?」 「どうって……」 「美大に行っても芸術家になれるわけじゃないんでしょ。花枝ちゃんは将来何になるの?」 今度は花枝が苦笑した。美大に受かるかどうかも怪しくなった今その質問を答える資格などあるのだろうか。 「正直わかんないよ。絵を描きたいっていうのはあるけど、その先がどうとかは今はまだ分からない」 モラトリアムだ何だとか好きなだけ言えばいい。先のことを考えたくないんじゃない。先のことを考えているからこそ今は自分の好きなことをやりたいと花枝は思っていた。この限られた時間の中、今しか出来ないことを、今やりたいことをやりたい。 もう自分には嘘をつきたくない。逃げることも僻むことも嘆くことも、一生分やってきた。 だから今度は少しでも自分に素直に生きよう、と。 大人になった時振り返ったら無駄になってしまうかもしれない。あの時もっとほかの事を勉強しておきたかったと思うだろう。 それでいい。後悔ならば後の自分がしてくれる。保身も保険も保全も考えない。 そういう生き方をしてみたい。 「大学に進むのは絵を描く理由が欲しいからかな」 「合格は五分五分でもね」 「今のお前にそれを言われると笑えないなぁ」 おどけて言ってみたが 「……ごめん」 田宮の反応は驚くほど固かった。 「田宮……?」 「何で私そんな事言ったんだろう。花枝ちゃんの気持ちも考えないで」 「いや、嘘だって。気にしてないよちっとも」 「私」 「泣くなよ、何で泣くんだよ」 情緒不安定とはこういうことを言うのだろう。田宮は次々とこぼれる涙を必死で拭い、どうしてよいか分からずうろたえる花枝をよそに子供みたく謝罪の言葉を並べ続ける。 「ごめんね。本当に、ごめんなさい」 「………………」 先生の馬鹿野郎。田宮の頭をそっとなで、窓の外の夕陽を眺めて思った。 何も出来ないあたしも、十分馬鹿野郎ではあるけれど。 何も言わない田宮も馬鹿だしあたし達はそう、揃いも揃って馬鹿だった。 →次へ 目次へ戻る 作品一覧へ戻る 茶室トップ *おまけ* 本編とは全く関係ありません。 「ごめんね。本当に、ごめんなさい」 「………………」 先生の馬鹿野郎。田宮の頭をそっとなで、窓の外の夕陽を眺めて思った。 何も出来ないあたしも、十分馬鹿野郎ではあるけれど。 何も言わない田宮も馬鹿だしあたし達はそう、揃いも揃って馬鹿だった。 「馬鹿っていったひとがばかなんですぅー」 「またか!!!!! そして出てくるな!!!」 (ハナミチ18のおまけ参照) |